蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 4 美術の授業ではじめてみた美少女

 美術の授業ではじめてみた美少女


 美術はABクラス合同の授業になっていた。美術か書道のいずれかという選択科目になっていて、AとBクラスの半分がそれぞれの選択科目の授業室に一緒に詰め込まれることになった。書道が義務でなくても、美術が必修科目に組み入れられていないことに多少の驚きを茂樹は感じていた。また、自分の希望通りに美術を学べることに大喜びであった。
 この特別科目の教室は古い木造の平屋建ての建物にあった。そこに行くためには新築の校舎を西側にでて、一端外気に触れ、トタンで葺かれた木造屋根の狭い通路を、不規則に並んだ石畳を踏んで入っていくのであった。
 その授業で茂樹は初めてある女生徒を見た。ただ、護身術からすぐに自分にはあまり関係ない存在だと、魔物でも見るように思いを逸らすのであった。この高校時代に漫画家達成を祈願として念頭におく自分には、彼女は無縁であるべき危険分子であった。だいたいにおいて自分が晩熟であるし、チャンスもないことは分かっていた。また、女性とは縁が自分にはないことも分かっていた。縁があったとしてもたぶんなにをしたらいいのか次の一歩が茂樹には分からなかった。何もしてはいけないことだけが分かっていた。そこが自分と兄との違いであった。中学生の頃から兄には思慕の情を燃やしてラブレターを渡す女の子もいたし、学年で一番綺麗な女の子と一緒に並んで親しげに話しているのを見たことがあった。それに対して、茂樹にはデートとかキスとかは全く不必要な外国語であった。自分に関係ありうるとは考えたこともなかった。
 美術の教師は変な老人であった。教えるという気があるとは思えない態度を露見していた。仕方ないからやっているという感じであった。本当はこんな授業など担当するような俗人ではなく、我自ら高尚な芸術絵画を描きあげたいという態度が見え見えであった。せっかく自分が芸術、美術というのはなんであるのか学びたい気持ちでいるのに、この教師のために当て外れで、早くも茂樹は落胆しなければならなかった。
 とても怒りっぽく、なんか少しのことでも気に障るらしく生徒を怒鳴り散らした。しかもこの授業は茂樹が期待したものとは違ってしごく退屈なものであった。
 たとえば、ギリシア人の石膏像をいくつか置いて、その周辺に机を輪並びさせてスケッチをさせられるという授業時間があった。ただ唯一の甘く辛い刺激は、やはりそのB組から来ている女生徒の存在であった。ただ、茂樹の小グループにはその彼女の姿はなかった。彼女のことは気になった。しかし彼女をみたくてもわざわざそちらに顔を向けることが彼にはできなかった。ただこの痩せぎすで背丈のあり髪の毛が殆ど耳の周辺にしかない怒りっぽい教師の高い声で出席簿を取られた時に、彼女の順番が来ると彼は思わず息を潜めて全集中力を密かに聴覚に収斂させていた。教師が『いわもとれいこ』と呼ぶと、その後に続く彼女の声に耳を澄ませるのが茂樹の本当に唯一の愉しみになった。
 A組が教室の前半分の四列に席をとらされているので、彼女を見たくてもことさらに自分で後列を振り返らない限りB組の彼女の姿は見られない。しかも自分が座る列の二つ離れた真後ろなので斜めに盗み見ることもできない。だから彼女の声、ほんの僅かな「はい」という一声だけが『いわもとれいこ』全部であり彼女を象徴するもっとも近い近似値であった。そして、その彼女の声にも茂樹は驚かされていた。なんと綺麗な声なんだろうと驚かされていた。乱暴な少年っぽい声ではもちろんなく、鄙びた聞き苦しい声でもなかった。それは美声としか他にいいようのない響きだった。その声はとてもフェミニンで魅力的な音色を含んでいた。出席簿をとられるときのハイという音声以外ではどんな音色がでてくるのだろうかと、茂樹は想像力を搔き立てられるのであった。彼女の咽喉から流れ出る他の音声の組み合わせをもっと聞きたいと思った。こういう美しい声はこれまで聞いたこともないと思った。


