蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 2 受験


 受験


 高校受験の朝、統合中学校から濃いグレーのバンに乗って、付き添いの無口な教師に随行され隣の大きな町である海棠市に運ばれていった。他の生徒は単語帳とか捲っていたが、茂樹にとってはこういう車に乗ることも初めてであったし、シティーと呼ばれる市街をみるのも初めてで窓外ばかりを眺めていた。普段、茂樹をガリ勉と決め付けていた背丈のある生徒がなにもしない彼を見て「余裕だなあ」と皮肉った。
彼には行きたくもない高校に進学すること自体が不本意であった。そんなことはこの生徒も先生も知りようはずがなかった。受験地への移動中、浅黒いちょっとした男前の中年の教師は寡黙な横顔をみせるだけだった。その顔はいかにも詰まらなさそうだった。仕事として振り当てられたからバスの中に座っているのだという表情でもあった。別にかれら受験生を励ますとか気を使うという様子は一切なかった。


 茂樹の住む茨城県下総の田園地帯では、それまであった結城群玄武町付近の五つほどの木造の中学校が一昨年ばかり前に一挙に閉鎖され、代わりに統合中学校として堅固な築造の団地アパートのような一つの校舎に纏められた。畑や田んぼの真っ只中に突然現れたひと棟の建物はとても際立っていたが、この海棠高校の校舎はさらに大きく、周りを睥睨できる丘陵に建立されていた。白亜の四階建て鉄筋コンクリートからなる三棟の建築物群だった。
 受験用に決められた教室に通されると、この日ばかりは寡黙で従順な中学生たちは、教壇に向かって縦五列に並べられた机の間の狭く細い通路を歩いて、指示された席に座った。出身中学校ごとに縦列に座るようになっていた。茂樹は玄武統合中学校出身の受験生としては一番成績が良かったせいだろう、玄武出身の中学生としては先頭に座らされた。前から三番目あたりに座っていたが、眼の前の背を向ける生徒は、他の中学校出身では最悪の成績の少年ということになる。しかしそのときには、そんなことを考える余裕も関心もなかった。ただ他の生徒がごそごそとまだやめずに、携帯してきた教科書や参考書をぱらぱら忙しげに捲っては、必死に呪文のように口の中で繰り返し年代とか英語の単語とかを暗記しようとしているのを見ているだけであった。男子生徒が多かったが、女子生徒も茂樹のすぐ右となりに何人か黙って分厚い本に眼を通していた。茂樹には受験に対する戦意もなく、教室内にどんな中学生が受験に来ているのかそんなことにも無関心であった。受験に落ちても良いとさえ思った。が、すぐにその結果生じる恥辱を思うとやはり合格しなければならないのだと眼が覚めたりもした。
 始まるまで、机に肘をついて何も置いていない人工ガラスでつやつやのテーブルの表面に眼を落とし、時々は自分の席より前に展開する情景だけに、ある種の脱力感を体に感じながら眼を投げやっていた。ただ彼のすぐ斜め前方に動く女生徒だけには早くも注意が余計に引き寄せられてしまっていた。もっと室内には女の子がいたのかもしれないが、他の受験生とは違う意味で全く関心はなかった。中卒後に自宅に引き籠って漫画製作に全精力を注ぐ猶予を与えられず許されなかった茂樹には、まだどこか立ち直っていないところがあった。この受験に臨むことでさえ一抹の敗北感を彼に舐めさせていたのである。


 だいたい男子の学生服はどの中学校も似ていた。が、女子の学生服になると微妙なファッションの違いがあるようだった。そんなことからもふと、右斜め前方の顔立ちの良い女の子の、見慣れない、それでもテレビ番組や雑誌で見かけたような濃紺の学生服姿をぼんやりと盗み見ていた。彼女の制服の袖先に見える白く並んだ指、そして参考書の紙面を捲るたびに動く腕や肘、そしてそれに応じて屈伸する背中や揺れる黒髪、また染みひとつない柔らかそうな頬と顎。その女の子はどこか垢抜けた美形に属するような綺麗な印象があった。最初の試験が終了して彼女はすぐに後ろの女の子に小さな声でちょっと安心したような笑顔を向けていたが、ふと顔を上げた茂樹とも視線が触れて、にこりと八重歯をみせ笑顔を見せていた。
 彼もこの子をチャーミングだと一瞥で感じた。だが、すぐに彼女が邪魔な存在であり、全く自分には、たとえ受験に自分も彼女も合格するようなことがあっても関係ないとどこかふてくされるのであった。むしろ可愛いとか美少女とかそんなクラスメートなど同じクラスや学年にいて欲しくなかった。こちらは落第すれすれの状態で卒業までの進級にありつこうという気持ちであり、早くもこの入学する前の受験日に机に向かっているのである。不美人な女の子に軽蔑されてもこの高校生生活は通していけると思った。だが、近くに素敵な女の子がいるのに、彼女の前で劣等生に甘んじるということは、かなり辛いことになるのが、もう今から想像できるのであった。
            
