蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 25 恒例マラソン

恒例マラソン


 海棠一高では秋になるとマラソンが行われた。高校一年生の時には、そのまま自動的になんの余念もなく、そういうことになっているからやむなく従っていた。それは他の生徒も同じであった。
 その時期が近づいてくると、体育の時間は殆んどグラウンドを走り回ることばかりさせられていた。
 それについても茂樹はまだなんの思いも持ち合わせてはいなかった。
 「毎日走らせやがって。俺たち馬っ鹿みたいじゃないか」
 好川が我慢できないように顎を突き出して愚痴を言った。だが、まだこのグラウンドを走る距離と時間は本番のそれと比べたらまったく比較になるものではなかった。
 「どんな意義があるのか、一度正さなければならないよな」
 体を捻らせウーミングアップをしながら、同じく背の高い眞鍋に高橋が問いかけた。好川の言葉を受けた形になった。
 眞鍋は
 「ああ、でも学校の授業だから…」
 と呟いただけであった。
 「伝統とか言いたいんだろう。俺はでも形骸化した儀式と言いたいね」
 彼らのやり取りを聞いて、数人しか入部してはいないようであったが、二人ともその弁論部に籍を置いていることを茂樹は思い出していた。
 体育教師は彼らから離れた場所にいたし、このヤーン体操らしきものをやりながら話をしていても、別に注意することもなかった。
 「内申書だよ。内申書。それだけのためにやりゃ良いんだよ」
 好川が結論でも言うように、左より思想の二人に言葉を投げた。
 「ああ、それがあったな……体制に従うしかねえか」
 高橋も響く大きな声で頷くのだった。
 この内申書のことは中学生の時にも近所の教師の息子の同級生から聞いたことがあったが、好川も同じ教師の子であるのを茂樹は思い出していた。


 高一のマラソンの経験は酷かった。茂樹はずっとこの同じ運動の繰り返しをしている間、自問自答を繰り返さなければならなかった。二十キロメートルが与えられた距離であった。
 肘を前後に振るい、膝を上げ下ろしするのであるが、その動きをいつ終わるともしれず繰り返さなければならないのであった。一緒に走る好川と最初は面白がって勢いをつけて速度を出していたが、そのうちに辛くなってきて、言葉も交わせなくなった。孤独な疾走が続くばかりであった。あとは、疑問と不服の鞭が自分をゴールにつくまで間断なく打っていた。
 ―なぜ自分がこういう意味のない同じ繰り返しだけの、拷問に近いことをさせられているのであろうか。
 ―こんな馬鹿なことをなぜ自分はしている。
 ―このマラソンはどれくらい生徒が従順に、学校が求めることを果たせるか、それだけを測るために執行しているのではないのか。その意味も検討せずに、学校の伝統として残っているから行うというのは土台間違っていはしないか。
 ―来年は、こんな催しに俺は参加しない。大学のための内申書は俺には関係ない。進学を更に続ける積もりはないんだから。


 そして早くも高二になると再びこのマラソンの時期が近づいてきた。
 同じ様に体育の時間にただ走らされる。恒例のマラソンに備えて体のコンディションが作られていく。
 茂樹の頭の中では、まだ去年の嫌な、意味もない思い出が沸々と胸の中で煮立っている。距離にしても実際のマラソンの半分であったし、時間にしても二時間も走らないのである。だが、それ自体が自分にとっての無意味で辛い学校。そして嫌々ながら通学し妥協している自分。この活路のない遣る瀬無さが、このマラソンにおいて最もエスカレートした形で露骨に突きだされていた。
 だが、茂樹はこの年も逃げる勇気はなく参加していた。とても辛かったが参加して走った。へとへとになって、二本の棒の間に撓む白布の横断幕のゴールに達した時の救いは、これで来年まで、再び一年間こんな馬鹿なことをしなくて済むという実感であった。
 そしてこの二回目のマラソンには茂樹に本当にご褒美がついていた。ゴールに他の生徒と一緒に入った茂樹がみたものは、巨木の木陰でひとつの花束のように咲き誇る、女生徒たちの姿であった。真ん中に仁平先生がベージュ色のワンピース・スーツを着て、その周りを三人の女子たちが、濃く赤いタイツを身に付けてはしゃいでいる姿を彼は見たのだった。もちろん玲子がいて零れるような笑顔を教師に向けていた。女子たちは、男子生徒がそのスタート地点にぞろぞろとやって来るずっと前に、三十分は早く走り出していたし、距離は半分のはずだった。
 彼女たちの体には滲んだ汗のせいで赤黒い濃淡が微妙に影をつくっていた。それは陽光の加減でさらにこくのある美しさに、薔薇の花弁を際立たせる翳のような効果をだしていた。
 この時の玲子を見たことで、このマラソンは十二分に癒された。


