蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

2024-01-26 金曜日

2024-01-26 金曜日


 昨夜は赤ワインCSを200CC程度ハンバーグのあとで飲んだ。そして午後9時にはベットインしていた。ソニーは休憩状態にしていて、また15分とか、20分も経過したら起き上がってソニーのモニターをみることになるあろうとおもっていた。が、起床したのは午前4時半だった。良かったのは眠る積りにはまだなってなかったのに歯を磨いて置いたことだった。
 日記をつけていたのでいつ頃ベットインしたのかしったのだが、7時間は眠れたみたいだった。しかも十分に寝た証拠に夢を見て起きている。
 わたしは初夏か早春の外が明るい感じのバイエリッシェシュトラーセの住居の半ば開いたバルコニーへのガラスドアの内側から道行く人、菩提樹の街路樹とわたしとダークマーが、そして来夏が済んでいた住居の間の歩道を歩いて行く若い女性がいた。嫌な、たちの悪い髪のブリュネットで首までしかない黒縁眼鏡をかけているような、もう女であること、女としての身嗜みとか心構えを捨てた怒りっぽく凶暴な中高年の女性などは独りも見えなかった。若い十代か20代前半の明るい長袖のセーターとかブルージーンズで軽快にあるいていく女の子のなかには明るい毛並みのワンちゃんを連れて歩いている娘っ子もいるみたいだった。わたしがバルコニーにはでてないが、住居の内側から外をぼんやり窺っているのに気が付いてか、中をちらりっと一瞥するか、どんな人が外をみているのだろうという好奇心から覗いていく娘っ子もいた。
 家のなかにはそれほど家具はなく、段ボール箱が積み重なって倉庫のような見苦しさをもっているのでもなかった。
 赤ワインのせいだろう、体調は良い感じだ。夾雑物は流されたような気がする。大した量をのんでなかったのだが。それと同じようにそこの住居も通りやすく、見苦しい感じではなかった。だが、わたしは独りだった。
 ダークマーは最初はいたようだったが、夢の終わりの方では住居内には私一人しかいなかった。それで目が覚めたのかもしれなかった。


 最後に残った一本の醤油がどうしても甘い。焼き鳥のタレとまではいかないが、はっきりと甘い味付けになっている。これだったら、冷凍庫に入っている七面鳥をその醤油で食べても良いと思ったが、二月の第一土曜日には醤油も買わなければと思った。烏賊も買いたい。納豆も残り少ない。半分づつしか食べてないのに。
 04:58 2024-01-26


 思い込みと言うのはやはりあるもので、わたしは久しぶりの仕事ウエラがいつのまにか29日にやってくると思い込んでしまっていた。その間幾度も月末の31日であることも確認しているのだが、ふと気が付くと29日と思い込んでいて、今日からあと三日後だと数え、日付が迫ってきたし、短い。でも、出来る限り気を取られずに前日辺りまで日本語による創作『22歳の放浪記』を書き続けたいと思ったのだった。
 だが、いま、カレンダーを見て、29日にはなんの鉛筆による書き込みがなく、31日であることを思いだしたのであった。ツアー番号とか、到着の飛行機番号などが31日には記録してあった。これも、いつも遅刻を恐れるインスティンクトから来ているのかもしれないと思った。
 数日前には、8時にはホテルに行ってなければならないのに、起きた時に時計をみると5分前で到底間に合わない遅刻という悪夢もみていた。何をつかっても間に合わない起床時間だった。
 夢から覚めて思ったことは、あんな時にはとにかく添乗員とかお客を安心させるためにホテルに電話をいれること。また、できれば空港のバス駐車場でミートしましょうとでも内容を変えることを思った。
 もちろん、絶対にあってはならないことだ。目覚ましは最低二つはセットしておかなければならないし、早朝には起床するという習慣を今のようにつけなければならないと思った。
05:14 2024-01-26


 正直、まだ寝たりないようなきがするし、住居内が寒い。暖房をほとんど切って寝ているから当然の帰結なのだが、でも、上記のこともあるし、早朝から活動することに自分の生活習慣を変えたいから、頑張って起きていようと思う。外はもちろん、真っ暗だ。
 コーヒーを作って飲もうと思う。
05:19 2024-01-26


 昨夕は行き成り番場過言権という大きな音声がどこやらか明確には分からないが私のこの二階にまで聞こえ響いて来ていた。白と黒の斑のブルドックがいつもわんわん吠えるのに任せていて、ドアがあくとコリドアーから階段上階まで不快な、吐き出した煙草の煙が這い上がる、一階左下、つまり南側の若い夫婦の住居から響いてくるものと思えた。でも建物が比較的新しく堅固なので、そんなにここまでは届かないし、たまーにだろうからわたしは何とも思わないが。
05:29 2024-01-26


 2022年の1月13日にルードーに引っ越してきて五月には睡眠中に心筋梗塞を起こし(わたし自身の推定なのだが)滅茶高い金額をあとではらうことになる救急車でノイケルンのクリニックに搬送してもらった。一発ステントを冠状動脈に入れて貰い、その翌日だったろうかEntlassenということになったが、すぐにはタクシーも見当たらないし、この場所がどのへんなのかまったく分からないので玄関の円形の人口皮革のベンチに座った。そこまでは覚えているが、あとは意識を失って全くおぼえていない。それが二度死んだわたしの経験であったのだが、あとでもちろん知ることになった。若い丸顔のブリュネットの髪の女性医者が、その頃のことをちょっとわたしに教えてくれた。名前がききとれなくて、わたしは彼女をランカスターと懐けているが、写真を一葉だけとらせてもらったのが良かったと思う。
 数日前にエデカに行った時に、やはりその徒歩での往復にほんとうにゆっくりとしか歩けなかった。また、書斎の椅子から15mもないトイレにおしっこをしにいったあとで、わたしはぜいぜいはぁはぁ胸を使って呼吸を忙しなくしている始末であった。
 わたしの自己診断では、貧血であり、その症状であるが、検査もなにもしてないから実際のところ、本当のところはわからない。またもうひとつステントが冠状動脈に留置される手術がなされないといけないのかなと思ったりもする。
05:39 2024-01-26


