蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

2024-02-16 金曜日 古さんの訃報

2024-02-16 金曜日 古さんの訃報


 午前6時半起床。  
 野菜スムージーに白ご飯を混ぜてフライパンで十二分に焼いたものを食べた。やはりあとで、下痢っぽくなる。


 正午過ぎにあまり待たしても不味いと思い、Nさんに電話した。普通の声音の声だった。ちょっと暗くさえ感じられた。
 昨日はI村に電話をしたが、彼は簡単に古さんとは喧嘩をしていると言って拒否的な反応であった。メールもNさんからは受けたないようだった。
 たぶん、古さんが孤独を病んでいるので、みんなで代わりばんこに見に行ってあげましょうと言う感じの慈善行為への呼びかけだろうとわたしは思った。メールには具体的なことは一切書いてなくて、古さんのことでとしか書いてなかった。そのへんが言いずらくて言わなかった感じで、金も健康でもないわたしはどうやって断ればいいかなと思いながら、でも、まったく方法が浮かばずNさんに電話をしたのだった。
 彼女からは行き成り、古さんが死んだという話を聞かされた。
 わたしはその訃報を聞いた瞬間、生理的なショックを受けた。
 体に怖気が走った。
 身の毛がよだつ気持ちだった。
 ソットした。
 この時の生理的な気持ちはこの三つの言い方でしかあらわせない。本当に不意打ちにあった感じだった。Nさんのはなしだと心臓が原因で亡くなったというはなしだった。甥のGが数日前から来ていて面倒をみていたらしいが、彼が不在だった数日間は亡くなったまま家に横たわっていたらしかった。警察を呼んで開けてもらって死を確認したらしかった。
 そしてこの金曜日の午前中は火葬、荼毘に伏したらしかった。焼かれる前に死に顔をNさんは見たようだった。わたしだったら、見ないだろうと答えた。その姿があとあとまで瞼の裏に残ってしまうからだ。だが、怖いもの見たさでやっぱりわたしも見てしまうかもしれないとも思った。
 そんな古さんの話がされたこともあり、K.LさんはいつもKchiさんと一緒に行動していたが、なにかご存知かと訊ねたがNさんはなにも聞いていないと言う。すでにIむらさんから二年ぐらい前だったか彼女がKchiさんと一緒にはいなかったことを聞いていて、とてもわたしは気にしていた。
 それから、誰にも話してないのに、とうとう2022年の5月の『生と死の狭間で』の個人的な事件を離してしまった。わたしがおそらく睡眠中にカリフォルニアホテルを歌ったママさんのように心筋梗塞を起こしたことから初めて、救急車を呼び、ステントの手術の二日後あたりに退院となったが、タクシーがないのでクリニックの玄関口でどうやって帰ろうかと考えているうちに、なんの痛みも感じずそのまま無意識の透明とも言える世界、死の世界に落ちて行ったこと。玄関口で気を失ったというのはわたしの僥倖であり、奇跡的な幸運だった。二度死んだが、蘇生処置のエレクトロショックを受けて助けられ、目が覚めた時には、病室のベットに横になっていて、明るい笑顔でやってきた医者に今日がいつか知っているかと聞かれ、2023年の……とわたしは朧に答えていた。曜日もしっかり覚えていなかったのであった。三週間コマ状態であったということだった。それから女医のランカスター仮名だが、が小柄でチャーミングな顔を見せ、特別な思いでわたしの面倒をみたようなことを呟いていたと思う。わたしを蘇生してくれたのは彼女であった。
 それから二発留置手術を行い合計三つのステントがはいり、ヘアツシュリットマッハーも左胸の皮下に埋め込まれたこともNさんに話してしまった。
 4,50m置きに歩くときに休憩しなければならなかったのも最近、というか二日前から500mは通しで歩けるようになったことも話した。400mかもしれない。
 出血多量で、鉄剤を飲んで10日間ほどでほぼ全快したことも話した。
 彼女は電話番号を求めた。言おうとしたらメールに書いて送ってと言われた。
 ずっと立ちっぱなしで電話をしたあとベットに横になった。
 10分もすると、I村にこの訃報を連絡しようとしたが留守番だった。それから夜になって再び電話をして、わたしとしては珍しく
 「仕事だった?」
 と彼に訊ねた。羨んでいるようで、そんな質問はしたこともないのだが。
 彼は、
 「いや、違う」
 と言った。I村は嘘は生きる術という信条の人であるので、真実はわからない。もちろん、わからなくてもそれほど重要ではないことだった。
 訃報を知らせても、「俺は、喧嘩してていたし、俺にはなんの関係もない人だ」
 とはっきりした口調で片付けていた。本日が火葬であり、N.H、Kchi,などが来ていたということも話した。
 「あんたも行ったんかいな」
 とお道化た利き方を彼をした。また、いつ亡くなったのは、はっきりした死因はと私に聞いた。知らない、そこまで聞いてないというと、
 「駄目じゃないかそこまで聞かないと」と言われた。


 遅い晩にMarleyとケイト・ブランチェット主演のジャーナリズム・スリラーというのを別室のベットに横になって背筋を伸ばしながら録画だけした。


 Nさんに、66歳でこの世をさるところだった。死に際なのに、走馬灯のように自分の人生を眼前にすることもなく、自分の体を囲む医師や看護婦の上に自分が浮かんで蘇生処置の様子を見たと言う記憶もなかったことを話した。そしてなにもやってないのに、あのまま死ねないとわたしが言うと、Nさんは簡単に
 「まあ、無理でしょ」
 と言った。もう、無理でしょではなく、この言葉だった。この「まだなにもやってないし、遺してない」
 とさえわたしが言ってしまうと。もちろん、頭のすみでは幾つかの認められてない創作も今は書き残している感じなのだということがあったが、Nさんはすかさず悟ったように
 「んん、まあ、無理ですよ」
 と現実的な人なのか、そんなことをぼそっと呟いた。
 Nさんは73歳ということだったが、I村は78にはなろう。だが、I村はわたしと同じで『HとH』を最終的には文法の間違いをドイツ人にチェックして貰うとしてもドイツ語で執筆しようとしている。彼の口吻では、まだ資料集めだけみたいで、草稿もはじめたのかどうも怪しい状態だが、あの年齢なのに私と同じで大志は頑固に頂いているようだ。
 生活保護を受けていて経済的には楽な状況に自分をおいているI村なので、作品創作と完成への可能性は高いと思う。
 ただ、執筆は始めてから資料収集などとは異なった能力と努力が必要になるのだが、彼はまだその壁に突き当たってもいない。始めてもいない。そんなふうにしか見えない。
04:13 2024-02-18