 だが、高三になったときの茂樹の気持ちは大分違ってきていた。女子の一緒に学ぶ3Cクラスにいたが、その嫌悪すべき期日が近づくと、今度は絶対に参加しないと誓っていた。もうあの意味のない屈辱は懲り懲りで、我慢ならなかった。そして今度は実行した。マラソンの日に登校しなかったのである。
 翌日茂樹は学校にでていった。なにも自分は違法なことはやっていない。ただ、あの余りにも酷い屈辱に反対して応じなかっただけだという気持ちであった。
 校舎に向かって歩を進めていても、ほとんどの生徒は茂樹のことも知らないし、ましてや前日に彼がマラソンに参加しなかったことにも関知しなかった。彼が昨日不在であったことを責めるような視線も感じないで済んだ。だが、自分のCクラスに入室してからは周囲の雰囲気が違うと思った。
 女子あるいは男子生徒と目が合うたびに、昨日の厳しいマラソンにはでてこなかったのに、よくのうのうと登校してきたなと非難されているような気がした。
  自分の席につくときまで誰とも口をきけなかった。このまま授業が普通に行われて一日が経過していき、あたかも何でもなかったかのようにマラソンのことが、自分が走っていなかったのを目撃した者たちの記憶が塵埃に埋まり、忘却の底に消滅してくれれば良いと内心必死に願っていた。
 その朝、高橋や眞鍋とも言葉はまったく交わしていなかった。ただ、高橋が最初の授業前に寄って来て、角ばった大きな目と頬骨が突き出た痩せぎすの体を近づけ、うん、うんとくぐもった咽喉声を響かせていたことが普段と違うと思った。最初の始業時間の鐘がなると、そのまま何も言わずに一番後ろの自分の席に戻ったことだけがわかった。
 女の子たちは茂樹と目を合わせないようにしているようにさえ見えた。あたかも魔物と目を合わせたくないかのようでもあった。男子生徒のほうにはあまり茂樹の個人的な問題に関心があるようには見えなかった。
 高橋と彼とは、ほんの僅かなものではあっても言葉を交わす、友達っぽい関係にあった。好川とはよく話もするが友達という感じはなかった。大林はわが道を行くという態度で他の生徒に関心はない様子だった。茂樹が漫画の世界で活躍する夢をみているように、彼もなにか違う世界をターゲットにおいているようなところがあった。もちろん、羊のように大人しく勉強に勤しむほかの生徒たちも大学という目標があって、結局、それぞれ達成すべき夢を追っていたといえる。