 これも私のぼんやりしているところで、今改めて年を、見直してみると、パリに行っていた六週間の二月にわたしは23歳を迎えていた。日本のニュー三喜にいた時にすでに22歳になっていたので、随分長い22歳だなと言う疑問はもっていたが、兄夫婦が40年前に送ってくれたカレンダーは1979年であり、その二月にパリにいたことをわたしは色鉛筆で一本の線で塗っていた。それだけの記録だが、お蔭で、23歳を迎えていたことを知ったのだった。
 22歳で小野寺さんとも淡い付き合いを終え、日本をあとにし、アエロフロートでフランクにやってきて、ハンブルクにやがて移ることになり、ウルツンのユースに入ったということなのだった。しかも二三度ユースをでることにもなってしまっていた。最後のウルツンからの出発が二月だったのだ。まだ22歳のときだった。だから間違いではないが、パリでは23歳になっていた。
 林芙美子の放浪記も語り手のそのときの年齢は22,3歳だったと思う。となると完全にわたしとかさなってしまうし、『22歳の放浪記』では、わたしの実際のそれとは合わなくなってしまう。じゃ、どうするか? わからない。また、あとで考えることにしてもいっこうに問題がないことでもあろうと思う。
05:50 2024-01-26


 『孤独の放浪記』『僕の放浪記』『西欧放浪記』


いくつかタイトルの改定案がでてくる。焦らずにそれはまとうと思う。
05:52 2024-01-26
『22歳の放浪記』は語呂も良く気に入ってはいるのだったが、惜しい。23歳は、なんかもう大人になってきているような感覚があり、放浪記という題名の限定には相応しいとは僕には感じられない。22歳は、音声、メロディーも語感も良いし、少年から壮年に代わるぎりぎりの位置というふうに私には感じられるから。


 中年には更年期障害とかで、更年期という言い方があるが、若者のその時期にはなにがあるだろう。言い方がないかもしれない。敢えて言うならば、模索期とでも言うべきか。
 求道ではない。思春期は、もう終わっている。わからない。
 放浪記、はもう林芙美子女史が使っている、だから他を考えなければならないのだが。
06:01 2024-01-26


 『二十二歳の放浪記』に留まっても良いかもしれないと思う。
 ダークマーとベルリンで逢引し、そこで年齢の話になり、最後の文句に、


 「僕は、いつのまにか二十三歳を迎えていた」


 とするのも良いかもしれないと思うから。23歳は成人の年齢というわたしのなかの感覚から、そう書いて締めても良いと思う。
 06:07 2024-01-26


 誕生日を迎えたのは本当はパリでのことだったが、まったく気が付かなかった。毎日が大変だったから、そんな自分の年齢など考えている余裕はなかった。それが正直なところだった。それはウルツンに戻ったときにも同じだった。決して楽な日常では心身ともになかったから、まったく自分の年齢など意識してはいなかった。
 ダークマーに、女性に年齢をふと、ぽっと訊ね、自分の年齢もそのときに自分に訊ねて初めて、ああ、僕はいま、23歳なのだと思ったぐらいの意識だった。ダークマーには年齢を聞いて悪かったと思った。彼女は34歳だったから。でも、それは私はきにしてはいなかった。目前に同じ部屋のベットの白いシーツにくるまれた彼女の素晴らしい体と美しく整った顔にこれが今現実なのだろうかと、それだけで胸の中は一杯だった。


 創作が今朝は進んでない。日記ばかりを書き綴っている。
06:13 2024-01-26


 日記と言えば、平安時代に有名なものがいくつもあり、なんか、それが日本独特?だとはわたしはおもわないのだが、私小説の源泉であるような気がしている。
 物語を描くにはいろいろ考え込み、練り込むという苦労が伴うが、日記はその時その時に感じたことを書き記す、いわゆる感情の垂れ流し(嫌な言葉、表現だが)である。だから、書きやすいし、本人にはとても大事な事柄だ。それは読む人の心を打ったりもする。それも思えば当然のことだろう。そこに日記文学の命もあるのだとも思う。直接、直球に訴えかけてくれるという日記の形式が人の心を鷲掴みにするということだと思う。
 自分の日記を日記文学として考えたことはまずこれまでもなかったが、価値のないものでもないと今思う。


 でも、わたしの『22歳の放浪記』は『放浪日記』というタイトルには変更したくない。2月X日とかいちいち書くのに、それほど意味があるとは思えないから。それが歴史的な史実と比較したいのなら、それでより価値が上がるのなら、意義があるのなら別だが。たとえばアンネ・フランクの日記などのように、彼女は少しは外の、ヨーロッパの情報を知っていたようだが、そして読む読者は完全に知っていて、そのうえで彼女の狭い隠れ家での記述を自動的に比較対照して読んでいるのだが、わたしのちっぽけな、でもわたしにとっては重要な体験は、今の平和な、一日ごとに状況がかわる世界大戦中の世界情勢のなかにいたアンネたちの彼女の書くにっきとは違うものだ。


06:19 2024-01-26