蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 7 漫画研究会結成

 
 漫画研究会結成


 決まった列車の時間というものがあって、それにあわせて茂樹も他の市町村から通う生徒もそれぞれ教室を出るのであった。ある時間が訪れるとみんなはたちまち校舎からでて、海棠駅に向かって姿を消して行った。
茂樹はそんなある放課後、帰る列車をひとつ遅らせた。そして、これまで何度か考えていたことを思いを決して、実行に踏み切った。
 『漫画研究会結成。同志求む。関心のある人は一年A組結城茂樹まで』
 DからG組まで、四つの教室の後ろの黒板に白墨で次々に書いていった。最初の教室の後ろの黒板に書くときにはどきどきしたが、次の教室からは比較的楽に、指先のチョークは流れて行った。
 なぜ全クラスに一挙に書かなかったかというと、これ以上に拡げることが茂樹にはできなかったのであった。女子の学ぶ最初の三つのクラスには羞恥心が邪魔して書き記せなかった。漫画なんかを描くということは愚鈍で低脳な少年に自分が見えてしまうのが当然という気がしたからだった。玲子への可能性のない希望を吹っ切るために、このアクションを起こしたのであった。が、やはり一貫しておこなう事ができず、男子クラスのなかだけで十二分に反応を期待できるだろうと自分に言い訳していた。これだけで関心のあるメンバーを集めるのに十分ではないかと予想していたのであった。また、男子だけのクラスに遊びに行く女生徒はまずいないと思えたから。
 こういうやり方でアピールし、目に触れるようにしなければならない。そして少人数編成の『漫画研究会』というものをとにかく結成するのだ。男子だけのクラスで十二分に集まるだろうと彼は思った。ABCクラスまで騒がせることはないのだと思った。女生徒、特に玲子が結城のことを漫画と関連させて知る必要もなかった。もともとこっそりと努力して行きたかったのである。そしていきなりデビューして中退するのが目標であった。
もちろん、女生徒の居るクラスにもこの茂樹の書いた募集内容が広まってしまう可能性はどうしようもなかった。それはしかしそれでしょうがないとは思ってのことだった。自分への励ましのためにも同志を募る事は重要だと思ったのだ。


 だが二日経っても一人も茂樹に話しかけてくる生徒はいなかった。それで三日目になると、勇を鼓して残った男女共学のクラスにも白墨でカチカチッと音を立てて同じ募集広告を書いていった。
 すると、翌日の朝一番で、中伊という背のちいさく目の細い少年がニタニタしながら、ドアから出て行く他の生徒と体をぶつけても気にならないほどの旺盛な好奇心に溢れた視線を室内にむけて茂樹のクラスに入ってきた。
 「結城という奴は、どこにいる」
 誰かれ構わずクラスメートを捕まえて彼は訊ねていた。   
その声は後部座席に座っていた茂樹にも聞こえたので、彼は立ち上がってこの中伊という少年と対面することになった。
 「俺が結城です…」
 「うん、うん、…あんた漫画をかくのか」
 「ええ、まあ」
 左肩を彼に軽く叩かれながら短いやりとりが続いた。
 「あとで、Cクラスにこないか。休み時間に話をしよう」
 それだけ言い残して、彼は再び茂樹のAクラスをでていった。来たときと同じでどこかワクワクしているところがあった。関心はあるようだった。漫画を研究するということ、つまり描くことを意味するこの活動を馬鹿にしているわけでも、文句を言いにきたわけでもないのを感じた。やっと漫画家を目指す本格的な同志が眼前にあらわれたと思うと、それだけで茂樹の胸は急に熱くなってきた。