 ドアから担任教師の姿があらわれた。するとその時、後ろから喉仏を震わせる高橋の声が教室内に響き渡った。
 「先生、授業を始める前に、昨日のことについて僕は話し合いをするべきだと思います。昨日の卑怯な欠席者について僕はここに時間を割くべきだと申請します」
 教師が入ってきたときにはまだざわざわしていた教室の中が一度に静かになった。
 高橋の堂々たる大きな声と口吻は、ちょうど国会の議場で、不正を働く議員をみんなの前で訴え弾劾する潔癖な諮問委員のものであった。
 彼の良く徹る叫び声で、クラスの生徒は一挙に昨日のマラソンを思い出したかのように息を呑んだ。次に何が起こるのかを待つ、緊張した空気が朝の教室に張り詰めた。
 茂樹が驚いたことに、教師はなにも言わずに、表情の変化もなにもなく黙っている。それがどのくらい続いたか分らない。教壇の下の窓際の机に向かい椅子に座るタイミングも逃し佇んでいる。
 次に、どんな表情の変化がこの担任の教師にあらわれるのか、茂樹にはまったくわからない。大きな頭の割には痩せぎすで小柄な体の彼が、眼鏡を鼻の先のほうにひっかけて茂樹をじっと見つめている。ただ、何も言わない。その沈黙がひょろりと背の高い骨ばった頬と喉仏の高橋に同感しているようにも感じられた。
 まさか、ここでクラスメート全員が自分に謝罪を求めているとか、そんな想像はまったく茂樹には閃きもしなかった。
 この緊迫した状況で、生徒たちが見て見ぬふりをしていて、実は内心の目で茂樹を注視しているのは明らかであった。こういう事態がこのあとの瞬間にどう変化するのか、猟奇的な関心もあったかもしれない。しかし、早く終わってくれれば良いと期待しているような生徒たちの雰囲気も、茂樹は突き上げられている当人なのに、感じていた。
 高橋の近くに座っているはずの眞鍋が、低い声で
 「……や、やめなよ。もう、いいじゃないか」
 と諌めているのが聞こえる。
 そう諌められていっそう面白くなく、好個の具体的な的を見出しすでに狙撃した、正義感に溢れた高橋としては、やめようという気持などは微塵も持ち合わせてはいないようだった。
 「でも、こういう問題を解決しないで見逃してしまうのは最も政治的に良くないことじゃないのか。われわれはだから力がない。みんな政治だろ?」
 「そりゃ、そうだけれど……」
 眞鍋が弱々しい声で頷いた言葉が、ある意味ではみんなの気持ちを代表していたかもしれない。そのあとにも誰も彼らの言葉を受け継いで話す者はなかった。
 茂樹は何も言わず、ただ自分の目の前のテーブルに目を落としているだけであった。この授業が終わったら下校したいと思った。そして数日間は登校したくないと思った。
 教師もなにも言わず、咳をしたあと、
 「じゃ、今日は…」
 と教科書のページを言うと、普通に何事もなかったかのように授業を開始した。他の生徒も忙しくそのページを開いていて、その書籍の紙を捲る音が救いのように茂樹の聴覚を洗った。


 茂樹は次のように考えた。
 彼らは進学という餌を目の前にぶら提げられて、一心に勉強に勤しむ子羊たちである。マラソンというあの精神性のない筋肉運動の無意味な繰り返しを毎年自分たちは学校から強制されている。ただし自分のような悩みを抱えた生徒と違って、楽とは言わなくとも彼らには比較的スムーズにこのマラソンを受け入れられる内申書という理由があった。だから自分のことが到底分るはずもないし、彼らは走らなかった自分に関心は持たないだろうと茂樹は半ば考えていた。ましてや狡猾とか卑怯とか、そんな憎悪の対象として走らなかった自分を見るようなことはないはずだと思っていたのであった。だが、それはそれ、これはこれというものだということを自分は思い知らされた。辛く面白くないマラソンに参加しなかったのは、自分だけずるいことをしていると見做している生徒もいるのがわかった。その中で、このまま見過ごしはしないぞという態度が高橋であった。
 大学に行くための瑕瑾のない評価の為に、あの何も精神的活動ができない、拷問に等しいマラソンに参加することは自分にはできなかった。まさに自分以外の生徒はこの理由からこの長距離を完走出来たのに違いなかった。
 授業が終了し、起訴の重さを負う茂樹は、その彼の様子をみているかに思えるクラスメートたちの視線も払拭できないでいた。彼のこの個人的な追い詰められた状況に関心も何も持たない者もいるだろう。だが、やはり耐えられるものではなかった。
 眞鍋が寄ってきて、なにやら慰めっぽい言葉をかけてきた。しかも、その傍には授業開始時に茂樹を弾劾の被告席に追いやった高橋も一緒に来ていた。
 茂樹には高橋になにかをいう力もなく、そのままどうでもいい頷きを二人に繰り返し、鞄を持つと後ろも振り返らずに教室をでて、廊下を歩き、校舎をあとにして、坂道を降りて行った。やはり今日みたいな日は登校するべきではなかったんだと思った。でも、それではいつ何日ぐらい後に、登校するべきだったのかは自分にもわからなかった。


