蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 8 漫画との出会い


 漫画との出会い


 茂樹が最初に漫画というものを手にしたのは小学二年生の時だった。藁半紙を分厚く綴じた漫画本を読んでいたクラスの男の子が、興味深そうに茂樹が肩越しに覗いていると、簡単に貸してくれたのであった。しかもその漫画本は新品であった。自分が好きなのを茂樹が理解しているから貸してくれたということなのかもしれなかったが、親に金があって幾らでも買って貰えるという感じだった。
 もちろんどんな理由があるにしろ、貸してもらえたのは茂樹にとっては幸いだった。その月刊誌のなかには、彼が漫画の虜になるきっかけともなる戦国時代の侍ものが掲載されていた。
 父も母親も切り殺され、森にひっそりと立つ六角堂にやっと逃げ込んだ生き残りの侍少年に、返り血を浴びた傷だらけの情け容赦もなく殺気立つ野侍たち四五人が、じりじりと押し迫ってくるストーリーであった。ページを捲る茂樹には、この絶体絶命の窮地にたたされた少年の恐怖心が、絵の中のこととは思えないほど切実に身に迫って感じられた。その時からこれ以上のものはないと思い始めたのであった。その作品を描いた漫画家が横山光輝であった。


 中伊も池沼も漫画に対しては作者という立場で本格的に考えてくれているが、しかしその前にまず大学受験を優先課題として彼らは念頭においていた。それでもそれから四,五日ほど後になってから、そんな態度で良かったら自分も参加しても良いと池沼も言ってくれた。


 茂樹が高一の全学年のクラスに『お知らせ』をだし、中伊が初代会長を名乗りだしてから一週間後には、同じ全学年の後ろの黒板に会長として中伊の名前が追加され、石森風ドブ鼠も描き添えられていった。
 A組の後部の黒板を見た茂樹は、そんなに重要だろうかという疑問だけであった。会長を設けるなどと考えたこともなかったので、それに執着している中伊が不可思議に感じられるだけだった。
 「おい、結城、こんなこと書かれていいのか」
 同じように黒板をみた玄武統合中学出身の背丈のちょっと高い与野と久野が教室に入ってくると、開口一番茂樹に中伊のことで抗議するのだった。その口吻で中伊をあまり面白く思っていないのを感じ取った。
 「まあ、そんなに俺は気にしてはいないけど」
 「だって、結城、お前が始めたんじゃないか、あんな奴に会長面されることはないだろう」
 茂樹はそれ以上なんて答えていいかわからず笑顔を向けるだけだった。この彼の煮え切らない態度に落胆したのか、二人ともそれ以上は言葉がでないようだった。
 茂樹にとっては結局、この『漫画研究会』設立の動機は、お互いに刺激を与え合って、励ましになり、漫画を描くことになればそれで良かったので、別に頻繁に会合などもする必要もないし、会長と言ってもそれは名ばかりだと見なしていた。あくまでも同じような漫画家志望者がいて励ましになればそれで用足りるのであった。


 それから一ヶ月ほどして、中伊の学ぶC組のバルコニーに二人は呼ばれた。十分間ほどであったが、初めて漫画研究会のミーティングがそこで行われた。
 中伊が色の白い顔の中の目を細くして、今年の五月ごろから一人十枚ぐらいの短編を描いてちゃんとした月刊誌に纏めて出そうじゃないか、と池沼と茂樹に話すのだった。それはちょっと頻繁すぎると茂樹は驚いたが、池沼は一種の余裕を湛えた表情で黙って頷いている。とりあえず十枚ぐらいなのでその期日までに創刊号はできないことはないと思った。ひとつしか年上ではないが、この中伊の発案にはちょっと意表を衝かれ驚かされてもいたし、一枚も二枚も上手なのかもしれないとさえ茂樹は思った。
 「問題は案だな。案さえ良いのが浮かべば、あとは三十枚ほど三日もあればできる」
 そういいながら中伊の顔が異様に真剣なものに成り強張っていくのだった。が、まずどこからこの三十枚という枚数が急にでてくるのか鸚鵡返しに茂樹は聞いて見た。
 「俺は会長だから、三十枚ぐらいは描くんだ。それも一気呵成にな」
  彼は平気でそう決めてしまっていた。他の二人は十枚でも自分は三十枚をかいて、中心的な役割をになって本にするというのである。出すお金は同額らしいので、茂樹にはそれがちょっと不公平なものに感じられたが、それが彼が欲しがった会長という特権であったのかと驚かされた。ちょっと罠にかかったような気がした。池沼のほうはというと、あとで彼は鼻先で笑い、呟いていた。
 「まあ、やらせてみたら」