 同じ教室にいるので彼女の姿や顔を見るチャンスは多くあるはずだと人は思うであろう。だが、思春期の潔癖と羞恥などのせいだろう、彼女のいるほうに視線を這わせることに大変な躊躇いがあった。大抵女生徒たちは先に教室にきていたし、だいたい固まって話をしていたので、他の女生徒の影になってこの『いわもとれいこ』を目にするのは無理であった。彼女の座っている席の周りには、どこか人垣のようにして他の女子生徒が集まっているようなところがあり、いつ視線をおずおずと投げてみても遮られて、殆んどその彼女の姿を見ることができないのである。
‎ 美術の時間は一週間に一度しかなく、いつも午後であった。午前中の多少緊張して受ける授業と異なって、昼食後と言うこともあり、幾分気持ちの上でも緩みが生じていた。
 茂樹になんらかの野心がなかったとは言えない。彼は一度早めに美術教室に席をとっていた。するといつも後ろに座るB組のこの科目を選択した生徒たちが教壇のある前のドアから一人、大抵は二三人でそぞろに姿をあらわすのであった。
 当然の成り行きであったが、自分の期待通りにことが進んでいると思うとだんだん胸の鼓動が高鳴ってくるのをどうしょうもなく感じていた。
 計画が成功しつつあった。そして、まもなく岩本『玲子』も思わず息を呑むような可憐な姿をあらわした。ところで茂樹は、自分勝手にこの漢字を彼女の名前と見なして当て嵌めていた。本当は、『麗子』かも、あるいは『怜子』かも『礼子』かもしれないのである。でも茂樹は彼女の名を『玲子』だと信じたし、その漢字の組み合わせが唯一気に入っていた。  
 玲子はいつも一緒にいるらしい女の子と戸口にあらわれ、自分の席につくために茂樹の左脇のテーブルの間の通路に向かってスカートの前の部分を左右交互に膝で僅かに揺らし、黒いストッキングの足を前に出しながら歩を進めてきた。その際、中年の小母さんっぽいクラスメートが先に立ち玲子を振り向いてなにか話しながら彼のテーブル付近を通っていくのであるが、玲子は聞き役に回っているために全く彼女の声が聞けないのであった。
 彼はこの通り過ぎる瞬間を捉えて上方に視線を泳がせた。そして彼女の顔をさっと盗み見た。それは自分としてはかなり大胆な行為であった。
 すると、この気配を察して、玲子の眉がぴくりと動いた。それは明らかに迷惑そうな拒否反応であった。そうとしか感じられなかった。
 茂樹はこの自分の行ったアクションにすぐに恥辱を覚えた。そしてとても悔やんだ。もう絶対彼女のことは盗み見もしないし、自分とは無縁の女生徒ということで頭から除去しようと決意するのだった。
 大体においてもとは男子校だったのである、学年で合計二百五十名の内、女子生徒はABCクラスに分けられているが全部あわせても僅か四十五名にも満たないのである。学校内という狭い世界では女子生徒はそれだけで希少価値であった。たとえ漫画しか念頭におかなかった茂樹にしても意識しないわけにはいかない存在であった。たぶん大学入試のための準備にきているだけだと誓っている多くの男子生徒にとっても無視は出来ない存在であったはずだ。ということは女の子に近づきたいなどという気持ちになってもチャンスらしいものがないのは男女構成の割合からみても自明のことであった。
 しかも、他の男子クラスに同じ出身中学の生徒を訪ねたときに、背丈のある外観の良いハーフかと思えるような美しい男子生徒や精悍なスポーツマンタイプの男子生徒なども見ていて、とても叶わないと思ったものだった。また、男子だけのクラスの生徒たちは露骨に廊下の窓から女子生徒を授業の休憩中に共学クラスのAのほうまで見にきたりしていて、かなり異性に積極的なのである。同学年だけではなく廊下から女子生徒を盗み見に来る生徒には上級生たちにもいて茂樹を呆れさせるぐらいであった。標準の背丈と体型の茂樹にこういう女子生徒の関心を自分に向けさせようとか、そんなことは全く不可能事といえた。ましてや玲子ほどの凄艶美を匂わせる少女においておや、ということになる。
 玲子のその拒否反応は恍惚となっていた彼にとっては、深く心地よい気分で寝ているところをいきなり猛烈な平手打ちで叩かれて覚醒させられた気分であった。しかしそれはかえって有難いというほどの気持ちになっていた。漫画家志望のレールに迷いなく再び戻れた気分だった。女の子は自分には関係ないし、そんな暇はこの目標の前にはない、と今度こそ言い切れる気がした。


 そんな決意の後に美術室で、茂樹にひとつの事件が起きてしまった。
