蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

仮題『離婚の子』1

 シェフが酒焼けした赤黒い顔を綻ばせて階段を下りてきた。僕はそんな彼をみてもただ酒気のお蔭でいい気分になっているだけとしか思わなかったが、その喜び方がちょっとそれだけではないような、なにか理由があるような雰囲気を彼の大きな図体の手足を大振れに動かすところから思った。
 「カーリーが来た」
 問わず語りに僕にとっては意味不明なことを口からアルコール漬けされたような紅く爛れかけたような唇と舌を覗かせて発していた。
 話しかけられて反応しないのはまずいので鸚鵡返しに同じ言葉を繰り返すと
 「カーリン」
 とドイツ語でチーフを意味するシェフは繰り返すのだった。僕はそんな言葉を聞いてもなんの感情も抱けなかった。それが女性の名前であるのかもしれないとも思ったが何の感情も僕には引き出すことはなかった。どんな人であるのかも関心がもてなかったし、どうでも良かった。僕の頭の中は、いつまでこのユースホステルにおいてもらえるのか、そしていつまたいきなり予約客が多いという理由で追い出されるのか、そんなことが頭にひっかかっているだけだった。この片田舎のU街に来てから何度かヴィザの関係で出国の旅にもでたし、追い出されたこともある。無報酬で働いているにもかかわらず、予約の都合もしくは気分で追い出されてきたのであった。そしてひとつの言語、このドイツ語が上達するまでには気の遠くなるような根気と能力と時間が必要だということが分かってきていたので、ほぼ絶望的な気分に落ち込んでいた。
 ここで必要とされているのは肉体労働であり、言語能力を引き伸ばすような類の仕事ではなかった。