 三週間経過して約束の締め切り日に茂樹と池沼はぴったり十枚に納めて描いたものを持ってきた。このちょっとしたヴァニサーチは休憩時間を利用してC組の教室の後ろで他の生徒の目も憚らず簡単に行われた。有難いことに他の生徒は遠くから見るものが数人いるだけでそれほどの関心も持たないようだった。次々に部外者たちの手に渡り読み回され、時間をかけて神経質に描いてきたケント紙の漫画が汚されるようになっては台無しである。だから、それで良かった。
 中伊は傍目にも分かるほどはしゃいでいて、茂樹が茶封筒から大事そうに出す作品にすぐに両手で余白の部分を掴んで目を通し始めた。その間、彼の咽喉からは低い唸り声がでていた。そして次に、珍しく顔がほぐれている池沼の作品を手に取り、漫画の細部を見ながら読み始めた。
 茂樹は池沼の作品を読んで、作品のタイプが全く違うとすぐに思ったが、時間が経つにつれ、自分の作品が起承転結に拘り、僅か十枚の作品なのにストーリーをそこに詰め込みすぎ、盛りだくさんになり過ぎたかなと感じ始めていた。描いている時には、かえって限られた紙数を十二分に活かして読み応えのある作品にしてみせようと得意になっていたのであったが。池沼の作品は台詞が殆どなく、駒もそれぞれ絵画作品のように静謐で、恋愛を経験した男性が喫茶店で恋人との写真を眺め、ため息をつきながらコーヒーを一口含むのであるが、そこで初めて「……もう、冷めちまったか」と呟いて終わり、作品に品格と詩的なものさえ感じさせた。
 美大を目指す彼と自分にこんなふうな形で差がでてきてしまっているのだとすこしショックを覚えた。ただ、長編などになったらどんな風に池沼は描くのだろうかという疑問も残った。自分の漫画を描く方法は長編でも短編でも成功し得る最小公倍数みたいな力を持っているとちょっと自負するところが茂樹にはあった。もちろん池沼のような才能はそれはそれなりにこなしてしまうのだろうとも思えたが。
 「うむうむ、結城のは横山さんだ。それから池沼のは永嶋慎二先生の影響がでてるな」
 一つ年下の少年たちは顔を見合わせてちょっと照れた。少なくとも茂樹は、影響を誰から受けているのか、当てられて嬉しい気持ちさえしていた。
 「…そして俺のは、やっぱり石森さんの影響がでてるな」
 と呟くと、一人悦に入ったように大きな渇いた声を立てて中伊は笑った。
  彼が作品をださないので、不審に茂樹も思っていると、
 「まあ、あと二日もあれば描きあがる」
 と言い、
 「今日はまだ持ってきてない。凄い傑作なんだが、二日も徹夜すれば三十枚はかきあがる」
 と笑うばかりであった。
 池沼は大人しくそれを聞いていたが、中伊が二人をおいて立ち去ったあと、
 「たぶん、なにも出来上がってないんだよ」
 とゆっくりと落ち着いた口調で決め付けて茂樹を驚かせた。
 「まさか……」
 中伊の二日あれば三十枚かきあげ得るという自信にも驚かされていたが、池沼の憶測には更に驚いていた。そんなことは考えてもいなかったのだ。


茂樹の十枚の漫画作品を読んだせいだろうか、池沼がコピーということを口にした。初めてきく言葉であった。この漫画をコピーしておいたほうが良いと言うのだった。それは彼のまさに言うとおりであった。それで、彼ら二人は放課後に海棠市の繁華街にある文房具屋に行き、そこにあるたった一つのコピー機で店の奥さんらしい小母さんに操作してもらった。大事な彼の作品であったが、彼女はまったく関心がない態度で黙って一枚づつ硝子盤の上においてはスイッチを押すという作業を繰り返していた。
 「凄い、こんなことが出来るんだぁ」
 目の前で刷れ上がってくるそっくり同じものを手にして、茂樹は文明の利器を直接目撃した気持ちだった。思わずはしゃいでいる茂樹を見て池沼は声も立てずにクックックと笑うばかりであった。 
 「ガロっていう漫画雑誌しってる?」
 池沼はこの時にも茂樹に謎めいた言葉を呟き、不思議な気持ちにさせた。
 「アマチュアの漫画が投稿できる雑誌なんだ」
 「漫画が投稿できる……」
 「誰でも描いて送れて、そしてガロの編集部に気に入られたら載せてもらえるんだ」
 「ガロ、いや全然分らない…」
 池沼の顔が静かに緩むのをよそに、茂樹は自分がいかに何も知らないかという事実を知った。漫画についてはいろいろ知っていた積もりであったが、自分がほぼ井の中の蛙のような存在であることをこの池沼の前では感じるのだった。
 思えば、それほど茂樹は漫画を読んではいなかった。好みの漫画家たちが決まっていて、横山、手塚治虫のほかは、石森章太郎でさえも拒否反応を自分のなかに感じるほどであり、ましてや少年サンデーやマガジン以外のものの存在には別に目も通してはいなかった。
 池沼はさらにガラス張りの綺麗な海棠市内の書籍店に彼を導き、
 「今月号がもう出ているはずだがなあ」
 と言いながらすうっと店頭から入っていくと、A4版の大きさもある大きな、しかし六十ページもないような薄い漫画雑誌を手にとって見せた。
 「これさ」
 「……これがその投稿のできる…」
 雑誌に掲載されている漫画家たちの画風は独特なものだった。見たこともほとんどないような作風だった。拙いとしか評価できない作品もあったし、また台詞の部分がほとんどなく絵だけで語るという作品もあった。それは池沼の作風でもあるとすぐに理解した。彼はこの雑誌から影響を受けているのだと思い溜息をついた。この雑誌の世界は売れっ子ではなくても、知られてはいなくてもまたアマチュア風の作品でも自分の信念を貫いて描いているような芸術家の気質が感じられた。
 規定の枚数は生憎十枚ではなかったが、一冊購入してその日は帰った。池沼にもぎこちなく感謝した。人付き合いのない彼にはこんな時にスムーズに感謝の言葉もでてこないのであった。


