蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 26 学年送別会

学年送別会


 高校最後の冬休みが開けてそうそう、高校生たちは全員体育館に集められた。一種の高校三年生へのお別れの学芸会であった。一二年生はともかく、高三生たちには、受験でそんな気分ではなく迷惑げな雰囲気が漂っているようだった。茂樹と一緒にいた四妻町出身の好川もポケットに忍び込ませた英語の単語帳をちらちら他の生徒にみられないように覗いて
 「こんなことしてる暇はねえのによ」
 と舌打ちをしていた。
 一二年生がそれぞれ送別の辞を述べ、吹奏楽などをおこなった。それから高三の代表ということで、何人かがギターなどの楽器を胸に抱いて演壇に登場した。そのなかに玲子を見出して茂樹は目を瞠った。
 女好きの好川がどんな反応をしていたのかは全く記憶にはない。ただ、茂樹は憑かれたように、シューベルト歌曲のひとつをドイツ語で歌っている玲子の声と変化する表情、そして学生服姿を見つめていた。彼女の顔や姿を、そして声をこんなに堂々と聞くチャンスに恵まれたのはそれが最初であった。
 白い壁だけを背景にして、両サイドが濃緑の緞帳で仕切られた、茶色い光沢のある木造のステージに学生服姿で登場すると、銀色のマイクに唇を近づけ、顔は茂樹たちの頭の上のほうを見つめて歌っていた。
 「ご苦労なことだよ。受験課目にないのによくあそこまでドイツ語を覚えたよな」
 好川がコメントした。茂樹に耳打ちする好川の近づけた口から悪臭が漏れた。胃がやられてしまっているらしかった。
 もう一曲こんどはシューマンの歌曲が続いた。
 茂樹はある種の焦慮を覚えていた。自分だけのものと密かに思っていた玲子が、その姿を今、全校の男子生徒に晒してしまい、ほしいままに見られてしまっているということにだった。どこか裏切られたような気もした。自分だけが極秘裏に彼女を愛するということがこの場では無効で不可能になってしまっていた。これでは彼女に憧れる生徒が増えてしまうという焦りが込み上げてくるのであった。そしてこの不安は更に悪化し、茫然自失の状態に豹変する。
 「れいこちゃん、いよ、素敵」
 彼の背後から髪を伸ばしたロッカー風の童顔の生徒が小さな声をだした。それにたいして、やはり隣に座るあの鼻めどを開閉して大きく呼吸する原始人風のロッカー宮田が、その不潔っぽい長髪をたくし上げて、声にならない声をあげていなしたようだった。つづけて
 「ちょっと足が太いかな」
 という同じ声が続き、ほんの僅かな瞬間だが茂樹は憤りを覚えた。完璧に美しさを持つ彼女にどうしてそんな馬鹿なけちをこいつはつけるのかと反射的に怒りを感じた。が、次の瞬間、照れくさげに発せられた言葉を聞いてショックを受けた。
 「うるせえな」
 鼻めどの大きな生徒が笑いながら満更でもないように応じているのだった。
 それを聞いている茂樹の頬から項にかけて鳥肌が漣のように立った。彼はこのロッカーたちのことをすっかり忘れていたのを再び思い出した。そして不快な気分に襲われ急速に落ち込んで行くのを感じた。                                     
 二人のロッカーたちの短い会話は、玲子の公然のボーイフレンドと認められている者にたいして、冷やかしを入れていて、また、野次をいれられて多少照れている者のやりとりであった。……それ以外のものではなかった。そして茂樹はこの鼻めどのでかい不良少年が自分の後頭部をちらりと一瞥したような気がした。
     
 「最低の奴らがよりによって綺麗で最高の女の子を攫うんだ」
 「不真面目で下種な奴が、女の子にモーションをかけるのだけは得意で、そしてそんな奴に美少女はひっかかってしまうんだ」
 帰りの駅への途上、悔しい気持ちを吐き出した。だが、なにもこれも、一歩も先に進めなかった自分が悪いのであって、あとは後の祭りだということも分ってはいたが。
 珍しく自分から恋愛関係のことを話し出す茂樹に対して、
 「手の早い奴が勝ちさ」
 と好川は憎まれ口を叩き
 「もうまもなく、俺たちゃ卒業だな」
 とあらためて近未来のことに触れた。
 「ああ、別々の道に進むことになるな」
 茂樹の頭にはもちろん、どこへ行くかも分らない就職先のことが漠然と浮かんだ。
 茂樹の反応が演劇にでも使われる手垢のついた言葉の羅列に聞こえでもしたのか、好川はもうおかしくて堪え切れないという感じで急に声を立てて笑った。
 「おまえは口が堅かったよな。たとえば女の子のこととかさ」
 「……別に、堅いわけじゃないさ。ただ、他人のことなんかにあまり興味がないだけさ」
 その言葉の後ろに、特におまえのペッティングの話しとかな、と付け加えたかった。
 「誰にも言うなよ。もう卒業してばらばらになるんだから言ってやろう」
 「……なにを?」
 なにか禁忌にあたることを好川が話そうとしている気配があった。しかも、半分話したくてしょうがないという動機と興奮もあるようだった。
 「俺な、中学生の時には梨衣子とやったんだ。…参ったよ、自分で脱いでくるんだぜ」
 あらためて茂樹は聞きなおした。
 「あの梨衣子さんと?」
 更に好川は面白おかしくってしょうがないという口吻で
 「瀬川ともやったよ」
 と言うのであった。
 「奴の姉さんのほうが綺麗なんだよ。だからそれを言ったら泣いちゃってしがみ付いて来てな」
 それで、それぞれの女の子の視線が茂樹と偶然ぶつかったときに、こんな風に好川からセックスのことを自分が聞き知っているものと勘違いして真っ赤になっていたのだと遅ればせに茂樹は理解した。ただ、そこまで聞いても自分の実体験の外の話しであるし、茂樹にはほとんど反応らしい反応はできないのであった。また、嫉妬も生じなかった。先を越されたという気持もなかった。