蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 1 息子の願い

  漫画を描く少年


弓削部 諾


 息子の願い


 「……おれー、高校にいかないで、その代わり、家にいて漫画描くというのは、駄目……? 二年間とかじゃなくて、一年だけでもいいんだけど…」
 「そんなこたぁ、ゆるさねぇ。家にぶらぶらしてるなんてぇ、そんなふざけたマネはさせねぇ」
 茂樹が恐る恐る母親の顔色をうかがいながら言ってみた言葉であったが、やはりけんもほろろで最後まで説得できるようなチャンスはなかった。さすがに中学校三年生ということにもなると、小柄な母親の鉄拳ではもう息子の顔を殴ることもできなかったが、母の表情は殺気さえ帯びたものに豹変してしまっていた。それは小さい頃から知り恐れている怒った時の顔であった。
 そんなことをしたら絶対に容赦しないからなぁという言葉が次に母の歯の奥から唸り出るのが予感されたし、久しぶりに箒の硬い棒が振り回され顔といわず手足の骨の部分が滅茶苦茶に叩かれるのかもしれないとも思った。その時の痛みをもう身近に感じていたが、断られたことで彼には逃げる気力も抜けていた。だが、母は
 「……おまえがそんなことをしてみろ、近所がどんな目で見るんか…恥もいいところだ」
 と意外な理由をだして茂樹を驚かせた。その気の弱そうな母の根拠が、茂樹の中卒で学歴を終わらせるという決心を足元から瓦解させた。だいたい眼前の母が子供の自分に対して理由を言うとか、釈明を試みるとか、そんなことがされたためしがこれまでなかったのである。
 茂樹にとっての一生は、漫画しかなかった。それ以外には考えられなかった。だからできるだけ早いうちに余計なことに自分の時間を潰さずに白く堅いケント紙に向かって精魂を打ち込んでいたいのである。
 「いっ、一年間だけでもいいんだ。家から、一歩も外にでないでいるから…」
 それでも茂樹は力なく、母の意外と弱い反応に縋るようにして更に言ってみた。一年間という限定された期日を母が理解しなかったのではないのかとも思ったからである。だが、母はただ、この息子を唇を震わせながら睨み付けるばかりであった。前掛けをした体も腕もぶるぶる震えているようにさえみえた。すぐ近くに何かがあったらそれが自分の顔か胸に投げつけられると思い、一瞬緊張し、恐れた。それがされなかったのは本当に母の中で起こった感情的な葛藤の僅かなバランスの差であったと思えた。瞬時に茂樹のこの願いが真剣なものであるのと、箒の長い棒を振り下ろしても上手く避けてしまうし、一二度叩けても彼が手で握ってしまうということも計算に入っていたかも知れない。小学生のときまでは、握ってしまえてもできなかった。それをやってしまったらもっと恐ろしい母の折檻が第二波として自分を襲うと思ったからだった。だが、中学生にもなると殴られた瞬間の激痛を思うと、腕が動き硬く乾いた箒の柄を捉えてしまうのであった。


 息子が漫画を描いているぐらいのことは父母も知っていたはずだった。だが、こんな突拍子もないことを言うとは母も想像したことさえなかったのだろう。午後まで玄武町の機織り機が五台ほどある零細工場で働き、仕事から帰宅してご機嫌のよさそうな時を窺って茂樹も言葉にしてみたのであった。
 部屋に退いた茂樹の脳裏には、彼の告白を聞いて怨恨に凍りついた母のその時の表情が煮凝っていた。そして父の帰宅する時刻までがとても不安で長い時間に感じられた。それは執行猶予とも言える緊張した時間でもあった。父の帰宅は大抵午後九時半過ぎであったが、その時刻が自分への判決と刑の執行と感じていた。
 それまでの彼はどうしょうもない虚脱感とただ空白な時間を感じて待つばかりであった。自分の身でありながらそれを自由に処する権利も能力もまだなかった。一人ではどうにもできない境遇にあることを彼自身がよく理解していた。労働と言えば新聞と牛乳配達ぐらいしかこれまで経験していなかった。結論としては労働と言うものは自分のやりたくないことをしなければならないこと、それが生きるための手段という理解であった。だから労働しながら漫画を描くということは到底自分にはできないことだと思った。いろいろなことを取りとめもなく考えた。が、結局それは同じ様な思いが空転するだけであった。
 夜になり仕事から帰ってきた父は、今にも口答えをするようだったら殴るような憎しみを湛えた表情でつかつか近寄って来た。息子の体はもう父親と同じぐらいに成長していたが、体から放たれるその気配の強度や密度が全く違っていた。父は柔道三段で贅肉のない筋肉の塊であった。父はこの変り種の次男坊に、一言だけ底にこもった声で一喝した。
 「あまりかあさんを困らせるようなことは言うな」
 父が戦中は昼間は働き、夜は高校に通っていたことを母から聞かされて知っていた。そして母は小学校五年までしか行ってないことも彼は思い出していた。
 二十歳で終戦を迎えた父は一徹な人間であり、しかも怒った父の鉄拳を避けるような力は茂樹にはまだ、いや後になってもずっとあり得なかった。ぴったり七三に分けた髪にも大きな目の周りにも薄い汚れがまだついている父の表情を盗み見ながら、彼はすぐに大人しく頷いていた。
                             ‎
 戦争という異常な子供時代をすごした両親が言うのである、それを茂樹は察してあげなければもちろんいけなかった。二束の草鞋というどこかで聴いた二重生活だけが茂樹には残されているようだった。それしかないらしかった。上手く行けば途中でプロになって高校を退学すればいいのだとも思った。その時には親も納得してくれるに違いないと思った。


 玄武町の総合中学校出身の成績の良い生徒は同じ地区に属する下総一高に入るのが慣例であった。茂樹は僅かにひとつ下のランクに位置する県立海棠一高を受験することにした。下総よりも海棠一高のほうが漫画のための余裕ができると思ったからであった。
 さすがに受験が迫ってくると、それまでやっていた新聞配達や牛乳配達、そしてキャディーなどのアルバイトはやめることになった。一番最初にやめたというか辞めさせられたのはキャディーであった。玄武中学校から禁止を受けたのであった。そして牛乳配達のほうは自転車で毎朝配っていたが、あまりにも重量があり道が凍てついた冬の時期には何度か茂樹は牛乳ごと道路に横転して大事な商品を幾本か壊してしまい、急ブレーキの凄まじい音を軋ませる白い氷の滓をつけたタイヤを眼前に見たこともあった。あとで道に冷たく張った氷で顔を擦ったその引っかき傷に気がついて、命拾いをしたことを実感したものであった。車に轢かれそうになったことはさすがに両親にも言えなかった。また、牛乳泥棒に盗まれてしまったことで苦情を受けたこともあって、それを機にこの危険なアルバイトを辞めることにした。ましてやその泥棒が同じ学校の生徒であるのも見てしまっていたからでもあった。
 やがて受験が近くなると新聞配達も辞める事になった。もともと茂樹がこういうアルバイトを始めたのは、働くということの実感を経験したかったこともあったが、小学校五年生ころから自分の成績が良くなってきて大分周りのクラスメートから非難を受けてしまっていたので、ガリ勉でないことを証明するために始めたことであったから。やめるのに躊躇いはなかった。