 進路指導


 海棠一高はいわゆる進学校といわれる高校であった。しかも、海棠中学校を中心とするその学校地区ではやはり成績の良い生徒の集まっている高校であった。彼と一緒に七人同じ玄武中学から合格して通うことになったが、入学してまもなく教師から職員室のなかの個室兼相談室のようなガラス仕切りの部屋に呼ばれた。
 それは生徒のための進路指導という面接であった。茂樹がドアを開けてはいると、その部屋には机を間にして椅子が二つ両側に置いてあるだけで、もう他に何も置けるようなスペースはなかった。茂樹はそこに壁を背にして座る担任の堀川先生の姿を見出して少し安心するのだった。彼だったら自分の複雑な立場を説明し本心を言える気がした。
 浪花節でも歌えるような厚みのあるガラガラ声の彼は、深く刻まれた皺を目と口辺で撓め笑顔で進路の話を始めた。自分の実力に適した大学を目的として定めることなどと教師は話してくれていた。聞いている茂樹には、無縁で余計で邪魔な考え方を押し付けられているような気分になるだけであった。すぐに彼は話を打ち切った。
 「僕は、大学に行くつもりはないんです」
 相手の小粒な目が皺の間から、思わぬ侮辱でも受けたかのように思いっきり開けられた。
 「でも、君は入学試験では、玄武町では一番成績が良かったんじゃないのかな…」
 堀川先生はそう呟くと黒く分厚い表紙に綴じた書類を、生徒には見えないように胸許に引き寄せて鋭角に開き、茂樹のことを念のために確認し見直しているようだった。そこに茂樹に対するイメージの齟齬が生じているらしかった。
 「中学生の時には、まだそれほど具体的には考えてなかったので…」
 と言いながらどう説明していいものかやはり茂樹にはわからなかった。入学したばかりの茂樹としては、周辺の新しい雰囲気に感覚を乱されているようなところもあった。それでまだ、それほど高校に入った漫画家志望生徒としての焦りを感じていなかった。だが、早く好きな分野でデビューするためにはもう今から始めなければならないという切羽詰った気持ちもあった。こういう複雑な気持ちは、先生なんかにわかるはずがないとも思っていた。
 しどろもどろに自分の置かれた状況の説明を試みる茂樹を眺めながら、堀川は意表をつくようなことを言ってのけた。
 「でも、漫画と言えば、手塚治虫なんかは有名大学をでて医学博士にまでなってるんじゃないのォ」
 椅子の背凭せにのけぞると痛快そうな笑顔を茂樹にむけていた。もともと小粒な目が筋肉の束のように盛り上がった分厚い皺のなかに埋没していたが、この時には彼の歪む口と頬を繋いだ皮膚が引き絞られ痛快そうに浮き出していた。
 手塚治虫がここで教師の口からでてくるとは茂樹には想像することもできなかった。
 「…手塚治虫は例外です。彼は天才ですから」
 かろうじて茂樹は応酬した。唇から零れ落ちた自らの言葉には崇拝の念が籠っていた。茂樹は一抹の羞恥と誇りをちょっと味わっていた。
 この生物を専門に教えている教師はしかし次の言葉で茂樹を再び打ち倒した。
 「良い漫画を描くには、広い知識とか深い哲学がなければ駄目なんじゃないのォ」
 茂樹の想像する高校の先生たちは、
 --なに、漫画だあ? あんた幾つになると今自分を思ってるんだ。もう十五にはなるんだろう、そしたら真面目に人生と取り組むという気持ちにちっとはならなくちゃいけない年頃じゃないのか……
 そんなことを言う人たちであった。ところが彼が茂樹と同じ土俵に立って親身な態度ともいえる口ぶりで対応してくるのにはただ閉口させられるのみであった。放たれた矢は確実に茂樹の患部を撃ち込んでしまっていた。高校生時代を大学進学にむけて勉学に励むことに対する反対意見も言い訳も自己弁護もできない痛いところを見事に突かれた気分で部屋をあとすることになった。


 クラスに戻る廊下をとぼとぼと歩きながら、茂樹自身も絶対的に崇拝している手塚治虫が、同じ様なことを『漫画のかき方』あたりでアドヴァイスとして書き記しているのを確かに思し出していた。それが彼の頭のなかで今の堀川先生の言った言葉に重なり幾度も奏でられるのであった。
 彼が直接師と仰ぐ横山光輝も、書籍を濫読した時代があったと雑誌に記していた。今のことを思い出すとやはり幾分の屈辱を覚えざるをえなかった。俊英たちと比較されても全く自分の助けにはなりませんと反論したかった。
 とにかく漫画界に早く登場しなければならない。そのためにはできる限りの環境を整えなければならない。そんな焦燥を覚える彼の頑固なまでの信念に、横槍が突っついてきて、そこに痛みと亀裂を感じるのだった。
 自分の能力のなさ、自信のなさを拭うためにより多くの時間が自分には必要だと茂樹は漠然と自覚していた。力がないからそれを補ってあまりある良い環境つくりが必要なのだということを彼は意識し、念頭においていた。自分の能力を十二分に信頼できれば、とりあえず大学に進学して学識を広め深めるなどという悠長な計画もたてられるのに違いなかった。しかし、そんな能力も余裕もないことは誰よりも自分が一番よく分かっていた。
 漫画の神的存在の名前をだされ二の句のつげないかった茂樹も、時間が経つにつれて自分を再び取り戻していった。
 天才ではないのだから、彼らの置かれた状況よりももっと良いスタートを自分はしなければならない。やはり自分は間違っていない。そう思うのだった。だいたい彼の両親は中卒は許さないが、大学進学などはとんでもない話であり、今起きたばかりの担任の教師との会話などは想像もできないことであった。
 この高校生活は外観だけは世間体を考慮して真面目に続けていくが、中身は漫画家になるために打ちこむことだけを考え努めれば良い。
 教室の窓ガラスを透して黄色っぽい陽光が力なく流れ入る放課後の時刻には、彼は間違いなくもとの自分に戻り、決意を新たにしていた。


 これから三年間、あるいは早くデビューできれば二年間どうやってこの意味のない通学をしたらいいんだ、という内心の焦燥の声しかもう茂樹には聞こえてこなかった。