蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 5 仄かな触れ合い

 仄かな触れ合い


 海棠一高の校舎は、新館、旧舘、体育館の順で東から西に向かって縦に立ち並んでいた。鉄筋コンクリートの四階建ての白亜の新館を出て旧館に行く用事が茂樹にはあった。
 ちょうど茂樹が新館のドアを開けていきなり少し冷え込む外気に触れた瞬間だった、同じようにして向かい側の旧館の木製のドアから二人の女子生徒がちょうど姿を表した。一瞬その女の子たちも茂樹を見た。しかしそのまま微笑み話しながら、三段の石の階段を半ば視ながら降りて、渡り廊下をこちら側に歩いてくるのだった。何かを楽しそうに話しながら歩いているのは玲子であった。もう一人の女生徒は耳を傾け頷きながらも視線を玲子から茂樹のほうにチェックでもするようにむけては、また玲子のほうに戻すのであった。
 簡単なトタン屋根が頭上を覆っただけの渉り廊下は十メートルもなかった。
 傍らに歩む相手に顔を仰向けて語りかけているのはやはり間違いなく玲子であった。それが彼女だと認めると茂樹の感情がすぐに掻き乱され落ち着きを失うのだった。
 残念ながら玲子は茂樹のほうに後頭部と横顔を見せた状態で時々は足元を見ながら歩を進めてくるので、彼には彼女をつぶさに近いところで盗み見ることができない。彼女の右側の女生徒は何度か茂樹に顔をむけてくるが、玲子は自分の話す内容に夢中になっているためなのか、あるいは殊更に茂樹のほうを見ないようにしているのか、一瞥でさえも与えてくれない。
 まさに横に三人が一列に並ぶ一瞬前である。こんなに近く玲子の顔を視れるチャンスはこのときを置いて他になかったが、玲子が黙った。だが、玲子は僅かな数秒間言葉を捜していただけであったのか、再び何でもなかったかのように話を続けるのだった。その声だけでも聞きたいと茂樹は思って、ゆっくり歩いていくのであったが、聞こえたのは一緒に歩く女生徒の頷く大きな声だけであった。その声はただ相手に意思を伝達するためにだけ備わっているような、沢庵でも噛んだときの音のような明確なものであり、そのためにどんなことを玲子が話し、またどんな声であるのか殆んど聞き取れなかった。そして玲子のほうを窺う茂樹を傍らのもう一人が、まともにすれ違いざまに顔をぴたりとむけてきた。白く殆んど正方形に近い顔型をした女生徒の表情はなんの感情も表出していないように思えた。もちろん、実際にはそんなことまでは分らないし、読み取ろうとする関心もその叔母さんふうの女生徒にはなかった。ただ茂樹がそちらをみているからその彼女も見ていただけなのかもしれなかった。
 あるいは玲子の気持ちをその彼女が知っていて、この瞬間にその玲子が好ましく思っている当の相手である茂樹が、反対側から来ているのに何も伝えてあげられないことを残念に感じていたのではないのかとさえ彼は想像した。でなければ、自分のほうを何度も見やったりはしないだろうと思った。
 玲子はこちらに一瞥することもなく何かを語っていたが、どんな内容なのかその言葉の片鱗だけが彼の聴覚に残っただけであった。微かながら彼女の出席簿で放たれる「はい」以外の声を聞くことが出来て茂樹は新鮮な興奮を覚えていた。擦れ違った地点は茂樹がゆっくり時間を稼ぎたいと思っていたせいで、新館に近かった。そして彼は木造の暗い旧舘にはいる前に彼女の後ろ姿を振り返って名残惜しそうに見た。だが、同じように自分を肩越しにちょっと振り返ったのは色の白さの目立つだけの小母さん風の女生徒だけだった。
 彼女たちの姿がガラス戸の中に消え入ったあとも彼は旧館のドア近くの内側の壁によりかかり、今歩いてきたばかりの地面に石盤が並べられ屋根を支える木造の細い柱が五、六本も両側にならぶ通路を見詰めていた。もしかしたら戻って来てくれるかもしれないとさえ彼は幻想していたのだった。
 彼は今起こった出来事を心のなかで反芻していた。例え横顔しか近くで愛でることができなくても、彼の期待以上に玲子は美しく、その魅力を自然に振りまいていた。小さな高い鼻梁と可愛らしい豊かな唇。そして睫が長く密なせいなのか笑顔に撓む瞳は僅かに涙袋も膨らませ、ことさら魅力的な微笑みを放散し茂樹を捉えて放さないのだった。
 彼女より少し背丈のある色の白く顔の大きめの背後の女性は、どんな女性も玲子の近くにいてはそうなのだが、見事な引き立て役に落ちてしまっていた。このときにはしかも、旧校舎に西日は遮られて、南から力を削がれた穏やかな陽光が屈折し彼女たちを柔らかに浮き立たせていた。そのために、玲子の横顔はさらにその女性のために和らげられた光に映えていて、それはちょうどダ・ヴィンチの岩窟の聖母のデッサンのような、時を忘れて見詰めていたいような完璧な美しさをもち、聖なる雰囲気も立ち込めていて、やはり近寄りがたいものが感じられた。
 そして彼女の声と言うと、しっとりと心の琴線に触れる繊細な響きを湛えていて、美しくも可憐な声だった。これ以上フェミニンな響きはありえないような、そんな音色であった。本当のところを言うと、それは彼の感受性に富む、若い性感帯に訴える響きと音色を持つ声であった。とにかく、ほんの僅かな瞬間だったが、とうとう彼女の声を聞いたと彼は思った。茂樹のことも意識して、玲子はとっておきの綺麗な声を彼むけに出してくれたような気さえした。彼女は少しは自分に気があるのかもしれない。
 もうこの時には、勝手に茂樹はそう思い込み、自分の胸から色とりどりの薔薇や百合などの香り高い美しい草花が咲き流れ、彩り豊かな蝶々が飛び立っては自分を包むように旋回するのを瞬時見た思いだった。


 だが、彼女の容貌が美しければ美しいほど、そして美声であればあるほど茂樹は早くも再び落ち込んでいくのであった。彼女が自分に興味を持つ理由が全くなかったからだ。同じ学年に素晴らしい男子生徒は幾人もいたし、渡り廊下での擦れ違いを反芻してみても、あの時のもう一人の女生徒が玲子の護衛でもしているかのようにさえ数分後にはもう感じられるのだった。
 そしてその後の美術の時間にも相変わらずこちらは背を向けているだけで、彼女の姿は全く見えない。名前を呼ばれて「はい」と答える玲子の声を聴くことだけが彼の僅かな愉しみであり刺激として日常化するだけであった。あきらめてはいてもこの声を聞く楽しみだけは密かに味わっていたし、美術の授業が終了すると後ろももちろん振り返ることも出来なくて、さっと新館のクラスに戻るだけだった。