蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

ある作品の結末が浮かんだ。車による両足切断か、即死。

これは、殉職という最後だ。それで良いとおもった。ただ、問題は、一人称で書くべきか、三人称かというところでもある。自分のことが介入してくると、書き甲斐はあるけれども、やはりそれだけでは作品にはならないという気がしてしょうがない。もちろん、掌とか短編だったらそれも可能だろう。でも、長編になると退屈な日記と違うものではなくなってしまうような恐れを覚える。


たとえば、志賀直哉の暗夜行路は未だに半分までしか読みついでない。それ以上は退屈を感じて読み終えることさえもできないのである。
多少のフィクションが必要かなと思う。