蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

深まる孤独感

入院中は、幾人もの患者や看護士、看護婦、研修生たちがわたしの回りに常に行きかっていた。
 食事も、これが病院の食事かと思うような、ジャムが提供され、バターがでてきた。血糖値をあげるもの、不健康なものがだされてくる。こんなことでいいのかと思った。が、ドイツの食習慣なのだから、ごく自然なことなのだろうとも思った。食べたくなければ、手を着けなければいいだけのことだった。
 朝、昼、午後三時のおやつのパンみたいなドイツのケーキとコーヒー、そしてコールドミートの夕食と四食毎日でてくる。家にいるときよりもきちんと食べている。太ったかなと思ったが、69kgと言う体重になっていて、驚きと喜びが湧いた。ただ、足腰の筋肉が激減したとしか思えないような、力のなさを覚えて、驚かされた。
 ほとんど最後のころだったが、ちょうどヘッドホーンをつけたテレビでマーガリンの宣伝をやっていた。朝食の時間帯だからちょうどいい訳だ。何度も聴いた簡単なメロディーが流れる。
「グーテン・モーゲン(おはよう)、グーテン・モーゲン、グーテン・モーゲン、ゾンネンシャイン(陽光)」この言葉が幾度も繰り返され、間にはまた違うフレーズが続く。だが、わたしは別に覚えよとはしてないので、この最初の「おはよう、差し込む朝の陽光よ」といった感じのフレーズしか記憶してない。
 それをちょっと高い声で歌ってみた。男のわたしが歌うので素っ頓狂な歌声になったと思う。
 すると、傍にいた看護婦のトルコ人の女性のひとりが、もう一度歌ってくれると私に訊ねた。わたしは「ええ」と軽く答えた。すると、彼女はさっと部屋をでていった。それがなんのためなのか私にはわからなかった。そしてもうひとり左脇にいたトルコ人の看護婦と二人になった。いや、厳密には他にも患者がいたが、眠っているのか、おきていてもうんとも言わない。
 彼女に朝食の宣伝の唱だけどと言い訳がましくいうと、にこっとした。その笑顔がわたしのなかに感覚的にも喚起するものがあった。わたしはこの丸顔で亜麻色の髪を丸くまとめてにこやかなトルコ女性にちょっと親しみとぬくもりを感じた。このままお話もできそうな木がした。
 そこに数人のトルコ人看護婦たちがやってきて、わたしに殺気の唱をと所望してきた。
 わたしはわけもなく、再び高い声で素っ頓狂な感じでこのコマーシャルソングを、しかもあの小節だけをドイツ語で歌ってみせ、覚えてないところはラララで誤魔化した。
 この街ではトルコ語の放送もテレビではみられるが、そればっかり旦那と一緒にみていて、ドイツのテレビとかみないのだろうかと、そのとき思った。なかにはちょっとわたしの歌ったメロディーをハミングする女性もいたが、珍しさで一杯だったらしかった。
 そして退院して、また独りになって、これまで感じなかった絶対的な孤独感をわたしは自分の住居に戻ってから覚えなければならなかった。
 すごい孤独感に襲われた。トルコ人の看護婦たち4,5人に囲まれて歌っている自分の姿が懐かしく思い出された。ここの二ヶ月間の最大のハイライトでもあった。

生と死の境を彷徨っていたはずなのに

ここでオカシナことに気がつく。生死の境を彷徨していたのに、わたしの無意識の世界では、強いあの世の光とか、あの世にいる先祖が現れて私を招くとか、そんな登場は全くなかったことだった。そして病室に横たわる自分を霊となったわたしが見守るとか、そんなこともなかった。ずっとコマ状態でこれまで書いてきたような荒唐無稽に近い夢を、でもとてもリアルな夢を見続けていたことだ。

夢か妄想だった

悪夢というか、妄想はまだ続くが、病室に毎晩、朝まで病人監視のために学生みたいな漢語の研修生のような若者がやってきていた。隅に座ってまま、たまに尿瓶をあけたり、布団をかけなおしてあげたりするものもいたが、座ったきり読書用の明かりをつけてコラ-ンを読みふけっているものもいた。また例外的に会話を私と楽しむ若者も居て、病院の食事はどうもいただけないので、ちかくにあるアラブの立ち食い屋台に行って、そこで羊の肉が主体の料理を食べてきたりするといっていたり、イエメンからきたと話していた。そこでイエメン出身のユダヤ人女流歌手のオフラ・ハザの話をすると、まったく知らないという。それでもいろいろなことに関心をもつ小柄で顔が逆三角形の浅黒い肌の若者で、早速スマホで検索して、わたしが感激した彼女の曲を見つけ出して流してくれた。
 だが、かれは一度しかこなかった。毎晩かわるがわる違う監視人が来て、一晩を哲也で座っていた。性格も患者に対する態度もみんな違った。殆どの時間をかれらはコラーンの読書に注いでいたようだったが。
 だが、あれもすべて夢だったらしい。誰も夜中に部屋の隅に座って徹夜するような監視人はいなかったし、つけるような無駄なことはしてなかった。フロアー全体のために夜勤の看護士jはふたりほどいるようだったが。

