2024-01-21 日曜日
2024-01-21 日曜日
2XXの漂流記、彷徨える二XX
漂泊記
起床は十時半だった。就寝が五時過ぎだったから五時間は寝たことになろう。今朝は深夜に三度ほどキュウリのピクルスを入れて二回、鰯の缶詰を使って一度、海苔巻きを作って食べた。そのせいで、起床後に酷い口腔の渇きがあった。コーヒーで渇きを癒したが。
それから、ソニーに接続していたスピーカーがその音声、鈍い音からつけっぱなしにしていたことを知り驚かされた。いつも気を付けていた積りだったからこの驚きは特別で、自己反省。
そのあと、ソニーのスイッチを入れて、林扶美子作品の朗読を録音したいと思った。強い欲求があった。だが、一度始めたら、もう創作も減ったくりもなくなるのは目に見えているので、我慢して、自分を抑えて、アソスを開いて、徐に創作の文章に目を向けた。すると、気に入らない点がでてきて、なんとなく推敲に走れた。しかも、その間に当時のロッテルダムでの情景が眼に浮かんで、執筆に入れた。
こんなものだと思った。
とにかく、文章を読む。推敲とまではいかなくても、直したいところがでてくる。光景、情景が浮かんできて執筆に入れる。この順序だと思った。
12:49 2024-01-21
もう、いつごろ半納豆ご飯を食べたのか思いだせに。起床してまだ二時間半ぐらいじゃないか、早すぎると思ったことだけ記憶している。
それから、白ご飯、炭水化物の後遺症で、昨日あけた鰯の缶詰と刻んだ玉ねぎを混ぜた物を入れて海苔巻きを作って食べてしまった。それが午後五時頃だったと思う。あとは、座っていても頭が下がって意識が遠のいてしまい、ベットに横になることにした。背骨に負担をかけるよりは横にちゃんとなったほうが良いからだ。だが、そのまま寝込んでしまった。
夢を覚えている。林扶実子が唐草模様がガラス戸の前にあったようなことを書いていたと思う。唐草模様にもおおざっぱで太いのとか細いのやらこまかいのやらいろいろあるだろうと思ったところで目が覚めた。時計を見るとまだ日曜日の晩であった。午後九時半だった。外をみても暗いだけで、早朝か晩か分からないのデ時計を見て初めて知った。下の階のジャロジーネが降ろされるのかあげられるのかわからないが、同じじゃらじゃらという音がしていたのを寝乍ら聞いていた。
熱いブラックコーヒーを飲んだ。林扶実子の牡蠣を聞きながら青空文庫でテキストを探したがまだ作成中であった。たしか、この作品も代表作のはずだったから読もうとおもったのだったが。
就寝前には中央大学文学部作成による『知の回廊 志賀直哉』を視聴録画した。続けて阿川博之の娘の佐和子と、志賀直哉の孫と言う山田なんとかという人の対談も視聴した。芙美子と同じ尾道が登場するが、わたしが行くようなことはもうこの世ではないと思った。
わたしは、厨房に行くときにも、小尿でトイレに立つときにも、
「カァッスパーヒェン」
とか、
「ザッサ、サッシャ」
「来夏、来夏」
と独り言のようになにもいない、でも気配を感じて呼びかけることがある。しょっちゅうといってもおかしくないぐらい呼びかけている。第三者が見たら、わたしは痴呆症とか認知症なのではと思うほど呼んでみたりする。
気配と言えば、たいてい起床しかけ、ベットの中で目を覚ました直後に、隣の部屋にダークマーがいるよいうな気配をたっぷり感じるのも事実だった。彼女がいるような雰囲気、空気が感じられるのだ。この住居にダが一緒に住んだこともないのに。妙なことだが、はっきり彼女のいる雰囲気が感じられ、隣の部屋にいけば彼女の姿がみられるような気もするぐらいリアルなのだ。
ちょっと勘繰ると、金ロみさんが日本で聞いた話とか上階のヤさんが言っていたと言う、知らない黒い影が居間に座っているという、あれに類したことだろうかと考えてみたりもする。
つまり、ダがわたしを迎えにきているのだろうかとちょっと考えたりもする。だが、黒い影ではない。不気味でもない。温もりもありそうな良い臭いのしそうな黄色とか水色、ピンク色の綯い混ざり流れ漂う淡い霧に近い帯のような雰囲気として愛妻ダが近くに感じられるのだ。だから、そんなお迎えとは違うだろう。ましてやまだ死ねない。書きたいこと、書き残したいことがまだまだあるから。
賞がとれなくても、デビューできなくても良いように、ホームページに最後はわたしの作物は載せなければならないから。それがまだ、されさえもまだできてないから、まだわたしは死ねない。
23:32 2024-01-21
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