蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

べラングロージィヒカイト 些細なこと 大腸の痛み

 今朝、大腸の患部が再び痛み出した。もうかなり前に大蒜を油をひいてフライパンで焼いたものだけを食べたことがあり、それ以来激しい痛みが大腸に、体の左下に発生し、それからは幾度も同じ様な痛みが発生している。わたしは左手の数本の指で押しながら、なにが原因なんだろうと思いあぐねた。なにを食べたのだったかと原因を過去の記憶から求めた。こういう痛みが生じるような刺激的な香辛料をつかったような食べ物をとっただろうかと思いあぐねた。
Fischstaebchenをマスタードを浸けて少し。しかもあとでは食パンの一切れの中にいれて折って食べている。それから香辛料をたくさん使ってシャンピニヨンを煮て食べた。たぶん刺激剤ということであるならばこの最後の茸しかないと思った。とうとうわたしが死ぬまでこの大腸の患部は自然に治癒できることはないのだろうかと思った。もう三十年来の付き合いとなる。15:49:16

べラングロージィヒカイト 些細なこと 蝦夷リス

べラングロージィヒカイト 些細なこと 蝦夷リス


外気温はバルコニーで、外気温と言う場合にはわたしのこの記述では常にバルコニーの花の傍においてある温度計が示す気温をさすが、現在17℃であった。気温の下がった昨夜から今朝まで葵の白と赤を僅か1ユーロと9セントだったか、買った物をバルコニーに出しておいたが、花は枯れてはいないし、無事ザヴァイバルできていた。午後 03:01:21


 厨房の窓の外で何度も何度もハウス裏手のドアを開け閉めしている者がいるので、トイレの窓から外を窺ってみた。しかし、そこにはもう人影は見えなかった。しかし、思わずわたしの顔が明るく崩れるのを覚えるものがそこにいた。蝦夷栗鼠だった。
 浅い茶色っぽい色の体毛で覆われた栗鼠が何かを齧っていた。その齧る姿がとても可愛い。誰も近くにいないので結構長く同じ姿勢で両手にどんぐりか何かを持ってきちんと座って食べている。やがてコンテナーを隠すための垣根の新緑のしたに移動して何かを拾うように見えたが、こんな窓から顔を覗かせている私を誰かが見ていてはいまいか、そして変なことを言うものがでてこないだろうかと疑心暗鬼してわたしは顔を引いた。

独り言:親から産まれ、より纏まったクローン短編

 『17時…』という短編を書いている途中で、親から子供が生まれるような感じで『牡蠣…』というタイトルと短編がクローン化して頭に浮かんできた。つまりいまはまだ初稿さえも完成していないので、粗筋は頭のなかに浮遊してとにかくそれを文章化しなければならないのであるが、そして書いているうちにこの内容はむしろ親にあたる短編のほうではなく、より子短編の『牡蠣…』のほうが相応しい、ぴったりくるというふうに徐々に頭のなかで見方が変わってきた。


 こんなことって、執筆していらっしゃる他の方にももちろんご経験のあることなのでしょう。わたしとしてはちょっと珍しいケースです。
 いまは親小説のほうの意味が薄れてきてしまうような、そんな恐れを感じ、呆然ぎみの状態です。

イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密

[灼熱の魂]を視聴したあとで、この天才の伝記風に始まった映画を見た。
何かを作り出そうとする者にとっては、この彼のジレンマや焦りは深く感情移入できるところだとおもう。
ところが途中から徐々にもうひとつのテーマがもっこりと頭を擡げてきて、しかし、最後で天才的な英雄であるのに、こんな遅れたモラル、意味のない過去の形骸的な捉え方のためにホルモン療法なども受けるしかなく、いかにそういう形骸化した過去の誤ったモラルが天才を生物的に破壊してしまうか、それが如実に表され、そのへんも上手い構成だとおもった。

『17時…』初稿が完成。とりあえず自己満足。名も知れぬ花。

『火星の人』日本ではなんと『オデッセー』に関してのコメントを書いたら、ナイスという方々が、わたしのブログとしてはたくさんいらして、嬉しい喜びを経験しました。有難う御座います。


 それと、この年齢になって、やっと本当にそういえますが、脱皮、自己克己とまではいきませんが、一種の脱皮に成功して、2018年4月23日の午後5時前に『17時…』の初稿ですが、書き終えました。一週間前の私には想像を絶することです。考え方の転換がこういう自分を齎したと言えます。
 転機が遅い!と悔やまれますが、まだこれから残り少ない時間を使って書くべきことを書いていこうと気持ちを逞しくしてます。
 この転機は文学者として通っているある作家の短篇の読後に、これだったら自分の考えていることも書いていいんだと思ったことからも着ています。


 ひょうんなところから武田鉄哉の言葉を聞いて同感したこともあります。彼は、村上春樹の作品を読んでいて、これなら自分でも書けると思った、というくだりでした。


一週間前ほどに駅の花屋で3,99ユーロで買ったアザレアから新しい枝と葉が生まれ出た。これはなんか嬉しいです。

こちらの紫色の花のアザレアは深く埋め過ぎて陽光が葉っぱにあたらないのか、草臥れ始めてきてしまったようなところがある。うまく育ってくれることを祈ります。


この下の花の名前は知らない。他のベトナム人の花屋、八百屋をかねた、アジア食料品店で2,99ユーロで買ったものですが、だいたい名前もなにも札に書いてなかったのです。尋ねようと思ってレジに並んだ途端にすでに尋ねることを忘れてしまってました。
可哀想な名もない花、名も知れぬ花。
ところで、近代文学作家の表現に名も知れぬ花とか書いている人が多いと言います。