蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

2024-01-28 日曜日

2024-01-28 日曜日


 三時半にはベットインし睡眠をとろうとしたが、そしてそのためにアソスのタブレットで暗記力とか脳力の倍増とか視聴していたが、まったく眠れず、また喉がぜいぜい音を呼吸のたびに立てていた。それで5時半には諦めて起きだした。


 来夏が妻の死後三日目に彼女を居間の中空に認め悲しく恋し気に吠えだし、妻の部屋のドアに向かって次に吠えだし尻尾も体も左右に揺するほど振っていたが、お蔭でわたしも妻が来てくれたことを知った。この事実を描いた作品がわたしのなかでもっとも長い作品となった『愛XXと愛XXX』なのであった。今思うと、リアルに愛犬が妻を見ていること、体験していることを全く書かないでしまっている。それが残念だ。


 今は、まだ深夜というか、朝の六時過ぎで、まだ真っ暗なのだが、三機のモニターはいずれも暗い。それでうっすらと私自身の顔が淡い白色に映っていることがある。その自分の顔をはたとみ、気が付き驚いた。妻がモニターの中からわたしを見つめているような錯覚があったからだ。でも、お迎えの霊魂はこんな待ち方迎え方はしないとわたしは整理している。
 たとえ心臓疾患がまた顕著にでているとしても、それが貧血のせいとかでも、とにかく、まだお迎えにこれれては早すぎる。認められてもいないし、書きたい物が書けてない。それから、自分のHPにもまだこれまで書いたものを立ち上げ得てない。朗読は中編でひとつだけできたが。『漫画を描く少年』
06:17 2024-01-28


 いま、西の空高く小さな満月が結構光っている。意外と強い光量だと思う。
 今日は、散歩にでて、自分が本当に歩けないのか、心臓が駄目なのか突き止めたいと思う。原因がそんなことでわかるかどうかはまったく保証もないが。
 なんでも食べて来たわたしが貧血だということがクリニックではひとつの驚きだったが。
それは、二度目のクリニック入院の時のことで2023年1月13日にタクシーで自分で入院したのだったが、薬を飲んで腹水の水を取り、冷たい血液をワンパック輸血しただけだった。そしてこの入院の時からたくさん薬を服薬するようになった。22年5月の時には渡された薬を飲み終わるともう一錠も飲むようなことはしなかった。それもそのはずで、なんの処方箋も渡されず、一生飲まなければいけないのですよと優しくランカスター女医のように言ってくれる医者は一度目の退院の時にはだれも言わなかった。2022年の五月のことだった。引っ越しをシュタとデリカの不動産会社によって嘘の約束をされてRにしてから4か月後のことだったと思う。引っ越し自体が1月13日ではなかったかなと思う。ちょうど一周年記念にわたしは二度目のノイのクリニックに自分で入院したのだった。もう引っ越しの日付を忘れている。
 06:30 2024-01-28
以前の日記をチェックしてみた。
 引っ越しは2022年1月14日金曜日だった。
06:49 2024-01-28


 散歩の結果によっては、うの月末の仕事をI村に譲ろうかとも思う。うの役員の荒々しい人相の中年男がいつも脇とか後ろから小言をわたしに行ってくるのだが、あれは神経に触る。はっきり言って妨害みたいなものだ。もし、数十メートル歩いて休憩などと言うわたしの歩き方がなおらないということであるならば、変わってもらうしかないと思う。
 でも、変だ。自宅からエデカまで一月前には結構普通に近い速度で歩けたという記憶があるのだから。
 起床後には小尿のあとでもはあはあぜいぜいという感じの呼吸だったので、気が酷く弱くなっていて、RにC区から引っ越していること。そして2022年の五月には二度わたしは死んでいて蘇生処置を受けて救命されたこと、輸血をうけるような貧血者であることなどなどを告白してしまおうかとも思ったりした。でも、かれが本能的に、徹底的にエゴイストで自己中心型思考であるし、人のことは悪くしかとらないのを体験し、見てきているので、告白だけはしてはいけないと思った。私自身がまたまた後悔することになるから。その点ではK鍋とまったく同じだから。


