蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

11年前のこと

今朝は八時半ごろからおもむろにスタートし、午後二時ごろまで書いていた。質はともかくとして量と時間は注ぎ込むことに成功したという感じだった。本当は毎日がこうでなければいけないのだとは思っているが。

 わたしはこの蝦夷栗鼠日記のほかに、この十倍は非公開の日記帳に書きまくっている。だが、ふと、わたしが死んだら一緒にゴミ箱に処理されてしまうのだろうと思った。そのときになんとなく、匿名でも少しのきかんだけでも残るのはこの蝦夷栗鼠日記だけだなと思った。子供も心を開いて信頼できる友達ももたないのでしかたないことだが。
 ほぼ11年前に手術のあとで亡くなった妻のことを自分の日記ではじめて読んでみた。日記は書き捨てるだけでそれを自分自身で読むことはまずわたしにはなかったことだ。目を通して驚かされたのは、去年の5月にわたしは二度クリニックの玄関口で死に蘇生をエレクトロショックでしてもらって今まだ生かしてもらっているのだが、あのときわたしが受けたのと同じ手術を妻は受けていた。そしてそのあとでわたしは呼吸もしまだ生きているが、妻は手術後に息を止めてしまった。これはいったいどう納得していいのか、わたしには分からない。
 当時原因追及、解明のために司法解剖という声もあったが、妻の体が切り刻まれるなんてもってのほかであったし、そんなことをされて妻が生き返るわけではないのでわたしは解剖は断固として拒否した。そんなことを読んでいて思い出した。日記にはそんなことまで書いてない。ただ、数珠繋ぎに記憶を手繰り寄せてくれるキーワードで一杯に感じられる。とうじは、書き付けているときには感情のおもむくままに書きなぐっていただけだったが。