蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年22 涙の季節

 涙の季節


 やげて季節も梅雨に入った。
 放課後、駅に向かって坂道を降りて行かなければならない時間帯に、不意に大雨が降りだした。大粒の雨だった。
 茂樹と好川は並んでなすすべもなく、多くの生徒と同じ様に出口の近くに立っていた。誰もがすこし待てば雨の勢いもなくなるし、降り止むと信じるしかなかった。
 あらためてこの新館の白くて広い玄関口。ガラスドアの大振れに開閉する出入り口を茂樹は見回した。
 ホテルかデパートの出入り口のようにドアも大きいとぼんやり思った。
 今は傘を持ってこなかった生徒でその場所はざわざわしていて、曇天のため館内も急に暗くなった。
 平べったいコンクリの屋根が広く外に突き出ているのでガラス戸の外にいても真上からは雨水に濡れない。だが横から風とともにシャワーでも浴びせられるように雨水を叩きつけられる生徒もいて時折賑やかな悲鳴が上った。高く明るい声を感情的にあたりに撒き散らせられるのは女生徒の特権とも言えた。否応なくそちらに好川や茂樹の視線が引き寄せられる。だが、茂樹の関心は一瞥しただけでそれ以上にはならないのであった。
 観音開きの右側のガラス戸は、傘をもってでる生徒のためにずっと開けっぱなしであったが、一人歩いてでるのがやっとのように生徒たちはそちらまでところ狭しと並んでいて、外の大雨を見ながら立っていた。左側のドアの内側の二列目あたりに彼らはたってこの様子をなすすべもなく見つめていた。
 「よりによって、こんな時間に降りやがって」
 好川が顎と長い鼻を突き出して思ったことを周りに関係なく叫んだ。そんなことは彼が言わなくてもそこに突っ立っていて外の激しい雨脚、地面を叩いて白く飛び散る一面の飛沫をみれば分かりそうなものだが、彼は思いついたことはいわなければ気がすまなかった。
 愚痴っている好川をよそに、右端の出口ではひっきりなしにパチッと音をたてては黒い傘を広げて出て行くものがいた。この用意の良さが茂樹たちをほとんど呆れさせていた。
 「ちゃんと傘を持ってきている奴がいるんだ」
 そんな溜息がもれたが、大抵傘を用意してきているのは女生徒であった。
 そこに岩本玲子がふっと後ろから姿をあらわした。一瞬のうちにも茂樹にはそれが彼女だと分った。
 彼女の学ぶ教室3Aに行けばいくらでもその容姿を盗み見ることはできるが、そんなことも茂樹は憧れながらしなかった。そのために、彼女の姿を見ることはこれまでもあまりなかった。それでもほんの僅かな彼女の姿の片鱗が、瞼の中には残滓していて、その面影を、彼は胸のうちに秘めていてほとんど無意識にお守りのように温めてきた。  
 彼女はどこか拒否的な、男の子とかを近づけない例の美しいが冷たい横顔をみせてガラス戸の外にでたところで止まった。そしてふっと茂樹のほうに顔をむけた。ただし、むしろ自分が玲子だと言う事を見せるために半分こちらに顔をむけたという感じで、視線は茂樹を捉えようとはしなかった。だが、それは茂樹のために振り返ったのかどうか、次に目撃したありようもない光景で彼にも分からなくなった。
 玲子の姿を見詰める茂樹の視界に、続けて原始人のような伸び放題に伸ばした髪と黒い詰め襟の制服があらわれ、更にその男は黒い傘を広げて玲子にさし掛けるのである。
 そいつは分厚い唇を曲げてなんか玲子に話しかけたようだった。玲子は何も言わずに黒い睫の瞼を伏せているだけで、そのまま彼の伸ばす左腕に肩を覆われたまま坂道に向かって校舎を去り、開かれた黒や紺色の傘の流れの中に溶け消えていくのだった。それはあたかも急に増した水嵩に、ゆっくり流されていく幾つもの蓮の葉っぱのようであった。
 そいつは、茂樹の後方にすわって悪戯をしてきたあの宮田というロッカーであった。あの鼻めどのでかい、不潔な長い髪を肩まで揺らしていた奴だった。
 好川にはそれが見えなかったのか、なにもコメントをつけない。相手がいる女の子については関心がないということなのか、そのあとも何も言うことはなかった。
 だいたいどういうことなのか、玲子についてはあの与野も久野も口にしたこともなかった。好川も同じであった。他にも教師の息子で自分が特別に女の子にもてると思いこんでいる自己溺愛者もいたが、彼も玲子の名前を出すことはなかった。
 ……玲子は近寄りがたい聖なる領域に生息するような女の子であり、他の生徒は近づきがたいということなのだと思えた。だが、この時の彼が見た情景はまったく想像とは正反対の信じられない様相を呈していた。
 いつまで続くともしれないこの大粒の雨に、玄関の内側に立って待つものも多くいるが、傘のあるものは疎らではあるが、その後も黒い傘を広げて坂道を降りていくのであった。
 茂樹は相合傘で坂道を降りていく二人の姿が、他の傘の中に紛れて見えなくなってもまだ目で行方を追っていた。
 そしてもう一つの旧市街に向かう道に、突然そのまま雨に打たれながら歩き出した。背後から好川の
 「おい、どうしたんだよ。まだこんなに降ってるのによ」
 と言う声が投げられたが、そのまま我武者羅に歩いていた。