 芙美子の放浪記を再びよ見始めた。文章と言う物を殆ど最近は読んでなかったから。人の文を読むと言うのも疎かにしてはならないと思うから。
 もっとも、執筆中には読む気にならないという相関関係もあるのかもしれないと思う。読書への餅がきえるのだろうたぶん。


07:01 2024-01-28
八時半弱の時間まで芙美子を読んだ。これからちょっと横に課と思う。
08:24 2024-01-28


 やっぱり眠れない。仰向きはもちろんだが、横向き、横臥も駄目だ。やはり腹水で呼吸が圧迫されて眠れないことと、少し動くだけでも激しい呼吸、忙しない呼吸をしなければならない。それは貧血の証拠だと思う。
 血を輸血をせずにふやすためにYTでならない直そうと思う。
09:04 2024-01-28


 I村氏にスマホで月末のトランスフェアーと半日観光の仕事と二月の第一日曜日の50ユーロまでタクシー代がでるという早朝のトランスフェアーを引き受けてもらった。およそ200ユーロほどの仕事だったろうか。
 貧血がおそらく原因でまともに私はあるけない。だから、彼にやってもらうしかない。
 月曜日には鉄の薬とか薬局に階に行こうと思う。そしてYTで見た説明も整理しメモしておきたい。
08:29 2024-01-29

2024-01-27 土曜日 モーツァルトの誕生日とアウシュヴィッツ解放

2024-01-27 土曜日 モーツァルトの誕生日とアウシュヴィッツ解放 Tag Befreiung von Auschwitz Mozart誕生日


八時と11時に起床。外気温は7度。珍しい! 陽光が横からという感じで部屋にも注ぎ込んできている。


 月末と2月の初旬にトランスフェアーの仕事が入っている。あまり収益にはならないが、やるしかない。今回も酷い肉体労働かなと危ぶまれたが、空港ではポーターが雇われているらしい。ホテルでは30ッ個以上の重いスーツケースを運ばなければならないが、心臓の手術をし、入院の事後経過から筋肉が消滅し、足腰も弱いです、なんて言えない。だから頑張って見せるしかないだろう。他の男性ガイドと話をすると、ホテルにもポーターがいるのだし、ガイドの仕事ではないと言うことで初めからやらないそうだけれども。添乗員とかお客の視線がきになり、肉体労働を心臓に鞭打ってやってしまう。ここでまた同僚から言われるかもしれないが。
 「なんだ、みんな手前が悪いんじゃねえか。心臓麻痺か、心筋梗塞で死ぬんだったら自業自得と言うもんだよ」
 と。
 卵もなくなってきたし、近くのスーパーにこれから行こうと思う。
 14:30 2024-01-27


 やはりこれまでの経験もあり、土曜日の午後ではもいう終末のために値段を下げた肉などはすでに売り切れとなっていた。土曜の午前中にはいかないと遅いのだ。家庭の主婦はみんな午前中に行くのに違いなかった。でも、ワンパックだけ、明日の日曜日に賞味期限がきれるということで値段の下がった牛とポークの細切れ肉があった。
 クリスマスのチョコレートはたくさん残ってゐて、みんな半額になっている。品もリント社のとても質の良いものだ。だが、闘病病のわたしはその場はいつも通り過ぎる。肉はこれまであまり手に取らなかったが、やはり動物性たんぱく質はとらなければならないと勧めるYTをよく目にするから、工夫して食べようとおもっている。


 今日と言う日がアウシュヴィッツ解放の日なのでどんな映画がネットでみられるかなとチェックした。おかげで、深夜まで視聴録画していた。唯一録画できる素晴らしいソニーを使って録画していたが、流石にストライキでもされたのか、録画出来てなかった強制収容所、いや、イタリアの屋敷に住み、最後はイスラエルにいくということで、スイスに入れて貰ったユダヤの子供たちの映画があったが、録画できてなかった。また、明日にでもどこかで放映されるのではと思うが、見たからいいかと言う気持ちでもある。


