蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

2024-02-11と⒓ 日曜と月曜日 下痢と嘔吐と睡眠

2024-02-11と⒓ 日曜と月曜日 下痢と嘔吐と睡眠


 四時半あたりまでシャロン・ストーンとデ・ニロ共演の映画カジノを見てしまった。初めて見た。それまでにも部分的に見たことがあったが、卑賎な罵りや殺しばかりが目立って、文学的にはまったくとるものはないと感じていた。だが、今晩視聴して、こういうミリュウをドラマチックに効果的に展開して行くストーリーはひとつの好例とも言える作品だとも思った。


 それが終わった後で、わたしのアクションが遅かったが、フランクフルトの町並みや名所旧跡が動画で放映されていた。ノイエヴァッへやカタリーナ教会だったろうか、記憶にある建物が目の前にリフレッシュされた。
 たぶんその気になればytで検索して同類の動画も見つけられると思う。
04:47 2024-02-11


 玉ねぎ、キャベツ、ニンジンをスムージー機にいれて粉々にしようとした。だが、液体が入ってないとそれも不可能とわかり、冷蔵しておいたロイボスティーをいれて成功した。
 塩胡椒をまぶしてお椀一杯分ぐらいは自分の健康を思って食べた。
 そしておよそ8、9時間後、下痢を起こしていた。水分がアフターから水鉄砲のような勢いで放射された。
 それも⒑っ回以上に及んだ。アフターはひりひりトイレットぺ0-パーのせいで痛み、一度は下着にでてしまった。意思で排出を制御できなかったのであった。そして取り換えたのだが、それは夜中まで続き、最後は横になっていたときに、下着や股引のなかにでてしまった。下痢と言うのはそういうものである。ただ、でてきたのは殆ど水分と野菜のこまぎれでそれほど汚いもの、汚物という感じはなかった。自分が食べてだしたものだから、点数も甘くなるのだ。
 思い返せば、殆どこの野菜のスムージーのあとで何も食べてなかった。ひとつだけ、土曜日にフライパンで焼いて食べきれなかった豚の細切れに衣をつけて売っていた、賞味期限のきれ当日のメンチ風の肉が残ってゐたのデ、それを冷えたまま食べた。が、このちょっと甘かった肉の臭いが喉元からゲップを起こして幾度も戻ってきていた。下半身だけでなく、胃から上の半身も気分が悪かった。ダブルパンチだった。
 最初は我慢していたが、夜中に上半身だけでもと思い、水を一杯飲んで、喉に指を差し込み、ベロの奥を押して一二度吐くのに成功した。オゾマシイ酸味のある臭いがバケツの周りに漂った。なんであの肉がこんな臭体の混合物に変わるのか理解できなかった。吐いている時に下半身から水が噴き出てはと思い、トイレに座って、バケツに吐いていた。さんざんだった。
 ということでなにも体は栄養を補給していないのとおなじだと思ったわたしは、水分の吸収にもいいにちがいないお米を食べることにした。ただ、米をどのようにたべるかと思うと、やはり食欲は納豆以外にしかでてはこなかった。
 それで、下着を二度目に取り換えた後では納豆ご飯を食べた。そしてこれが良かったようで、あるいは流石にもうニンジンとキャベツのスムージーも体を通過したのか、そのあとではよく眠れた。


月曜日は夜明けにパック半分の納豆を使ってご飯を食べてから、午後の5時半まで寝ていた。
 これは、数日間腹水と貧血でよく眠れなかった、いや、殆どねむれなかった日々を振り返ると僥倖だとわたしは思った。ただ、嘔吐と下痢のせいでわたしは半病人のようであった。
 日曜日も月曜日もなにも出来なかった。
 月曜はあまり長く睡眠をとっていたので、悪夢をみてうなされていた。
 07:19 2024-02-13


 このままでは遅刻をしてしまうという不安。そしてポツダムのサンスーシー庭園で夕焼けを見ながら薗遊パーティーをするという、これまでにもなかった、またこれからもありそうにないゴージャスな庭園での夕食会に遅れるのではと言うのと、同時に、自分はあるハイテク業者のモダンな事務所に行く予定になっているはずという状況に置かれてもいた。しかも、夢の中のわたしは、この予定にちょっと疑問をもっている。ほんとうかなっと。しかも誰にも確認できない。ひとり、N.S.Nに連絡をとると、これから彼女もポツダムに向かうと言う話をする。それでも、平気で嘘をつく人間であることをしるわたしにはその彼女の言葉がしんじられない。自分のカレンダーをみても、そんなことはどこにも記してない。これまで記し忘れたのはたったの一度だけのことであり、このイベントを書き落すはずがなかった。ましてJ社がそんな大枚をはたいて多くの人を招待して夕食をこの有名な場所をかりておこなうことも随分信憑性がかける。
 もう一方のハイテクの会社のこともなにもカレンダーにはかいてないし、それに関してのアイテナリーとか、メールもなにもきていない。通常決められたJ社の担当者からいくつも直前にはメールがくるものだが、それもない。
 そこに妻、30代の妻があらわれなにか支度でもなんでも自分のできることがあったらと顔を姿をあらわしてくれるのであった。わたしは、普通に大丈夫と答えていたが、目覚めてから、もう妻は11年も前になくなっていることに思い当たった。そして自分には二月の下旬に学生の仕事があるだけだということがぼんやり浮かんだし、ルードーというベルリンの南部に現在はすんでいることにも徐々に思い当たった。妻とは社ロッテンブルク区の繁華街にずっと一緒に住んでいたから。
07:37 2024-02-13