蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

小中学校の教師たちの責任 生徒は子羊であった

昨日の早朝は、この二行だけ書いて、筆をおいた。仕事をちゃんとしないといけないというサヴァイバル本能が戻ってきたのだった。
 学校の先生たちの態度が、私の時代では酷かった.決定的な影響を与え、私たちの運命を左右する位置にいるのに。‎2018/‎03/‎07 02:04:19

太宰治が女性の日記を利用していた。本当に彼は才能ある作家であったか?

本当は日記を書いている気持ちの余裕はなく、これから入ってくれた仕事のために二時間後には家をでなければならない。今日の天気予報は霙、雨で、靴も滑らないものをつまり履きなれたよれよれのものを使わなければならない。心配なのは暫く喉をつかってもいないので声が出るかどうかでもある。・・・ということで、再び日記を書こうとして、なんのために書きたいと時間がないのにはじめた理由を忘れてしまった。アルツハイマーかとも思える。だったらもちろんそうなる前にこれまで執筆したかったことを完成させなければならない。


思い出した。やはり太宰治についてです。ここでです調に変わりますが、匿名、でも公開の日記であることを再び思い出したからです。
三島由紀夫は太宰治を嫌悪している。ところが現在の私たちには彼が他の場を借りて話していることもネットで視聴することができ、彼は太宰の才能を大きなと褒めているインタヴューをわたしは見た。わたしが十代後半の頃に、彼の全集を図書館で一部借りて、とても市販されているものは買えない評論とかインタヴューを読んだことがありますが、テネシー・ウイリアムズが太宰治を褒めるので、三島もやむなくという感じでそれを、太宰の才能を認めたという読後感をもったことがあります。
 しかし、この両大家の知らなかったことを現在のわたしたちは知りえています。それはなにかと言うと、太宰治がすでに書いたように、彼の代表作にあたる『女生徒』や『斜陽』の原文をファンや情婦(では可哀想なので、ここでは恋人と書いてもいいと思いますが)の日記などから拝借していることです。それも80%も。これでは女の立場からみてどうやって太宰は書けたのだろうと、からくりを知らない三島たちが驚くのは当然かと思いました。それでも太宰を圧倒的に肯定してやまないファンはたくさんいらっしゃるでしょう。日記やメモから文学作品に仕上げたのだから素晴らしいじゃないかと。
 ただ、そういうことをされてしまうのが恐くて日記のネット上の公開は避けてきた、と、それだけをここで言いたい。もちろん、お前なんかの日記を誰が文学作品のために利用するんだと一笑にふされるのはもちろん当然でしょう。ただ日記はやはり個人にとってかけがえのないものです。もちろん、それならそれで書かなければいいじゃないかと太宰に言われそうですが。また、ファンからは猛烈な攻撃を受けそうですが。6:11:49

『たた一旗揚げたくて 第一部 日本にいた頃』『短編 日本とドイツの狭間で』等々

自分のためだけに書いてきた日記。しかし、自分が倒れたら、また、姪だけには送って死後もあまり意味がなくても管理してもらい、いつか姪たちの子孫たちに興味をもって読まれることもあるのだろうと、それだけを想定して、あとは本当に自分の相談役としてこの日記を書いてきた。でも、それではこころ細いので公開というこのムラゴンさんの場所を借りてスタートしたのが四日前であった。もう四日前にもなる。とにかく人生過ぎ行くのが早いなとまたおもう。
ただ、姪にと言っていけれども、姪も私の兄弟も私が日記をつけているということはもちろん誰もしらない。なのに、姪を計算にいれているのだから、救えない引っ込み思案、内気、あるいは用心深さということにもなろう。だいたい叔父であるわたしが存命中に自分の姪に日記をとっておいてほしいという気持ちで送る人はいないでしょう。なんのためにとっておくのと聞かれそう。。。


起床してさきほどはすぐに十分間ほど時間をかけて日記を書いた。それだけでは足りなくてまた日記を今書き始めたのであるが、なにを目的で書いたのか忘れつつある。が、また思い出した。


わたしの書きたかったタイトルだけでもここに記したい。おお、山月記のリチョウの悲しみっぽい響きが伴ってきてしまっている。


『たた一旗揚げたくて 第一部 日本にいた頃』『短編 日本とドイツの狭間で』『ただ一旗揚げたくて 第二部 日本レストラン』『ただ一旗揚げたくて 第三部 ユースホステル』『キュスヒェン』『離婚の子』『来夏物語り』


もちろん頭のなかでは構想はもうできているし、殆どが第一草稿らしいものを書き終わっていたり、中途でそのまま傍らに放置しているという状態であるが。


ニューヨークの作家のひとりがインタヴューに答えて、今なにを執筆しているかという質問であったが、なにを書いているかではなく、なにを書き終わったかを聞いて欲しいと答えていた。書いている作品は百万作はあるだろう。しかし、書き終わったものは僅かであると。

日記文学を志しているわけではない。

昨夜の帰宅は午後9時半ごろだった。もっとも外にでた時間が晩ということもあって、スーパーにも行かなかった。家にあるものだけで、別に間に合うとみたから。


指の関節が五年半前あたりから、つまり、妻が倒れてから痛み始めてしまい、そのために無理してビールを飲んでいる。一種の薬の気持ちだ。またワインも血の循環をよくするために少量しか飲めないが三日置きぐらいに飲んでいる。


23時ごろには寝入ったとおもうけれども、早朝二時半には目が覚めてしまった。三時間半寝たことになる。まだ夜明けまでには時間がありすぎるので、そのまま寝椅子に横になっていたが、どうしても睡眠がとれない。たぶんこのまま横になり続けていても眠れないだろうと諦めて時計をみると、もう五時になっていた。二時間半ほど無益に時間が過ぎて言ったことになる。


いま、書こうと思っていることはなにかと言うと、この日記の書き方はやめたほうがいいとおもったことだった。
創作を中心に日記をつけている方々のそれを昨日の午後いくつか拾い読みして、やはりそうなんだとうなづいたことがあったから。それは、創作を捗らせようとする人は日記にそんなに書き込んではいないという事実である。あくまでも二義的な意味で日記をつけている、そんな印象を持った。日記文学を目指すわけでもないのだから、そんなに日記に気持ちのすべてをこれまでどおりにぶちまけてもそんなに意味はない、あまり結実をみないという気持ちになってきた。


ただし、カフカやトーマス・マンの日記などは、あるいは、も、創作中心の背景を書いている点は興味深いが、作品つくりが進捗しているときには、日記の内容は薄くなっている。落ち込んでいるときに、なにも書けないときに、日記は綴るものなのかもしれない。それでなければいけないのかもしれない。繰り返すけれども、別に日記文学を志しているわけではないのだから。

今日から純文学のサークルに参加させて頂きます。

こんなにたくさんの領域に分かれているのを知らなかった。それでむらごんに書き始めて三日目の今になって、純文学コーナーがあることを知り、参加ということに踏み切りました。
文学は売文してお金を儲けたいという人もいるでしょう。わたしも最初はそんなことも考えてみました。昔の大衆小説は現在世界文学として通用しているのもありますので、最初から一概に言えないような気もしていました。
谷崎などは最初から細雪を大衆小説と銘打っていたという話は有名ですが、三島も大衆的なものを書いてますね。
でも、できるならば、文章、文体、テーマからなにから純文学でやってみたいものですよね。


でも、カフカなどはどうも好きになれない、困ってます。同じように多和田葉子や島田氏の作品も喉を通りません。随分偏った食べ方と好みを私は持っているようです。