 気になるのは、NPスーパーへの往復の道で、わたしのなにが原因なのか、息切れはするし、ゆっくりしかまたあるけなくなった。40mもあるけば止まって休憩しなければならない始末だ。もう死ぬのかもしれないと思ったりもする。だから、最近の大晦日からの日記を全部蝦夷栗鼠日記に移して公開するようなこともした。
 だが、死期が近づいているとしたらおかしいことがある。それは、誰もわたしを亡霊として迎えにくるような訪問をまだしていないということだ。上階のやーさんの居間にも見知らぬ?影が椅子にじっとすわっているとか、日本ではあるお婆ちゃんが死ぬ前に家の庭の前で子供とか見知らぬ?人たちの影が遊んでいたり座っていたりするのが見えたとかいう話をきいていた。わたしは、というか、愛犬のゴールデンレトリバーが死の三日後にわたしの妻、愛妻が住居に訪れてきてくれて、愛犬の来夏があたかも眼前にあらわれてくれているのをリアルにみてでもいるように、なにかはなしかけられてでもいるように毛足の長い尻尾をビュンびゅうんふって恋い焦がれるような吠え声を中空に向かって投げていたのを経験した。わたしには認める能力がなかったが、愛犬がリアルに捉えて反応してくれた。
 そんなわたしでも死ぬ時にはやーさんとか日本のそのお婆ちゃんのように黒い影でしかなかったとしてもお迎えに来る、来た人をみるのだと思ったりする。
午前3時半にはベットインした。
05:57 2024-01-28

2024-01-26 金曜日

2024-01-26 金曜日


 昨夜は赤ワインCSを200CC程度ハンバーグのあとで飲んだ。そして午後9時にはベットインしていた。ソニーは休憩状態にしていて、また15分とか、20分も経過したら起き上がってソニーのモニターをみることになるあろうとおもっていた。が、起床したのは午前4時半だった。良かったのは眠る積りにはまだなってなかったのに歯を磨いて置いたことだった。
 日記をつけていたのでいつ頃ベットインしたのかしったのだが、7時間は眠れたみたいだった。しかも十分に寝た証拠に夢を見て起きている。
 わたしは初夏か早春の外が明るい感じのバイエリッシェシュトラーセの住居の半ば開いたバルコニーへのガラスドアの内側から道行く人、菩提樹の街路樹とわたしとダークマーが、そして来夏が済んでいた住居の間の歩道を歩いて行く若い女性がいた。嫌な、たちの悪い髪のブリュネットで首までしかない黒縁眼鏡をかけているような、もう女であること、女としての身嗜みとか心構えを捨てた怒りっぽく凶暴な中高年の女性などは独りも見えなかった。若い十代か20代前半の明るい長袖のセーターとかブルージーンズで軽快にあるいていく女の子のなかには明るい毛並みのワンちゃんを連れて歩いている娘っ子もいるみたいだった。わたしがバルコニーにはでてないが、住居の内側から外をぼんやり窺っているのに気が付いてか、中をちらりっと一瞥するか、どんな人が外をみているのだろうという好奇心から覗いていく娘っ子もいた。
 家のなかにはそれほど家具はなく、段ボール箱が積み重なって倉庫のような見苦しさをもっているのでもなかった。
 赤ワインのせいだろう、体調は良い感じだ。夾雑物は流されたような気がする。大した量をのんでなかったのだが。それと同じようにそこの住居も通りやすく、見苦しい感じではなかった。だが、わたしは独りだった。
 ダークマーは最初はいたようだったが、夢の終わりの方では住居内には私一人しかいなかった。それで目が覚めたのかもしれなかった。


