蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 24 巌清水の三叉路

 巌清水の三叉路


 千葉県の後光台から海棠市に行くためには、これまで彼が行ったこともなかった巌清水という地域を通ることになった。そこで一度バスを降りて三叉路という場所で次の海棠行きのバスを待たなければならないこともあったが、朝方はだいたい座ったまま海棠市まで本などを読みながら通学できた。しかし帰りは、暗くても寒くてもちっぽけなバス停のところでいったん降りて、千葉県行きのバスを待たなければならないのであった。そこから乗り込むのも茂樹一人であった。
 バスの通学を始めてから二週間ぐらいは経っていたろうか。停車と走行を繰り返すバスのなかで、最初の頃こそ知っている者が巌清水市三叉路あたりで乗り込んで来るかどうか気になったが、彼の知る高橋や眞鍋などの男子たちもひとつ前あたりのバスにのるのか一緒のバスになったことはなかった。大抵一人きりで最後の海棠市まで茂樹は揺られていた。
 この朝も、三叉路のバス停に背中を向けてぼんやり座り、反対側の窓外に目をやっていた。
 吊革を掴む何本もの腕と乗客たちの体のために、バスの上部と窓外の家の塀や樹木の一部が、いつもと同じように過ぎ去るだけであった。この日は自分が遅刻するバスに乗っていることが最初から分っていた。千葉県で一つ乗り遅れるともう、高校には遅刻するしかない結果が待っていた。
 混んでいるときにはもちろん、目の前も、横をむいてもバスの天井や上部を除いて殆んど視界は遮断されていた。
 文庫本の小さな文字を目でなぞっていてその疲れた目をちょっと上げたときだった、眼前で吊り皮を掴んでいる腕と人体の揺れる隙間に、目の端に入った姿があった。それがほとんど奇跡的に岩本玲子だということを一瞬のうちに知った。 
玲子はちょうど茂樹から視線を逸らすところだった。このバスに彼が乗ってもう一ヶ月以上も経つが、それまで玲子の姿など見たこともなかった。
 玲子は茂樹から一メートル半も離れていない吊革に腕を伸ばして窓外に目をやり横顔を見せている。彼女のあげる腕でその顔もほとんどみえない。あるいは見せないような気がした。彼も彼女の横顔を見たくても見つめるわけにはいかなかった。厚かましくなりそうな気持ちを抑えて、読みたくもない膝の上の書籍に目を落として彼女の姿に無関心を装った。
 この車内に、憧れの岩本玲子と自分がたった二人っきりで乗っている事実に、茂樹の頭のなかは徐々に覆われて行き、それとともに幸せな興奮が胸のなかに高まってくるのを抑えきれない気持だった。神が自分に与えてくれた最後のチャンスなのかもしれないとさえ思い込み始めていた。ただし、どうして良いか相変わらずまったく分からないのであった。これまでにも声をかけたことも挨拶をしたこともなかった。それが他の通勤サラリーマンたちの間にたつ玲子にどうやって話すきっかけを作って良いのか、機転も利かずアイデアもさっぱり浮かばないのであった。
 学校付近のバス停に到着したときも、下車する人たちのわざわざ一番あとから腰をあげてついて下りた。実は下車してからが最も触れ合うチャンスが大きくなると思った。茂樹の気持ちは階段を降りるときにはすでに膨大な想像力に惑乱していた。二人一緒になって残りの五十メートルほどの坂道を正門まで歩く可能性が状況的に発生しているのである。
 ところが降り立ってみると、もうそのバス停付近には玲子の姿は見当たらず、学校正門付近にその姿が見えるばかりであった。一体どうやってあの急傾斜な道をこの短い数分間に上っていけたのか茂樹には信じられなかった。あたかも自分から姿を早く消したいとでも言うかのようでもあり、決して一緒に並んで正門玄関に入るようなことにならないように急いでいるという印象であった。
 茂樹は茫然自失という状態で、自分がずっと恋焦がれてきた玲子の後ろ姿を見詰め、それから重い足取りでゆっくり正門の内側に消える彼女をもう一度一瞥してから歩き始めるのだった。


 階段を上がって職員室のドアが見えるところまで近づいた時だった。肩にかかる黒髪を揺らして女の子が飛び出てきた。それが玲子であることにすぐに気がついた。彼女は茂樹を真正面から見てはっと眼を見開いたが、すぐに出てきたときの強張った、他人を相容れない表情に戻り、そのまま私の前を通り抜けると廊下を足早に去っていった。彼女が行くべき方向は実は茂樹の佇む階段のはずだった。三年生の3Aクラスのほうに行くにはこの階段を上がっていくのが最短距離のはずであった。だが、玲子は廊下を反対側の1Fや1Gの方向に向かって姿を消して行くのであった。
 こんなに玲子の近くに自分がいたことはあの高一の時の『渡り廊下』以来だった。玲子の顔は普段から冷たい感じがあったが、それは言い寄る男、あるいは厚かましい視線を向けてくる男たちから自分を守るために身についてしまった表情なのだろうと彼は思いもし、またすべての男に対してそうして欲しいと普段から願っていた。このときには冷たい横顔にさらに怒ったような緊張が彼女には伺えた。一瞬のことではあったが、玲子と茂樹は随分接近した場所にいて、見つめあった。だが、ふっと彼女は風の妖精のように廊下を早歩きに去って行った。茂樹は彼女の後ろ姿を抵抗もできずにずっと見詰めるのだった。職員室前のこの空間に自分と彼女だけがいてほかに誰もいないという瞬間、たぶんこの記念碑的なこの数秒間を忘れないであろうと思った。


