蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 23 千葉県に引越し


 千葉県に引越し


 そしてまもなく、父の仕事の関係で彼らはまたも引越しを余儀なくされた。
 小学校に上がる前にも千葉県から埼玉県の川越に引越していた。小学校二年生の時には埼玉県から茨城県の玄武町岡田に引っ越し、それから現在の玄武町に転向させられていた。
 そして今度は隣の千葉県の野田市に近い後光台への引越しであった。今度は学校の転校とまではならなかった。茂樹はそこから毎朝早くバスで茨城県の巌清水市の三叉路に向かい、そこから海棠市に向かうことになった。
 これを機会に中退したい気持ちがにわかに込み上げて来ていたが、さすがにもう口にはださなかった。
 そして学校に行くという気持ちも、もともと皆無ということもあって、茂樹は遅刻をするようになった。
 さらにまた最後の学年は就職クラスと進学クラスに分けるという話も持ち上がり、アンケート調査があったが、それには反対した。それでなくても、心の中では被差別を感じているのに、それが今度は公式の差別となってしまう。そんな就職クラスにいるというだけで胸に被差別者側のワッペンをつけられているようなことになる。今はまだ隠れて混じっているという状態であり、進学しないことを知っているのは本人が言わない限り先生たちだけであった。
 だが、気持ちが落ち込んでくるのはどうしようもなかった。なんのために高校にいくのかという疑問が再び性懲りもなくぶり返した。大学にいくための勉強をしないのだったらなぜいくのか。それから、就職に相応しい準備をしていかなければならないはずではないのかという焦りもあった。
 就職先に関しては茂樹は全くなにも頭に思い浮かべていなかった。
 もはや、高三の茂樹は、高卒までに漫画家としてなんとかデビューできるとはもう思ってはいなかった。そんなことが不可能であることが現実のものとして分ってきたからである。
 『手塚治虫賞』に渾身の作を送って失敗したあと、読書に時間を注いでいた。そして、いつのまにか自分のなかに、大きな変化がおこってしまっているのに気づきはじめるのだった。
 漫画が安っぽいもの、軽いものに思われ始めてきたのである。幾ら努力しても素晴らしい芸術などにはなりっこない分野に思えてきていたのである。漫画を描くための知識を増やそうとして文学書とかを漁っているうちに、いつのまにか漫画自体に価値を見出せなくなってしまっていた。茂樹の頭は白紙の状態、諦念という気分に襲われ支配されはじめていた。
 いつのまにか、この後どうなるかも分からずに漫画家志望を脱皮してしまった。
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