蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

幻のフランス文学作品、アラン・フールニェ『さすらいの青春』


高校生のときに旺文社文庫で手に入れて読み始めた。でも、少年のわたしは3分の1ほどで手放してしまった。
タイトルがとても気に入っていたし、フランス文学ということで特別な憧れを抱いていた本だった。また、当時のわたしは旺文社文庫の大ファンでもあった。


いまになって再び読んでみたい、挑戦してみたいと思っているのであるが、外国の住所とか、うまくいかず手に入らない。わたしだけを利用するときだけ連絡をとってくる同業者の日本人に特別良い条件で注文をして欲しい旨をメールで書いてみたのだが、そんなときには返事もしてくれない。


ということでこの少年期のフールニェの唯一の長編作品は、どうしてもわたしには縁がないものということらしく、あきらめようとも思っている。
三島も自分が好んだ作品のなかにはいれてないし、ラディゲほどの文章力も、と思われる。高校生のときにはすでにラディゲの文体に感心していたが、フールニェについては記憶に残っていないので、当時の私自身にもおそらく気に入りはしなかったのだろうと思えた。


彼も大変残念なことに若くしてこの世を去る運命におかれてしまった作家だった。18歳のときのフールニェの面影が痛々しく私の胸のなかに浸み込み、そこから再びどんな作品なのかと実際のもう一度静かな環境で精読したくなる。
日常的に焦慮を感じていた高校生の自分とは、まったく違う印象をもつのだと思う。ましてや最後まで読んでないのである、いまだに・・・・