 「しょうがないなあー」
 彼女の姿が消えたのとほぼ同時に、ドアの奥から聞き覚えのある教師の声がもれ出てきた。その声で茂樹は現実に引き戻され、玲子が遅刻したのだということを再び思い出した。
 調子っぱずれの教師の声を耳にしていても、茂樹の脳裏には、玲子のどこか屈辱でも受けて、怒りを堪えながら被害者のように今しがた消えていった姿しか浮かんではこなかった。
 開いたままの職員室のドアから茂樹が入っても、そこにいた職員室の教師たちの気持ちも、消え去った玲子の姿にしかない様子であった。
 「……全くねぇー」
 二人の中年の男たちは椅子に深く腰をおろし両腕を後頭部に回した状態でなんとも浮かない顔をしていた。茂樹がはいってきたことも現実に眼にしていない様子である。
 そのときの遅刻担当は、常に黒縁の大きな眼鏡を鼻の中ほどにずり落として顎を上げるようにして相手をみて話す教師であった。頭ばかり大きく痩せぎすで、それだけでもどことなく愛嬌の溢れる滑稽な顔つきの四十代後半の小柄な男は、このときは不興げであった。彼は茂樹の担任教師でもあった。
 「バスの乗り遅れか」
 彼は一言そう呟いたが、目の前の生徒の上に気持ちは介在していないようだった。
 茂樹も
 「ええ、すみません」
 と意味も感情も篭っていない事務的な挨拶を返した。
 「うむ…毎朝大変だな。巌清水で乗り換えるんだったかな」
 長い蛍光灯のたくさん整列して下がる白い天井に目をやりながら、バスに揺られている生徒たちの姿を思い浮かべてでもいるようだった。
 岩本玲子が巌清水から通学してくるので、それでイメージしているのかもしれないと、ふと茂樹は思った。
 もう一人の中年の髪の少なく小柄で小太りの眼の小さい教師とあっては、ずっと寡黙の状態であった。
 たった今姿を消した玲子の残照を、私も含めて思い思いに噛み味わっているような雰囲気がその職員室のこの隅っこには漂っていた。


 それからは一つ、あるいは二つ前のバスに乗り込むようになった。同じバスに乗り合わせることができると分かってからは、人の腕と体の間からでも彼女の姿を、とくに顔をみたいし声も聞きたいという気持ちがどうしょうもなく突き上げてきていた。
 それまで気がつかなかったが、注意深く見ていると、玲子は他の女子生徒と同じく巌清水三叉路で乗り込んで来ていた。濃紺の学生服に体は包まれたなかで、首と胸元だけがガードが弛くちょっと挑発的であった。幾分膨らんだ白いブラウスの渓谷に、赤く細いリボンが幾本も襟の中から滴るように垂れ下がり、彼女が動く度に茂樹の注意を引くかのようにそこで戯れるのだった。他の女の子の場合には単なる女子が学校に通うために着ている学生服なのに、玲子の場合にはそれさえも彼女の魅力を蠱惑的に強調する特別誂のオートクチュールになってしまっていた。
 三叉路が近づくたびに、茂樹は体を少し捻らせて窓外に瞬間視線を投げやるようになった。
 不思議なことに玲子の姿をみることは殆どなかった。たまたま彼女の姿が見えても、必ず他の同級生の髪や顔、そして鞄や学生服が邪魔になって玲子の体や容貌を見る機会は少なかった。その中の色の白く四角っぽい顔の女性とか太った中野が茂樹のほうを見上げるようなところがあったので、その視線に合う前に彼は目を逸らさなければならなかった。
 玲子は停留所でバスを待つときも、車内でも、他の女子生徒と体を寄せ合って一緒にいる時には、ほとんど聞こえはしないけれども、あの澄んで明るく美しい声を奏で、笑顔もみせていた。
 玲子のために、他の女子が朴訥で鄙びたものに自動的に貶められ落下してしまうのはどうしょうもなかった。品のある綺麗な笑顔が、同乗の群衆の狭間から垣間見える時には、それが茂樹を意識して作ってくれているような錯覚を彼に生じさせてしまっていた。
 ただし、彼のほうには一瞥も与えてくれることはなく、だいたいにおいて冷たい横顔をみせているだけであった。それが何度か重なると、岩本玲子の関心はまったく自分にはないのだと思い込むようになった。そしてロッカーの腕が彼女の肩にかけられ相合傘で豪雨の白い刺繍のなかを歩いて行ったその姿を今更ながらに思い出すのであった。
 そう思うと、茂樹にはこの朝方のこの興奮が辛かった。
 朝方はラッシュアワーの時間のせいで、三叉路で降りて乗換える必要はほぼ皆無であり、ほとんど座っていた。だが、帰宅時は必ずと言って良いほど三叉路で茂樹は降りなければならなかった。
 そこは玲子たちが朝方乗り込む場所であった。その付近に住んでいるというよりは、もっと先の巌清水市本町あたりから来てその三叉路で乗り換えるらしかった。ふと茂樹はこの辺に彼女は立っていたかなと思い、同じ場所にたってみる。そして玲子が触れたかもしれない、変哲もない家屋を囲む生け垣の厚い緑の葉に触れてみるのだった。
 定期路線バスは、海棠市の鬼怒川の橋を渡り、それからおだやかな起伏の田畑の中を暫く走り、林が広がってくる小高いその分岐点を過ぎると、あとは千葉県に向けて完全に孤独な状態で、とくに森林が広がる森閑とした暗い地域を揺られて一人っきりで知るものもない地域を下校するのであった。バスの中も閑散としてくる。そして回りが静かになればなるほど玲子の面影がちらついてどうしょうもないのであった。
 それで、茂樹はひとつの決心をした。遠回りになるが、列車で城砦駅を回ってG線に乗り換えて通学するということに……。