蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

G合戦 草稿あ

ドイツに来て結婚もしてまもなくのことだった。清晃は、一度共産圏という世界を自分の目で見てみたかった。それで、妻を連れて東レーツェルシュタットに一日ヴィザを申請して入ったことがあった。そこで、驚かされたことは、自分たちがどこかシュタージという、東側の国家秘密警察とか、私服警察の餌食として狙い撃ちにされていることだった。そして目抜き通りに行って、強制換金をさせられた東側の金を使うために、店の入り口に立つと、眼前で店の女の子により、ブラインドを下げられ、突如休憩の使い古した看板が内側から窓に降ろされたことだった。たいしたものは陳列されてなかったが、西側にはもってでることが禁じられている東ドイツマルクなので、ほかにもあたってみて、立ち食いのソーセージのイムビスで茹でられたものに歯を入れ、咀嚼してみると、口の口角から熱い脂が飛び散った。中身にはほとんど肉が入ってなかった。そして笑顔でみずしらずの若者が近寄ってきて、西側の金が欲しい、家族に西側の金で西側のものをぜひとも買って買ってプレゼントしたいんだ、お願いだ、両替してくれというのであった。最初はそういうことは路上ではしたくもないし、どこから東側の警察が見ているかもわからないので申し訳なさそうに清晃は断ってみたが、とてもその若者もしつこく、自分のズボンのバンドを抜き取り、両側がだめだったら、このバンドを西側の金で買ってくれないか、ほんとうに頼む、と目の前に安っぽい人工皮革のバンドをぶら下げてみせられてしまった。
 とうとう清晃は、バンドはいらないから、分かった。じゃ百マルクだけでよければ両替してあげると妥協して財布を取りだした。すると、その青年は自分も胸のポケットから金属製のメダルみたいなものをだすと、自分がドイツ民主主義共和国の警察官であり、路上での両替が禁じられていることは知っているねと高飛車にでてくるのだった。そして両替にだした西ドイツマルクはそのまま没収され、罰金をさらになぜか西ドイツマルクで二百マルク取られてしまった。それについてなぜ西ドイツマルクなのかと食って掛かりそうになったが、妻がすぐに分けありげに清晃をひきとめたので、そのまま東ドイツマルクはあまらせたまま、西の金で払わされたものだった。その時に、レシートのようなものも貰えなかった。それにもあとで、妻からもっと悪循環になってしまうし、理由を与えてはいけないのと説明されたものだった。
 地下鉄駅X検問所をなんの検査もなく通り過ぎて東側に入り、あとは早歩きでパラストというブルジョワ的な名前のホテルに向かって急いだ。
 ロビーに入って驚いたのは、ソファーや長椅子がこげ茶色の全部人口皮革でどこかガソリンっぽい安っぽい悪臭があたりに充満していることだった。これでも、一流ホテルなのだろうかと清晃は驚かされた。フロントカウンターも本物とは程遠い人工的な素材で摸された板木で覆われ、黒っぽいユニホームの者がいたが、とても話しかけられるような親切気な顔つきは誰もしてない。それよりもロビーには幾人かの日本人らしい老人の姿がみられたので、彼らに近づいて身分を明かして話しかける手を清晃はとった。23:29 2022-04-30
 小テーブルの真ん中に置かれた造花を見ながら彼らは不思議そうな表情を見せていた。フロント端に立つ巨大な坪のなかの巨大な草花も一目見て造花と清晃にはわかった。あたかも、生の草花よりも、生に近い造花を自分たちが作り上げることができるのだとでも言うように派手に入り口近くにたてていた。
 「あっ、そうですか。日本のかたですか。これはこれは、今日はよろしくお願いします」
 丁寧に銀髪の痩せぎすの老人たちに挨拶されて、逆に清晃のほうで恐縮の限りだった。遅刻して焦るとか、駆け足するとかは大嫌いなので、この時にも清晃は三十分は早めにホテルに来ていたが、自分のお客がロビーにいたことは幸運だった。
 この時も添乗員は中年ではあったが、濃紺の上下を来た男であった。出発の五分ほど前に降りて来ていた。そして問題の日本語を話すという東側の現地ガイドはというと、ほとんどスタート時間にやってきて、添乗員が日本人に近づく三十代ほどの彼女に頭をさげているぐらいだった。
 自分がドイツ語から通訳してガイディングをすることになるかもしれないので、清晃は一列目に座って待機していたが、誰かが西側からくることは気にもしてない様子で、髪の短く刈りこんでボーイッシュな感じの細身の女性はすぐに日本語で挨拶を始めていた。
 「みなさま、初めまして、わぁたしはマイケと言います」
 この言葉は頻繁に使うらしく、一応清晃にもお客にも聞き取れたようだった。しかし、それからは、誰も途中で突き放されたり降りられたりして貰っては困るからだろう、自己流の抑揚のついた彼女、もしくは東ドイツ人独特の日本語らしき言葉だった。確かに日本語らしいのだが、よく意味が判明しないことがたびたびあった。それはひらがなだけで書かれ、妙なところで句読点がふられたような、そんな言葉だった。説明の途中で、背後から小さな声で「なんか、わかるようで良く分からない日本語ね」という人もいた。あとで、男の添乗員にも清晃は訊ねてみたが、彼は諦めたように「まっ、あんなもんでしょ」といっただけだった。拒否できるものではなく、逆に、東側の観光ができなくなったら、重大問題になり、自分が日本の観光会社から首にされてしまう可能性だってありうるということらしかった。たしかにそうかもしれなかった。選択枝なんてこちらに入ったらどこにもないんだから。
 やはり彼女の話も、建物の名前、建設年代、建築者の名前などが続き、お客は十五分もするともう眠りだしている人があらわれ、三十分もすると三分の一以上が目を閉じているし、半分以上の人は隣同士でがやがや話をしていた。彼女の話を聞く人がいるとすると、それは清晃と添乗員ぐらいだったかもしれない。真剣に聞こうとしても妙なアクセントがあり、空振りしてしまって、内容がキャッチできないのである。それに日本人が知る歴史的な内容とか、この街にだって日本人は来ている筈なので、そのような人物の名前がでてこないと刺激にもならないのではないのかと清晃は思った。ましてや、日本人の知るロシア人の作家なども宿泊した街のはずだったから。ゲーテも作曲家のシューマンもメンデルスゾーンもやってきた街だという記録もあった。それが一切舌状にのぼらないのであった。
 午前二時間に過ぎない観光なのに、お客は説明の退屈さと不明さにダウンしていた。食事はホテルのなかでとらされるらしく、そこで清晃も解放されることになった。ひとことでこれはひどいと思った。最初は自分が感じた通りのことをB事務所に戻って感想を聞かれるようなことがあったら、事実そのままを話そうと思った。
 だが、数日たっても、お金を取りに行った時にももうわすれてしまっているのか、東側ガイドの言語能力、ガイド能力については聞かれもしなかった。そのころになると、これからまた会うことにもなるかもしれないと考えた清晃は、自分から、まあ、大丈夫じゃないんですか。OKだと思います、と虚偽の証明をしてあげてしまった。そして後には、驚くべきことに、このマイカから「わたしは、この人にガイドを教えました」とみんなの前で公言されることになるのだった。反対に清晃が彼女を救ってあげたのに。
00:44 2022-05-01


