蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

あなたは生理的に拒否反応を起してしまうような題材をテーマとして執筆するだろうか。

たとえばここに糞という問題がある。それについてストーリーをあなたが展開していって大変面白い話ができたとする。でもたまたまそれで受賞とかしてしまったら、あなたは一生涯、糞の話で出世した、受賞した作家、糞作家という褒めているのか、もちろん貶されているのであるが、そういう言い方で記憶に上ってくる作家にはなりたくないと思う。たとえ良い話にまとめあがったとしても、こんな不名誉なことはないような気がする。


汚物が話しにでてきても清潔感のある作品に仕上げれば良いじゃないかという批評家もいるかもしれない。でもそれは、そのように描出できる人だから、言えることではないかとも思う。
最初から読者が離れるようなテーマは扱うべきではないかと思う。


死体の腐臭ぐあいを観察して書いた作品があるとする。しかし誰がそんなものを一般の純文学の読者が読もうとするだろうか、いないと思う。
死体鑑札の司法解剖の専門家だったら驚くほど冷静な態度で読んでくれるだろうけれども、文学としてはあえてこだわるべきことではないと思う。さらっと暗喩するとか飛び越えてゆくべきなのだと思う。


トルストイだって、アンナのことで最初からトイレとかそんな情景は書き入れようとはしていない。最初から捨て省いている。


だが、テーマがこの生理的に拒否したいフォビーそのものだったらどうする?という問題は残る。
できるだけ汚い問題でも清潔感のあるものに仕上げるべきということにやはりなるのだろうか。