2024-01-04 木曜日 来夏と生ハムの夢
2024-01-04 木曜日 来夏と生ハムの夢
起床は8時45分 曇天、外気温5度。強風
来夏の夢を見た。
目覚めた時もまだこの夢が続いている感じだったので、起きている状態で白昼夢のように来夏の姿が見えていたのか、分からないほど現実感覚があった。
家の作りは石下町の駅の近くで、裏側に細い川の流れているあのオンボロ家のようだった。だが、表側には広い居間があり、長椅子がインテリアとして存在し、床は板が茶色で嵌め込まれていた。あとはガラスのサッシが縁側に引けるようにあり、薄いカーテンもそのサッシも半開きの状態だった。
来夏がいないとわたしは気が付いて、呼んでいた。すると、隣の家の、繋がっている縁側から歩いて入ってきて、わたしを見上げた。吠えも、奇妙な感激の声も挙げてはいなかった。大人しかった。
わたしは生ハム、シュペックの塊を持っていて、切って食べていたようだが、それを一口大に切って来夏に上げた。彼女は音もなく咀嚼していた。わたしが長椅子から立ち上がると、腰のしたにあったようで、温もりのあるもう一つのシュペック・生ハムがあらわれ、それも角切りにして来夏と一緒に食べた。
そのあとで、そんなことをやっているから来夏が太ったんだという私への非難が聞こえたような気がしたし、ダを失って淋し過ぎるから来夏とそんな食事をしていたという理解者の声もあったが、相変わらず静かな来夏の背中を撫でているうちに、現実に滑り出たという感じだった。
起きた時には、夢と現実がほんとうに、その区別が分からなかった。起きたまま、ずっと妄想していたのかとも思ったほどだった。
日本のニュースを見て、地下鉄のなかで女が刃物を振り回して四人の男性を傷つけ、三人が重症ということでショックだった。この能登半島などの自然災害とか、羽田空港の飛行機衝突事故で滅茶酷い時になんだこの女はと飽きれもし、怒りも覚えた。
10:10 2024-01-04
道男のことがとても気にかかるが、どうやって彼の生死を確認するのか分からない。姪のまいちゃんのメールも以前探しまくったことがあったが、とうとう分からなかった。
彼女から連絡が来ることはないのかもしれない。残念だが。もちろん兄の好明からは何も来ないだろう。一度もメールを交信がこれまでにもなかったし、わたしもアドレスを知らない。
大豆の水煮、というかお湯煮を電子レンジで行っている。
北九州の商店街で大火事があったという。なんか、酷い話ばかりでニュースが見られない気持ちだ。だが、羽田の飛行機衝突事故は起こってはならない管制官と海上保安機の機長との誤解からきたものだと思うが、JALのほうで一人も死者がでなかったのはまさに奇跡だと私も思う。
10:36 2024-01-04
途中からだが、ラ・ブームⅡを視聴録画している。あのゾフィー・マルソーを見ていると、みつ子が思い浮かぶが、同時に若林の姿も。彼らがオートバイに乗って走り過ぎる姿も。そして続けて富美さんの姿も眼に浮かぶ。鬼怒川の石橋で夕日を見ていた私の近くに、偶然なのか、一年上のただ目が黒くでかい気難しそうな少年と一緒に土手から橋の袂を歩いて来た彼女の姿。富美さんはわたしを見上げてにこっと微笑んでいた。わたしは、この新しい事態、彼女が他の男性と歩いているという新しい状況にただ目を瞠りちょっと切ない思いに襲われていたのを思いだす。
富美さんは水海道駅の前で他の二校生と一緒に屯していたが、その時に、ふと私の姿を見てやはりにこっと微笑んでいたものだった。わたしの頭は漫画家になることでほんとうに一杯だったし、もう少しで漫画家になるチャンスに触れることができると現実的なものとして思っていもいたので、そのまま何も進まず、富美さんのことは見送ると言う感じになってしまっていた。
中学三年生で、許婚の話があったが、そんな若い時に、たとえ相手が学年一位の美女で、成績の優秀な富美であっても、わたしには漫画しかなくて、考えられないことであったのだ。
そして高2で手塚賞に落選し、すべてが瓦解したように見えた時に、岩本れい子の姿がチラつき私を悩ませることになってしまったのだった。
それを思いださせるのがこのラボームなのだった。
あの頃のことを執筆するときにまた開いてみれば良い映画で、そのための録画だ。
11:34 2024-01-04
ソシアルアムトの用紙に一応取り掛かってみたが、新アソスで上手く行きそうなのだが、シュぱいひゃーのあとでどこにいってしまったのか行方がわからなかった。それでアソスでやったが、こちらも掛けることは書けたが不完全であった。
19:20 2024-01-05
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