蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

日記文学を志しているわけではない。

昨夜の帰宅は午後9時半ごろだった。もっとも外にでた時間が晩ということもあって、スーパーにも行かなかった。家にあるものだけで、別に間に合うとみたから。


指の関節が五年半前あたりから、つまり、妻が倒れてから痛み始めてしまい、そのために無理してビールを飲んでいる。一種の薬の気持ちだ。またワインも血の循環をよくするために少量しか飲めないが三日置きぐらいに飲んでいる。


23時ごろには寝入ったとおもうけれども、早朝二時半には目が覚めてしまった。三時間半寝たことになる。まだ夜明けまでには時間がありすぎるので、そのまま寝椅子に横になっていたが、どうしても睡眠がとれない。たぶんこのまま横になり続けていても眠れないだろうと諦めて時計をみると、もう五時になっていた。二時間半ほど無益に時間が過ぎて言ったことになる。


いま、書こうと思っていることはなにかと言うと、この日記の書き方はやめたほうがいいとおもったことだった。
創作を中心に日記をつけている方々のそれを昨日の午後いくつか拾い読みして、やはりそうなんだとうなづいたことがあったから。それは、創作を捗らせようとする人は日記にそんなに書き込んではいないという事実である。あくまでも二義的な意味で日記をつけている、そんな印象を持った。日記文学を目指すわけでもないのだから、そんなに日記に気持ちのすべてをこれまでどおりにぶちまけてもそんなに意味はない、あまり結実をみないという気持ちになってきた。


ただし、カフカやトーマス・マンの日記などは、あるいは、も、創作中心の背景を書いている点は興味深いが、作品つくりが進捗しているときには、日記の内容は薄くなっている。落ち込んでいるときに、なにも書けないときに、日記は綴るものなのかもしれない。それでなければいけないのかもしれない。繰り返すけれども、別に日記文学を志しているわけではないのだから。