 美術の授業が終了する時には、それまで斜めにしていた机の上板をもとの水平の状態にもどさなければならない。しかしその日は最初から茂樹のテーブルの蓋板は斜めになったままであった。前の授業で誰かが戻さなかったのである。もちろん、終わりに近づいた時点で左脇下にある金属製のネジを緩めてまっ平らの状態に戻せばいいだけの話である。茂樹は軽く考えていた。
 そしていよいよ美術の時間が始まり、諦めながらもやはり玲子の「はい」という声に猟犬のように耳を立てんばかりに聴覚を鋭くさせ記憶までしようとしていた。それからあとは惰性で退屈な授業を受け、いよいよ終わりに近づいてきた時のことであった。軽い気持ちで他の生徒たちと同じくいっせいに、ネジを摘んで回し、蓋の板を水平に戻そうとした瞬間であった。指に物凄い抵抗を覚えたのだった。つまり小さな金属性のネジが微動だにしないのである。思いのほか硬い。わざと誰かがペンチで堅く締めたのではないのかと猜疑したくなるほど硬くて動かない。
 テーブルは二つづつくっついていて右側に座る物は右下のネジをつまんで回せば良いのであった。茂樹の場合はその逆で、左手で左側にまわせば良かったのである。ところがいくら力を入れても溶接された一個の金属製の塊のようにびくともしない。指の先が白くなるほど力をいれても固くて回ろうとしない。それで、起立の号令がかかったときには、礼をしたあとに直せば良いと即座に判断し茂樹はみんなと同じ様に、しかし一息遅れて立ち上がった。が、前から二列目の茂樹のテーブルが傾斜したままであることを、この癇癪持ちの老人は見逃さなかった。
 「なんだ、君ィ。ちゃんと机を直しなさい」    
 教師の声には規則を厳守しない者への怒気が籠められていた。おまけにその投げつけられた声は、教室中に良く轟き渉り逃れようもない。茂樹は二列背後に立つ彼女にも自分が罵声を浴びせられている当人であることが分かるに違いないと思い、それが恥ずかしくて、机の左側に屈みこむようにして、一所懸命左の指でこれと思った向きに渾身の力を注ぐのだった。半分色の剥げだ、銀色の小さいネジを緩めようと頑張るのだったが、それでもびくともしないのである。とっさに、もしかしたら逆に自分が間違って締め続けているのだろうかとも思い、今度はネジを摘んだ二本の指先に全力を注いで逆方向に捻ろうとする。だが、やはり金属製の固まりは指の皮が裂けてしまうのではないのかと思われるほど渾身の力をいれてみても到底動く様子がない。茂樹は途方にくれる思いだった。すると、
 「左にあるときには逆にネジを回すのぐらい分からないのか」
 と思わぬ笑い声をこの老人が快活そうに上げたのだった。しかも茂樹の周りの生徒たちもそれを機に一斉に笑い声をあげ、教室全体にこの授業であがったことのない笑い声の大合唱が木造の建物の中で反響しガラス窓が微かに揺れるようでさえあった。
 彼はますます焦ったが、やむなく机から脇の通路に出て、左足を床につけ膝まづくと今度は右手の指で色の剥げかかった銀色のネジを掴んで乱暴に時計の進行方向に、そしてやはり効果がないので思いっきり左側に回そうとして、第一関節までの指の骨が折れるのではないのかと危惧されるほどパワーを滅茶苦茶その一点に集約させた。するとガタンと音を立てて上板が頑固一徹をやめてあっけなく動いてくれた。時計の正逆両方廻そうと力を込めてやっているうちに緩んできたのに違いなかった。茂樹はこの成功に気を良くして、右後ろに佇んだ状態でいるに違いない、玲子のほうに素早い一瞥を投げた。彼女は形の良い唇と鼻の前に小さな白い手をかざして綺麗な目を細めて美しく微笑んでいた。茂樹は彼女のその微笑を盗み見ることができただけでも、この事件は自分にとってかえって幸いであったと内心大喜びであった。
 教室の生徒全部が彼の失態を知らされて笑ったわけであるが、彼の頭の中では岩本玲子しか存在しなかった。彼女が見せてくれたその微笑で、玲子との間に一縷の個人的な絆ができたようにさえ思われた。彼女の微笑みが彼に僅かだけでも自信を芽生えさせてくれたような気がした。そして今度機会があったらもっと彼女をよく見て見たいという新しい欲望に衝かれるのだった。憧れることでさえも止め、諦める気持ちであったのに、その硬くあるべき殻はもうどこかに吹き飛んでしまっていた。 
 そして彼女と会う機会は意外と早く訪れた。