蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

再度、日記に関しての迷い

郭公太さんの日記を見た。そして自分の書いているこの日記に再度疑問を持った。いったい私はなにをこの公開日記にしようとしているのかと。
単なる日記、死ぬ間際になってからすぐに姪あたりに、どこにわたしが日記を書いてきたのか、そういう遺言じみたメールを一通送り自分のことを知らせるためという気持ちになっていたが、カフカが行ったように創作の助走用としての日記、あるいは日記文学という仕分けができるのかもしれないが、わたしのなかでまだ整理されていないのだ。


郭公太さんの日記は創作のため、創作が中心のそれである。わたしも助走としての日記を綴るべきなのであろう。
わたしの場合には、厖大な日記を書いてきたけれども、一人で住む私が死去した場合に、ゴミ箱に処理されてしまう、つまりわたしが存在したという事実がそれによって消滅させられてしまうという焦慮が存在するためなのだろうと思った。
妻や伴侶、親戚が付近に住んでいる人は、わたしほど日記の心配はする必要もないのであろう。
個人的なことを、それと全く対照的な一般公開にするということに不安とか、余計なことを考えるのはわたしだけではないであろう。