蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年21 再び、男女共学クラス

 再び、男女共学クラス


 高三になると茂樹が怖れていたとおりになってしまった。再び女子と一緒のクラスに編入されてしまったのだった。
 この頃は漫画への情熱が暫く冷めていた時期であった。それでも自分なりに模索を繰り返していた。いろいろな計画を自分で立て直していた。
 ただしいくら、できるだけ高卒までに漫画に必要と思われる知識を吸収していき、案もできるだけたくさん溜め込んで、就職と同時に昼間は社会人、夜は漫画製作で頑張ろうと言う計画に改変してみても、思春期の感じやすい彼には、女の子の前で劣等生扱いはしてほしくなかった。恥辱は受けたくなかった。
 そのためには、ある程度学力を取り戻さないといけないのであった。彼にとっては非常に迷惑な話ではあるが、この共学クラスに入れられてしまった事実はどうしょうもなかった。


 勉強をあらためてしなければならない。だが、二年間もサボった学力は幾ら焦ってもどうにもなるものでもなかった。積み重ねが必要不可欠な学科である英語や数学はもちろん、とてもやりきれない学生生活が『手塚治虫賞』を逸した後の茂樹を毎日襲うことになった。
 特に数学などはついていくこと自体に至極困難を極めた。落第するのではないかと思われるほど、理解はもう不可能であった。進学コースを選んで勉強の積み重ねをしてきた生徒以上に努力をしなければ到底不可能であった。
 そんなときに、『高校時代三』という月刊誌を図書館でなんの期待もなくぺらぺらとページを捲っていると、ヘッセの『車輪の下』が偶然彼の目を捉えた。ドイツの聖堂や森林、そして赤い屋根のエキゾチックな古い街の様子が、淡い水彩で描かれていた。文章よりもその挿絵に彼は好奇心を誘われ、そのままなんとなくこの取っ付きやすい縮刷版を読み出していた。
 この作品は忽ち彼を虜にした。読破したあと素晴らしい作品だと思った。が、どこかこの主人公には救いがなかったと思い自分も落ち込む気がした。自分に関して、こういう結末であってはいけないと思った。だが、それからというもの彼は高校中退というイメージに呪縛され始めていた。それは落伍者ということになるが、それでも自分は他の生徒とは違うんだ、だからこういう別の道を行くしかないんだと考え込んでしまうのだった。
 しばらくは自分の心の中にその中退という名の救いを、ひとりぶら下げて苦しんでいたが、とうとう学校も二三日ではあるが登校しないようなこともしてしまった。
 海棠市の中を流れる鬼怒川のほとりを歩き、また草で覆われた砂地に腰掛けて自分の将来をいろいろ考えるのだった。こんな風に自分が窮地に立たされてしまったのは自分に漫画の才能が足りないからかも知れないと自分を苛めたり、学校さえやめて漫画のために家にこもらせて貰えれば一番良いのだとこれまでにも思ったことを堂々巡りで頭の中が擦り切れるほど考えあぐねるのだった。
 いずれは父母にもばれてしまうことだし、そうなったら父の鉄拳は防ぎようのないことであった。自分から言わなければ大変なことになると判断し、夕方になって、やはりある機会をとらえ、高校を中退したいと父に話した。その頃は「登校拒否」などと言う言葉は社会的に通用しなかった。
 「親がどんな思いをしてお前を学校に送ってやっているのかが、お前にはわかんねえのか。こんな親不孝はないぞ」
 小さい頃は子供を折檻する役目は母がやっていたが、高校生になると、父が取って代わった。父は殴るときには中途半端ではなく、病院に担ぎ込まれるのを覚悟しなければならないほど全力で殴りつけてくる。手加減などは出来ない戦時下に青春をおくった人であった。
 だが、このときの父はむしろ嘆願に近い言い方であった。父母にしてみたら中卒ですぐにでも労働にでてもらいたいところであったかもしれない。そういう世代に育っていたのであるから。しかも自分の店などを、子供を中学だけで卒業させ手伝わせている家もまだこの町ではみかけていた。高校に息子をだせるということは社会的には義務になりつつあり、親としては世間体を保つためにも不可欠なことだった。
 茂樹は解決も逃げ道もないことを理解しなければならなかった。このまま卒業まで漕ぎ着くことだけをやむなく考えることにした。
 この父との会話のあとからは漫画に関係することを一時的に休止した。落第しないためにもとにかく教科書を読み、頭の柔らかいうちにいろいろな知識を吸収することにもなるんだと自分に言い聞かせた。
 中退ができないこの現状ではクラスで恥をかかないためにも勉強しなければならなくなったのである。