 指名の力というものが大きいのだなとその時に清晃は思った。だが、それっきりで、それ以降はまた忘れていた。清晃にはビジネスマンとか商売っ気とかは欠けていた。そして三月ごろになり、観光ガイドの仕事が増え始めた。筬田から回してもらった地元の観光会社からも直接清晃に来たことがあった。このことでは、筬田に連絡をいれて、彼に断ろうと思うと義理をたてて言ったものだった。すると筬田は、「なんで、別に断る必要はないよ。これからもおそらく観光の仕事も増えるし、どんどん結城さんは結城さんで引き受けてやってくださいよ」
 そんな答えが返ってきた。そして彼の言う通りだった。筬田にも観光の仕事は前年の数倍に増えたということだし、ほかにもガイドになりたい人を今募集中だとも零すのであった。たしかに、筬田にある日付を言われて依頼されたところ、すでに清晃にも仕事が入っていたこともあった。
 そして時給は良いし、添乗員からチップというのも頂けるので、少しづつ金が溜まってくる見通しがついてきた。
 だが、そんな時に、母が危篤だという日本の弟からの国際電話がかかってきて、二日後には十二年ぶりに清晃は一時帰国することになった。これから思わぬ収入が入ってくるという時のことだった。残念だが母の危篤には代えられない状況だった。やっと妻にも余裕を見せることができるとおもったその矢先だった。
 だが、清晃以上に落胆し、怒りさえ見せたのはレーツェルシュタットの観光事務所の人たちだった。
 「いま、抜けられると困るんだな」と非難の色を見せられ、清晃が三週間になるか一か月の帰国になるかまだなんとも言えないというと、さらに、「じゃ、行ってきなさい。かわりならいくらでも見るかるだろうさ」
 と、あたかももうお前なんか当てにしてないとでもいう感じだった。
 実際に日本に帰ってみると、母は手術を終えて帰宅していて、しかも散歩ができる病状だった。でも、死ぬ前にもう一度遠くに行ってしまった息子の一人とあっておきたいという気持ちを汲んで、弟は清晃を呼び寄せたらしかった。確かに、こういう呼び方でもされない限り、経済的な余裕を持つこともなく、一旗揚げることもできなかった清晃が日本に帰国してみるということはなかったはずだった。
 そしてドイツの妻のもとに帰ると、観光ガイドの仕事は消えていて白紙であったが、観光事務所から連絡が入ると、次々に毎週のように入ってきて、もう夜の警備員の仕事はきつすぎて無理に感じられてきた。
 清晃が警備員をやめた決定打は、より高い日給で四日間連続で仕事を引き受けて欲しいと依頼された時だった。内山さんという女性からのVIP客の特別依頼だったが、ガイドの経験もあり、今は独立して個人で観光や通訳、そしてツアーのオーガナイズを行っているということであった。一人の日本人女性にそんなことができるのかと驚かされたが、彼女の話から、春から秋までガイドの仕事をすれば、冬は働かなくても良いほどの収入が転がり込むというのであった。確かに、このままいけば、この勢いで観光客がきてくれたらそれもありうるかもしれないと清晃には思えた。駄目だったら、またホテルでナイトオーディトアーとか警備員として勤めればいいんだと楽観的な気持ちになっていた。
 そして九十年の六月からフリーになった。筬田の予測と内山の言う通り、六月は毎週四、五日間はガイドや空港とホテル送迎のトランスファーという仕事が必ず入り、一般の仕事と同じぐらい仕事日数が増えた。そして時給も日給も一般の仕事、外国人がつけるような仕事以上に高額だった。日本語とドイツ語が活かせる仕事に初めてありつけた感じだった。
01:39 2022-05-01