蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

テレビ視聴という誘惑から自分を救済するためには・・・・

ひとつの方法として、朗読をイヤホーンを使って部屋に、自宅にいるときにも耳を傾けるという方法がやはりあると思う。
もちろん、このほうほうはずっと前から熟知している。もんだいは、なのに実行をできない、継続できないという怠惰さなのです。


映像は文章と取り組む作業である文芸作品とは、やはり違うだろう・・・・分かっていながら仕事を終えた後など、食事を用意して食べるときには、やはりテレビのスイッチをいれてしまう。
情けない、どうしようもない奴、それがわたしだ。


図書館に行って、他人の存在を意識しながらノートブックに打ち込むという方法もある。それは知っている。だが、トイレに行くときにはどうしたらいいのか、いちいち畳んで盗まれないようにするのか。また、なにかつまんで食べたいときにも自由に広げて同じテーブルでもぐもぐやることもできないだろう・・・・やはり自宅でトライするということになるだろうか。


列車のなかで、つまり通勤時間を利用して印字した原稿の推敲はやり得る。これは確かな経験、これだけが確か。


昨日は三時間の仕事があった。短い時間ではあったが、とても濃厚で大変な忙しさだった。内容が盛りだくさん過ぎるのだ。いつもながらのことだが。
N-S女史とスマホで何度か一昨日から連絡をとったが、長電話は私の欲しい時間をさらに短く殺してしまうので、相手を傷つけずに切るのに理由を探すのに苦心した。なぜ、あれほど無駄なような、重要でもないような話を幾度も繰り返したっぷり時間を湯水のように使って電話してこれるのだろう・・・?なにもすることがないわけではないはずだ。・・・・わからない。