 休憩の時間に彼を訪ねると、
 「『漫画研究会』の会員になってもいいんだが、実は俺のほうが君よりな、ひとつ上なんだな。病気をしちまって一年留年してるんでな…」
 茂樹にはこの話の展開が良く分からず、肌のつやつやしていて黒目勝ちの小粒な目をした中伊の次の言葉を待った。彼は一匹の鼠の漫画をにやにやしながら茂樹の目の前に出した。おそらく今の授業中にかいたものと思われた。皺が多く毛も細かく描かれていて、不気味で恐ろしい表情が宿っていて、その作風は石森章太郎そっくりであった。まさに彼の作品をなぞった以外のなにものでもなかった。茂樹が目を丸くしてみているのに満足して中伊はさらに語を継いだ。
 「俺は、石森さんと東京であって話も親しくしたことがあってね、忙しい時には手伝いに来てくれないかとも言われていて、誘われているんだよ」
 「はあ……それは、すっ、すっごいですね」
 作風が似ているということは独自性がなくて問題ではあるが、茂樹が『漫画研究会』の同志を募集とか、この田舎の高校でやっているのに、この中伊という少年はすでに石森章太郎に東京で会っているということであった。それがやはり自分からあまりにもかけ離れ優越していて、茂樹としてはただ唖然とするだけだった。こちらはあてもないずぶの素人も甚だしいのに、中伊はすでに有名な漫画家の家の敷居を踏み入っている。中伊がどんなに目を細くして優越感も露に笑い続けていても、それは当然の態度に見えた。
 「君はどんな漫画家が好きなのかな」
  どんな人に心酔しているのか、同じ仲間と思えるものに告白するのはやはり茂樹としても嬉しかった。読むだけの人たちとは違って実際に描くほうの立場にたっている者から、どの漫画家がすきであるかどうかという質問は、もう仲間内の会話であり、お互いの心を開くようなものと同じであった。
 「横山光輝とか、手塚治虫、それから白戸三平なんかも好きですね」
 未知のしかし今最も自分を理解してくれそうな同志を前にして、巨匠たちの名前を並べ揚げる自分の頬が、喜びに火照り興奮しているのがわかった。
 「うん、うん。手塚治虫と横山光輝ね」
 そう繰り返す中伊の唇の薄い口は、同時に茂樹の実力をテストし、もち味と傾向を探ろうとでもしているようだった。
  「『漫画研究会』に入会してもいいが……俺が会長ということではいけないかな」
 そういいながら茂樹をぴたりと見据えるのだった。だが、そんなことは彼にはどうでも良かったし考えてもいないことだった。
 「いや、俺としてはそれは別に気にもしてないことで、会員ができただけで、もう嬉しいだけです」
 中伊はそんなに簡単に承諾されるとは思ってもいなかったのか息を深くついで茂樹の肩に手を置いてにんまりと笑顔を綻ばせた。


 最初に後ろの黒板に募集事項を書いた頃から、他のある男子生徒からも注視されている気が茂樹にはしていた。その生徒は時折近くまで来るとじっと彼を見つめているようなところがあった。                      ‎
 その生徒は池沼といい、やがて茂樹を見ながら近づいて言葉をかけてきた。
 「どう、『研究会』のほうは。大分集まった?」
 色が浅黒く鼻も唇もこれと言った特徴のない少年だった。目は大きく白い部分も目立つが、黒目勝ちのその目付きだけはどこかものをじっくり観察するような落ちついたところがあった。
 この池沼が話しかけてくる前から、漫画に興味を持つ種族に違いないと茂樹も感じていた。
 「いや、たった一人だけ、あとは全然…」
 「…そんなもんかな、やっぱり」
 池沼にはどこか達観したようなところがあった。彼のその顔を見つめながら一番聞きたい質問を茂樹もしてみた。
 「漫画は描いたことある?」
 「ある。あるけど」そこでにこっと笑うと「将来性があまりないから、しっかりしてないから、僕はやめたんだ」
 「……もう描いてないの」
 「趣味でたまには描いてるけど、そんなに本気でやってるわけじゃないな。…僕は美大を目指してるんだ」
 「美大を…」
 「ああ、東京の美術大をね。それからでもまだ漫画のほうは遅くないしね」
 美術関係に失敗したら、漫画家になることをもう一度考え直してもいい、という風に茂樹には聞こえた。中伊と同じくこの池沼も結構な自信家で、また自分の才能を十分自認しているらしいのを感じた。茂樹も自分の漫画の才能はある程度確かなものがあると信じているが、彼らにはそれ以上の余裕と自信がたゆたっているように思われた。
 始業時間が迫り、彼はAクラスをでていったが、やはり漫画が美術のかなり下のランクに見做されていることが感じられた。茂樹自身も実はそのように思っているのでそのままぐうの音もでない。池沼が隣のBクラスに廊下を急ぐのを見送るばかりだった。
 漫画は芸術的には美術よりも低いかもしれない。でも、幼少期に一番最初に手にとるのは絵本はもちろんだが、自発的に手にとって読むのは漫画ではないだろうか。だから漫画の影響力というのは絶大であり重要だと茂樹は見なすのであった。なによりも自分が漫画に捕り衝かれていることがその重要な証拠と言える。