 最後に残った一本の醤油がどうしても甘い。焼き鳥のタレとまではいかないが、はっきりと甘い味付けになっている。これだったら、冷凍庫に入っている七面鳥をその醤油で食べても良いと思ったが、二月の第一土曜日には醤油も買わなければと思った。烏賊も買いたい。納豆も残り少ない。半分づつしか食べてないのに。
 04:58 2024-01-26


 思い込みと言うのはやはりあるもので、わたしは久しぶりの仕事ウエラがいつのまにか29日にやってくると思い込んでしまっていた。その間幾度も月末の31日であることも確認しているのだが、ふと気が付くと29日と思い込んでいて、今日からあと三日後だと数え、日付が迫ってきたし、短い。でも、出来る限り気を取られずに前日辺りまで日本語による創作『22歳の放浪記』を書き続けたいと思ったのだった。
 だが、いま、カレンダーを見て、29日にはなんの鉛筆による書き込みがなく、31日であることを思いだしたのであった。ツアー番号とか、到着の飛行機番号などが31日には記録してあった。これも、いつも遅刻を恐れるインスティンクトから来ているのかもしれないと思った。
 数日前には、8時にはホテルに行ってなければならないのに、起きた時に時計をみると5分前で到底間に合わない遅刻という悪夢もみていた。何をつかっても間に合わない起床時間だった。
 夢から覚めて思ったことは、あんな時にはとにかく添乗員とかお客を安心させるためにホテルに電話をいれること。また、できれば空港のバス駐車場でミートしましょうとでも内容を変えることを思った。
 もちろん、絶対にあってはならないことだ。目覚ましは最低二つはセットしておかなければならないし、早朝には起床するという習慣を今のようにつけなければならないと思った。
05:14 2024-01-26


 正直、まだ寝たりないようなきがするし、住居内が寒い。暖房をほとんど切って寝ているから当然の帰結なのだが、でも、上記のこともあるし、早朝から活動することに自分の生活習慣を変えたいから、頑張って起きていようと思う。外はもちろん、真っ暗だ。
 コーヒーを作って飲もうと思う。
05:19 2024-01-26


 昨夕は行き成り番場過言権という大きな音声がどこやらか明確には分からないが私のこの二階にまで聞こえ響いて来ていた。白と黒の斑のブルドックがいつもわんわん吠えるのに任せていて、ドアがあくとコリドアーから階段上階まで不快な、吐き出した煙草の煙が這い上がる、一階左下、つまり南側の若い夫婦の住居から響いてくるものと思えた。でも建物が比較的新しく堅固なので、そんなにここまでは届かないし、たまーにだろうからわたしは何とも思わないが。
05:29 2024-01-26


 2022年の1月13日にルードーに引っ越してきて五月には睡眠中に心筋梗塞を起こし(わたし自身の推定なのだが)滅茶高い金額をあとではらうことになる救急車でノイケルンのクリニックに搬送してもらった。一発ステントを冠状動脈に入れて貰い、その翌日だったろうかEntlassenということになったが、すぐにはタクシーも見当たらないし、この場所がどのへんなのかまったく分からないので玄関の円形の人口皮革のベンチに座った。そこまでは覚えているが、あとは意識を失って全くおぼえていない。それが二度死んだわたしの経験であったのだが、あとでもちろん知ることになった。若い丸顔のブリュネットの髪の女性医者が、その頃のことをちょっとわたしに教えてくれた。名前がききとれなくて、わたしは彼女をランカスターと懐けているが、写真を一葉だけとらせてもらったのが良かったと思う。
 数日前にエデカに行った時に、やはりその徒歩での往復にほんとうにゆっくりとしか歩けなかった。また、書斎の椅子から15mもないトイレにおしっこをしにいったあとで、わたしはぜいぜいはぁはぁ胸を使って呼吸を忙しなくしている始末であった。
 わたしの自己診断では、貧血であり、その症状であるが、検査もなにもしてないから実際のところ、本当のところはわからない。またもうひとつステントが冠状動脈に留置される手術がなされないといけないのかなと思ったりもする。
05:39 2024-01-26


