蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

魔の13日の金曜日に

12日にはクリニックにタクシーで行こうか、自己搬送しようかと考えていた。でも、我慢できそうでもあり、その日もすぎさってしまった。
 呼吸は相変わらずひどく、座っていても呼吸困難と言うぐらいだった。散歩も難しくなってしまっていた。


 それで、もう縁起など無関係に、午前中にはタクシーを呼んでクリニックに行ってもらった。外のエレベーターのいりぐちがあり、そこから上がれると言ってくれて、緊急用の窓口にどうにか辿り付けた。窓口では普通の問い合わせにでもあったように、書類を渡すと、背後を回ってサインを貰ってくれとか言う叔母さんがいて、こちらは弱りきっているのに、随分事務的であるのだなと思ったが、しょうがないことだった。それ以上のことは期待出来ないことだった。


 それからベットを与えられ、廊下にずっと横になって待機するという状態になった。その間には血液も採られたり、インド人の小柄な青年のところでレントゲンを取ってもらったり、したが、おそろしいことを行動的な1,65mぐらいの馬の尻尾の紙g他の女医から、陰茎に管を差し込むことを宣言された。私がそれが本当に必要かどうか訊ねると、臓器が駄目になるよりはいいでしょうと言われた。一応わたしも頷いたが、麻酔はしないという話だった。それで、二人の太った看護婦と若いのがきたときには、はっきりと、拒否したいと主張して実際に拒んだ。痛いのに決まっているから。とんでもないことだと思ったから。時間がかかっても、体に溜まっている水分をもっと自然な方法で出したいと思ったから。
 Mp3を持ってきてよかったと思った。聞きながらずっと老化のベットに横になっていた。ただ、休みなくあたりに怒鳴り散らす高齢の女性がいて、それが迷惑だったが、看護婦や看護士たちもなすすべがなかったようだった。乱暴なことはできないということなのだろう。
 夜になってからある部屋に搬送された。その部屋のお入れから臭いにおいが漂ってきていて、トイレに下痢をしていてドアを開けっ放しですわっている老人がいることがすぐに分かった。
 部屋にはベットが二つあるのだが、その独りがこの老人だった。キッシンジャーみたいな顔の老人で、始終大声をだしてどなっていて、わたしにドアを閉めさせたりいろいろ命令してきた。
 部屋に彼の下痢の糞の臭いが充満しているので、窓をあけると、すぐに寒いと言ってわたしに締めさせた。しかたなく、暫く部屋から外ににげることがしばし続いた。
 自己憐憫で急に泣き出したり、用もないのに幾度も名を呼ばれた。


 名前はよく聞き取れなかったが、Dr.ランカスターとかいう女医が半年前に私が死んだも同然の状態のときに、私を担当していたのが自分だと説明してくれた。だから、あなたのことはよく知っているのよとも言ってくれた。いや、逆に「わたしはあなたのことを良く知っているの。なぜだか分かりますか」という質問をして、「それは、半年前に……」という話し方だったと思う。
 レントゲンを彼女はとってくれて、いや、レントゲンとはいわないのかもしれないが、体に水が大分溜まっていることを画面を見ながら説明してくれた。
 そしてあとで、体の水をだすための点滴をつけてくれた。
 そのあとで、良く眠れたようだった。医学の力は凄いと思った。あれほど胸苦しく呼吸ができなくて、眠れなかったのに。