蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

早すぎる諦め。これが私の人生を大きく悪く変えてきたかも

 二日間外出しなかったので、足が浮腫んでいても靴に押し込んででかけるのだと決めてスーパーまでいった。ミルクなくてはコーヒーが飲めないので、これを買うのが目的となった。
 出かける前に財布の中を確認した。青っぽい5ユーロ札が三枚とオレンジ色の10ユーロが一枚と50ユーロ札が一枚入っていた。
 流石に一年にこの時期にはマルチパンを食べるのが縁起だと思って、リッタースポーツのそれを買った。他にもフルーツや値段が下がっていた鶏肉など、食べたくもないのに買った。
 問題はそれから起こった。レジで払う段になって、財布から5ユーロと10ユーロ札を取り出した。50ユーロ札は財布のなかにまだ入っているし、端数はコインで払えばいいだろうと背後に並んでいる列を気にかけながら掌のなかで新しいのと旧くて折り目とか曲がっている札を握ってレジの太って熊のように大きな体をもてあましている中年女性にだした。そのときに「あれっ?」と小さな悲鳴をあげそうになった。灰色と青の5ユーロ冊しか掌のなかにはなかったからだ。新品の折り目のない10ユーロが手の中になかった。ぱっとレジと自分の手元に視線を投げてもどこにもオレンジ色の札はみあたらなかった。家で確認したときにあったと思う10ユーロは思い違いで、最初からなかったのだろうかと思った。
 一旦スーパーを一歩でたが、レジとスキャナーの終わった品物を置く黒い三つの箱があるが、その隙間にこの新札が掌から逃れて落ちていったのかもしれないと思った。それで、諦めの良すぎる私はこの考えに憑かれてもう一度レジに戻った。みんな忙しそうだった。話しかけることなどはできない。わたしはただ推定している下の隙間のほうを体を斜めにして見つめるしかなかった。明らかに不審な行為だ。それでも、狭い隙間に刺さるように隠れ落ちてしまっているのか、一目だけではみつからなかった。なにか言われる前にわたしはでていった。
 そして黒マスクを外しながら、スーパーの中を掃除する叔母さんか、レジの女性がめっけものと喜ぶことになるのかもしれないと思い、だったら、それでも良いと諦めもついた。賃金は安いはずだから、それを思ったら、寄付だと思えば良いと思った。
 これもどれも、背後に続く人たちのために速やかに急いでわたしは会計を済まさなければという焦りから発生したことだと思った。


 それから、ベットに横になっていて、呼吸がちょっと苦しいのが変わらないでいる。だから体は運動っぽく動かさなければならないとユーチューブから学んで決めている。だが、ただ1,4kmを歩くだけでも胸、心臓が辛く感じられた。それを前もって警告を、足の浮腫みと呼吸困難という明確な症状で受けている。
 だが、もう今年は不可能で、一年間のわたしの健康保険の負担は3500ユーロ、恐らく40万円ほどで、来年からはいっそのこと、差別はあると思うが、職場に着き、国民健康保険のほうにはいってみようかなと考えている。それから心臓の診察をうけても晩くはあるまいと考えている。
 今年中になぜ診察を受けなかったかと言うと、もう三箇所もステントを留置する手術を受けていて、そのたびに痛みを覚えさせられた。局所麻酔などは行わなかったし、ウエストエンドのような痛みのまったくない手術の仕方ではないようだった。まだあのときの痛みが腹に残っているし、入院とかしたくはなかった。カテーテル、ステントの場合には長い入院はないうようだが。
 でも自分の最近の症状をみると、やはり心臓に問題がある。来年は必ず診察と入院を繰り返さなければならないのだと思う。