 これも私のぼんやりしているところで、今改めて年を、見直してみると、パリに行っていた六週間の二月にわたしは23歳を迎えていた。日本のニュー三喜にいた時にすでに22歳になっていたので、随分長い22歳だなと言う疑問はもっていたが、兄夫婦が40年前に送ってくれたカレンダーは1979年であり、その二月にパリにいたことをわたしは色鉛筆で一本の線で塗っていた。それだけの記録だが、お蔭で、23歳を迎えていたことを知ったのだった。
 22歳で小野寺さんとも淡い付き合いを終え、日本をあとにし、アエロフロートでフランクにやってきて、ハンブルクにやがて移ることになり、ウルツンのユースに入ったということなのだった。しかも二三度ユースをでることにもなってしまっていた。最後のウルツンからの出発が二月だったのだ。まだ22歳のときだった。だから間違いではないが、パリでは23歳になっていた。
 林芙美子の放浪記も語り手のそのときの年齢は22,3歳だったと思う。となると完全にわたしとかさなってしまうし、『22歳の放浪記』では、わたしの実際のそれとは合わなくなってしまう。じゃ、どうするか? わからない。また、あとで考えることにしてもいっこうに問題がないことでもあろうと思う。
05:50 2024-01-26


 『孤独の放浪記』『僕の放浪記』『西欧放浪記』


いくつかタイトルの改定案がでてくる。焦らずにそれはまとうと思う。
05:52 2024-01-26
『22歳の放浪記』は語呂も良く気に入ってはいるのだったが、惜しい。23歳は、なんかもう大人になってきているような感覚があり、放浪記という題名の限定には相応しいとは僕には感じられない。22歳は、音声、メロディーも語感も良いし、少年から壮年に代わるぎりぎりの位置というふうに私には感じられるから。


 中年には更年期障害とかで、更年期という言い方があるが、若者のその時期にはなにがあるだろう。言い方がないかもしれない。敢えて言うならば、模索期とでも言うべきか。
 求道ではない。思春期は、もう終わっている。わからない。
 放浪記、はもう林芙美子女史が使っている、だから他を考えなければならないのだが。
06:01 2024-01-26


 『二十二歳の放浪記』に留まっても良いかもしれないと思う。
 ダークマーとベルリンで逢引し、そこで年齢の話になり、最後の文句に、


 「僕は、いつのまにか二十三歳を迎えていた」


 とするのも良いかもしれないと思うから。23歳は成人の年齢というわたしのなかの感覚から、そう書いて締めても良いと思う。
 06:07 2024-01-26


 誕生日を迎えたのは本当はパリでのことだったが、まったく気が付かなかった。毎日が大変だったから、そんな自分の年齢など考えている余裕はなかった。それが正直なところだった。それはウルツンに戻ったときにも同じだった。決して楽な日常では心身ともになかったから、まったく自分の年齢など意識してはいなかった。
 ダークマーに、女性に年齢をふと、ぽっと訊ね、自分の年齢もそのときに自分に訊ねて初めて、ああ、僕はいま、23歳なのだと思ったぐらいの意識だった。ダークマーには年齢を聞いて悪かったと思った。彼女は34歳だったから。でも、それは私はきにしてはいなかった。目前に同じ部屋のベットの白いシーツにくるまれた彼女の素晴らしい体と美しく整った顔にこれが今現実なのだろうかと、それだけで胸の中は一杯だった。


 創作が今朝は進んでない。日記ばかりを書き綴っている。
06:13 2024-01-26


 日記と言えば、平安時代に有名なものがいくつもあり、なんか、それが日本独特?だとはわたしはおもわないのだが、私小説の源泉であるような気がしている。
 物語を描くにはいろいろ考え込み、練り込むという苦労が伴うが、日記はその時その時に感じたことを書き記す、いわゆる感情の垂れ流し(嫌な言葉、表現だが)である。だから、書きやすいし、本人にはとても大事な事柄だ。それは読む人の心を打ったりもする。それも思えば当然のことだろう。そこに日記文学の命もあるのだとも思う。直接、直球に訴えかけてくれるという日記の形式が人の心を鷲掴みにするということだと思う。
 自分の日記を日記文学として考えたことはまずこれまでもなかったが、価値のないものでもないと今思う。