 その後、池沼の断定した通り、二日経っても、一週間過ぎても中伊が二人の前に提示する作品は何もなかった。その後もいっこうに二人の前に漫画作品を持ってくることはなかった。また、そのことが気まずいせいなのか、会員が三人集まってからわずか二ヶ月もしないうちに、この研究会は開店休業という状態になってしまった。いや、消滅したといったほうが正確なのかもしれなかった。
 つまるところ案を捻出して漫画にしあげるのも一人の孤独な作業なのであるから、一応『漫画研究会』を作って見て、関心のある同級生が二人発見できたということだけでも茂樹にとっては気持ちの上で一つの成果ではあった。‎


 漫画を描くためには大変な精神的、肉体的な労力が必要であった。通学しながらの作画であったので十枚描くのにも一月はかかった。プロの漫画家は睡眠と運動を犠牲にして、毎週の漫画雑誌に作品を掲載させている。茂樹には自分の漫画を描くスピードが酷くのろく、また、自分が一生をかけている世界なのに同志を必要としていることも自分が弱いせいだと思った。もっと意志が強ければ孤高を保って邁進できるはずではないかと思い、自分に不満足であった。
 結果的には口だけで調子の言いことだけをほざいただけの中伊はもう何も漫画については触れたくなさそうであったし、廊下ですれ違う時には、茂樹から目を逸らすほどであった。
 池沼も美大受験のほうが最優先であるので、それ以上は彼も漫画を描くことは話題にしなかった。池沼とも殆ど会話をすることもなくなった。茂樹も無口なほうであったが、彼といったらいつも沈黙していて目だけで観察しているようなところがあった。
 そんな彼が珍しく話しかけてきた。
 「俺、就業後にブカツに行っているんだけど、来て見ないか」
 ボソッと言った池沼の言葉が、すぐには理解できない。
 「ブカツ…?」
 「美術部さ」
 「ああ、美術のクラブ活動ということか」
 そこまで確認しても、まだ具体的なイメージが茂樹には湧いては来なかった。
 「明日、その部活があるんだけど、君の漫画を持ってこないか。伊藤先生に見てもらわないか」
 池沼が彼を美術のクラブ活動に誘おうとしているのかと最初は思ったが、あの気難しい美術の授業の教師に見せるという話であった。ピカソとかクレーやココシュカに感激しているこの教師の授業は、あの週に一度のそれで十分だった。ましてや彫刻の胸像をテーブルに置いてそれを毎回スケッチさせられたのでは自分のプラスにはならないと茂樹は判定していた。そんな悠長なことを自分はやっている暇はない。
 だが、ちょっと自分をあの教師に見直させることにはなるのではないかと興味を持った。
 さっそく翌日の午後に二人で美術室に行きひょろながの老教師に池沼の紹介もあって例の作品を見せると、絵画を製作し創造する立場の人間だけあってじっくり多少の驚きを交えながら見てくれた。
 「君の絵は悪くないが、この文字はもうちょっとどうにかならないのかね」
 茂樹は思わず笑顔を浮かべて、そこだけは印刷所が活字を入れてくれることを得意になって説明した。
 「ほう…」
 と感心している教師をあとにしながら茂樹の気持ちは明るく高揚していた。人に少しでも認められたという喜びがそこにあったし、これからは違う目でこの気難しい教師が自分を見てくれるのではないかと思うと嬉しかった。


 その後漫画の月刊誌『ガロ』をもう一部購入して眺め読みしていたが、とても自分が真似できるような、また自分の肌にあうような潮流ではないと感じ始めた。投稿欄があっても、次元が、根本的な漫画に対する考え方、フィーリングが違うことが雑誌全体に雰囲気としてあった。そしてとても自作品が挑戦できるような世界には思えなかった。
 二三冊立ち読みもし購入して読んで感じたことは、この雑誌の世界には最初から自分は適さないし、ここの読者とは異なると言う事だった。自分はここの漫画雑誌を読み、また投稿するようなタイプの漫画家志望ではない。耽読すればするほど疎外感を覚えるのだった。自分の呼吸する世界ではないと感じるのだった。自分の活躍する舞台はもっと違う雰囲気の漫画の世界だと思った。この『ガロ』の世界はむしろ詩であり、自分の世界は散文だと思った。