 進学系の三年生が大多数を占める学校内の雰囲気には薄氷のような緊張が支配していた。冬季ということだけではなく、受験も間近いということもあり、その寒さが更に彼らをちぢ籠もらせ閉鎖させるような姿勢に変化させていた。
 その渦中でますます茂樹は孤立を感じていた。この高校通学の最後の日々は、あたかも死刑囚が処刑のその日まで、桎梏状態のまま無意味に時を数えるような空虚に生かされているような期間であった。
 社会にでたら、企業体の一員に組み込まれてしまったら、もう自分の夢などは見ることも許されない厳しい現実があると茂樹は想像していた。もう漫画などとはますます縁がなくなっていくものと思えるのだった。
 高校生であるがために、落第への恐怖と、否応なく押し出されて行く社会というものに、不安に満ちた妙な日々を過ごしていた。
 高三の夏休みにも『手塚治虫賞』の募集記事を見た。だが、自分の画風で、そして自信のもてない案を苦労して漫画化しても受賞できるとは、もう思はなかった。再び技術も能力も備わないのにこういう宝籤のような賞にトライするよりは、現状を雌伏期間と見なし、いつか躍り出るための準備をこの成長期にしておくべきことが重要に思われたのであった。
 正直言って、あれだけの時間と労力を注ぎ込んで受賞はもちろん佳作にもならなければ、梨の礫に再び重要な時間を喪失してしまうだけのことになる。高二の失敗後からは、滋養分を吸収して備えることに、これまでの期間を当てているつもりであった。だが、どこまで補充されたのか、どこにもそんな簡便な尺度もメーターもない。高二までのあの挫折を知らなかった時のパワーはもうなかった。何か決定的なものが漫画家志望としてもかけているようにも思えるのだった。
 卒業が近づくに連れて、一年近くもの間漫画製作から遠ざかっていたが、またやってみるかと言う思いも膨らんだ。が、すぐにあの漫画に奪われる時間を思い出すと製作を始める気持ちにはなれないのであった。実は関心を失いつつあった。しかも、漫画はまだあとでも描ける。頭の成長が止まってから後でも描けると思い始めていた。二十二歳ぐらいまでは頭脳を鍛え豊かにしなければならない。漫画は自転車や水泳と同じで一度マスターした腕はそうそうに忘れるはずはないと考え始めていた。『手塚治虫賞』応募作品のときの苦労と落選の失望を考えると、気持ちが遠ざかってきていた。


 それに、他の重要な問題もここ半年間以上茂樹に迫ってきていた。それはやはり落第への恐怖であった。
 高校を落第するという恐ろしい不名誉だけはしてはいけなかった。そして漫画にも自分の将来にも役に立つとは思えない数学や物理などの理科系の分野や英語なども引き続き勉強するのであった。
 それは辛いだけの学習であった。この辛くてあまり意味があるとは思えない受験のための学業に、自分の僅かに残った卒業までの膂力と期日を犠牲にしなければならなかった。他に有効に活かすというアイデアもなく、無益に煩悶しては教科書を開くのだった。
 本当はこれまで読んできた文学作品などの素養を活かして、高校卒業と同時に華々しく漫画家の世界に飛び出すべき準備をしなくちゃいけない、と思いながら、実力のなさを知ってしまった今は、無事に卒業することだけが目標となってしまっていた。そのためにはコンスタントに勉強をやっていた他の生徒以上に努力をしなければ付いていけないのであった。


 小学校二年生のときからずっと高校二年生あたりまで漫画を最高の芸術と見做してきた。それは幼い子供たちに与える圧倒的な影響力を思うと最も大切な芸術であり、その気持ちは漫画からやや離れた茂樹であってもまだかわりはしない。だが、以前に比べて随分その情熱が薄くなってきたという自覚もあった。彼がしがみついていたものが前ほどには重要に感じられなくなってきていたのである。


 茂樹は巌清水の三叉路にバスで向かうことをやめて以来、列車で城砦市で乗り換えて海棠市に来る、遠回りを精神衛生上選んできた。卒業するためだけにのみ通学する学校への通学であるせいか、ある日、彼はまた遅刻した。
 他に生徒の登校する姿も見えないゆるやかな坂道を、意味もなく虚無的な気分で力なく登っていった。誰も歩いていなかった。海棠の生徒が歩かないと他に歩く人もないような坂道であった。二階南側の職員室目指して階段を上がっていくと、再び、いつか経験したような情景に行き当たった。それは岩本玲子が職員室を立ち去る姿を目撃したことだった。このときの玲子は茂樹に見られていることをまったく気が付かない様子だった。良かったと思った。彼女のネガチーブな目撃者になったことを、あまり彼女に知られたくはなかったから。
 ただ、茂樹にはなぜ彼女が遅刻をするのか、そのときにはよく分からなかった。