 でも、わたしの『22歳の放浪記』は『放浪日記』というタイトルには変更したくない。2月X日とかいちいち書くのに、それほど意味があるとは思えないから。それが歴史的な史実と比較したいのなら、それでより価値が上がるのなら、意義があるのなら別だが。たとえばアンネ・フランクの日記などのように、彼女は少しは外の、ヨーロッパの情報を知っていたようだが、そして読む読者は完全に知っていて、そのうえで彼女の狭い隠れ家での記述を自動的に比較対照して読んでいるのだが、わたしのちっぽけな、でもわたしにとっては重要な体験は、今の平和な、一日ごとに状況がかわる世界大戦中の世界情勢のなかにいたアンネたちの彼女の書くにっきとは違うものだ。


06:19 2024-01-26

2024-01-25 木曜日

2024-01-25 木曜日


 頭の中で、バスや地下鉄に学生を載らせて観光していた。それを幾度も繰り返して辞めることができなかった。もう妄想であった。1月末のウも2月末に来るボーデと旧博物館のBVGと徒歩観光の情景が幾度も頭のなかに展開する。
 ましてやウのディパーチャーでは、朝六時の出発である。タクシーをやはり使わなければ無理かなとも思う。もし地下鉄七号線で工事中とかで臨時バスに変わったら、もうそれで遅刻してしまう。この前は、どこに補充バスが停留所があるのかまったく分からなかった。そんなことがあったら遅刻だから、不味い。


 午前3時に起床したが、殆ど寝てない。腹水で胸がキツク、呼吸が困難。水分を取らないように寝る前には工夫しなければならない・・・・・・
 朝から強風であったが、深夜も同じだ。よく枝が飛んで来て窓を破壊しないと思う。


03:21 2024-01-25


 ということで、24日は全く執筆できなかった。
03:24 2024-01-25


 七時半。やっと空が白みかけた。林芙美子の放浪記を音声のみ録音しながら、聴きながら、創作もできた。カイザー・ヴィルヘルム記念教会に到着したところまで書いた。
07:38 2024-01-25


9時半、そして11時半に起床。
 午後1時半にハンバーグの肉だけ三枚焼いたのを食べた。冷凍にしておいたせいか、そんなに上手いとも思えなかった。
 風呂に入ったが、熱いお湯はどう給水ヒーター?のダイヤルを最高に捩じっても駄目だった。ぬるい湯しかでないのであった。参った。長い湯に浸かることができなかった。



 それからアーテで午後2時15分からロッキー1を視聴した。この作品の一番良いところは、エイドリアンへの愛だと思った。最後に彼女の名を叫び、愛していると言って抱き合うことでパーフェクトだ。
純愛は人の心を打つ。
17:30 2024-01-25


 起床後には創作をまだしていない。続けられると今日は思う。
17:47 2024-01-25


 午後八時過ぎまで創作ができた。まだまだ続けたい。
20:24 2024-01-25

2024-01-24 水曜日

2024-01-24 水曜日


 腹水で眠れず五時にはベットから離れた。ずっとタブレットでごろ―デラックスなどを見ていたが、殆ど眠れてない。
 06:20 2024-01-24


 愛子様、内親王が日赤に就職。コロナ第十波が増えていると言う。いつまでも解決しない伝染病。


15時 半納豆と8錠
18時半 手巻き鰯海苔


 20時15分 スキャンダル日記 ケイト・ブランチェット主演


 ベットイン23時半


 今朝の深夜と同じくタブレットでごろ―デラックスなどを視聴。
 殆ど眠れず。腹水のせいで。
 午前3時起床。
03:14 2024-01-25