蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

アイム・ファイン

 電話をすると「うるさくてしょうがねえ」と怒られるので二週間ほどしなかったのだが、一昨日、夜中の1時半に黒服の男が隣の住居に入り込み、一瞬、こいつは空き巣かとも思ったが背中には白く太い文字で警察Polizeiという文字が読めたので安心した。やがて深夜3時半には女性の笑う声があったので、昼夜逆の生活をしているわたしは不審に思ってドアの覗き穴から踊り段の様子をうかがった。そこには合計三人の黒尽くめの警察官が隣人の住居を出入りしていて、笑い声をたてたのは中年の婦人警官のようだった。
 最初の異変に気がついたのは、さらにその前日の夜に上階にすんでいる若者がコンコン幾度も隣人のドアをノックした音からだった。たぶん彼が警察に連絡をいれたのに違いないと思う。おそらく死体として見つかったのではないのかと思われた。だが、異臭も嗅ぐことはなかったし、ドアの外をずっと眺めていても痛いが運び出されることもなかった。いや、運び出されたのかもしれないが、それまでずうっと眺めて確認しようという気力はなかった。
 気のせいか、その後になって、自分のドアに近い、その老人尾住んでいた部屋の前を通ると湿って腐った藁のような不快な異臭が嗅ぎ取られる。これは気のせいではなく毎回とおるたびに嗅げるので間違いないと思うが、でも道路わきの茂みの中に転がる犬かなにかの動物の死臭を小学生のときに嗅いだことがあったが、こんなものではなかった。しかも死体の異臭だとしてもすでに部屋からは外に搬送されているはずだった。そのあとで、今更ながら悪臭が流れ出てくるということはないと思う。でも、わたしの嗅覚がそれをとらえる。


 そういうことがあったので、i村氏に電話を入れたのだった。数ヶ月前に彼も踊り段を間にした向かい側の住居の住人が亡くなったという話をわたしにしていたからだった。


 そこで、なぜタイトルがアイム・ファインになったかというと、数ヶ月前に積ん讀のままだった浅田次郎の短編を読んで気に入っていて、昨日偶然にこの随筆集を見つけて手にしたからだった。
 面白かった。まだ全部読み終わっているわけではないが、この人、うまいと感心した。面白いというのはあまり使いたくない簡単すぎる表現なのだが、この文庫本に関してはこの言葉がぴったりだと思った。



 わたしの心臓にもはいっているが、彼も冠状動脈にスタント、しかも3センチもの長いのを留置されたという話や、万歩計を娘の医者から送られたが、毎日わずか380歩しか歩いていないという話など、人は一万歩は歩かないといけないという話なのであったが。
 わたしは万歩計を持ってない。どこで手に入れたらよいかそれもわからない。だから二日に一辺は通う近くのスーパーまでの歩数を数えながら歩いてみた。往復五千歩はあるに違いないとおもっていたが、1650歩ほどだった。そりゃないよとショックだった。しかも帰宅後には足腰に筋肉の疲れを毎回覚えている始末。
 これは浅田次郎先生よりは運動していることになるが、真剣にわたしも考えなければならないと思った。