D市の二人の看護婦

ダビッドの住居から外出し、わたしはちゃんと立って歩いていたが、二人がでてきた教会に行くと、よくみるとそれはカトリック教会であり、その一部をユダヤ教会、シナゴーグとしても使わせてもらっているということらしかった。
 教会の観光をさせてもらえるかと期待して、入り口で訊ねてみると、すぐに奥に案内され、地下室に連れて行かれた。途中ポーランドからリュックサックを背負ってやってきたユダヤ人の男性は男用の部屋に案内されてそこで宿泊できるようだったが、わたしは地下の白髪の髪が生えている襤褸を身にまとった白骨死体、どうも聖人らしいミイラのすぐとなりに薄いベットを用意してくれてそこに寝ることになった。問題は、その半日前に、男の添乗員によってホウレン草とミルクのミックスした飲み物を渡されそれを飲んでいて、ベットに横になったあと数時間もすると下痢を起こし始めていた。それは制止不可能な下痢だった。下痢と言うのは常にそうだが、わたしの体はもとの体力に戻ってしまっていて、背中をしたにしてあとは身動きもならない状態になってしまっている。それでズボンにやってしまった。
 夜が明けて二人の、太った金髪の女性とポーランド出身だという同じく金髪の眺めの顔の女性が看護婦としてあらわれ、ほとんど文句もいわずに私を汚れたズボンや下着から解放してくれふき取ってくれ、しかも新しい下着とズボンに着替えさせてくれた。
 翌日になり、不思議なことにわたしはB街の病院に横になっていた。するとその二人もその病院になんでもないようにあらわれ看護婦の仕事をしているのであった。ポーランド系の看護婦は、働かないとやっていけないからと言い訳のように言っていた。この話はずいぶん無理なのではとわたしはこの偶然性にも驚かされたが、わたしがお礼をいつかしたいというと、この近くの中華のバイキングが良いといい、その名前も言った。そしてそういうことを言うだけで実際には約束をいい加減にする人がいるからと笑ってわたしに言った。夢のなかでそこまで現実的な店の名が出たり、性格が出たりするだろうかと思う。
 そしてわたしがのちに連絡するために電話番号をたずねると、「電話番号なんて、それはあげられない」とセクハラでもうけたように藁って拒否してきた。だから、そのあとも連絡はとれない。
 そして考えれば考えるほど、実際にこの二人の看護婦は存在したのだろうかと思い、実際にわたしはD市に行ったのだろうかと疑問に思った。

D市街のイスラエル、ユダヤ人たち

また、アル夢の中では、わたしはD街にいた。
病院の寛ぐための部屋にいて、イスラエルから研修生として着ている平均よりちょっと上かなと思える女性、年齢は21歳ということでちょっと驚かされたが、それというのも身なりを構わず、お化粧もしてない感じで、色も浅黒くなるままに放っているという女性だったから。ちょっとだけ目の上の瞼がオレンジ色に塗られているかなと言う程度だった。
 彼女とドイツ語でお喋りをしていて、うまがあうと思ったものだが、こちらは患者、彼女は看護婦研修生で、40歳以上も若い。
 しかも彼女には昵懇の恋人がいるということだった。実際にその男をみると色は白いがそのほかはアフリカ人であった。色の白いアフリカ人という男だった。彼は結婚していて三人の子供がいて、自分の妻とこのイスラエル女性のために別れる気持ちは一切ないということだった。そんな自分に飽きたら、彼がまた若い女性を探せばいいという態度であった。それをしっていても彼女は肉体関係の伴う交流をやめる積もりがないというのである。それも私を驚かせた。
 こんな男にとってうまい相手は他にいないという感じで、それを彼女に不思議に考えていってみると、彼女は目を尖らせてプリッと怒ったようだった。その表情が悪くなかった。


 その二人をD市のユダヤ教会の地下から一緒に出てくるところを私は見た。彼女が彼の腕にしがみついているような歩き方で地下室から上がってきた。私には気がつかなかったようだった。
 それから、再びわたしは体の不自由なものに戻っていて、こんどはユダヤ人のダビッドという同性愛の若く新潮から体から平均そのもので、黒縁の眼鏡をかけている若者がいろいろわたしに気を使ってくれて、しかも彼の住居でささやかなパーティーが開かれ、そのドアのあいた隣の部屋にわたしは寝ている。そこにさきほどのカップルがちょこっと顔をだした。
 長く、細かいところまで覚えている夢で、わたしには夢に思えなかった夢だった。三週間後にコマから目覚めて、あれはsべて夢だったのかと驚かされたぐらいだった。