蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

世事に追われて。そしてテレビ映画やドキュに誘惑され

仕事がもちろん、あった。もちろん生きていくためには仕事はじゅうようなことである。ただ、やりたいことではない。
また、仕事に関する書類の整理とか請求書なども書かなければならない。とても億劫なことである。


気が進まないということで、ほったらかしにしていたら、いつまでたっても取り組むことにはならない。気が進むまで、ミュウーズが現れるまで待っていたらいつまでたっても、二週間たってもわたしはこういう生活するための瑣末なこと、煩瑣なことをやり遂げなければならない。


一番、でもわたしにとっての葡萄酒(私の作品では『フルーツ好きの矮小生物』)であり罠はテレビで放映される歴史的なドキュメントや映画である。これらに多くの時間を奪われてしまう。でも、ものを書こうとする者は映画はやはり見るのではないのだろうかと思う。ストーリーつくりとか、効果的な表現をしたいと思う作家の卵はやはり視聴してしまうのではないだろうか。そうに違いないと思う。


今日の午前中には志賀直哉の対談集のうち、谷崎潤一郎や広津和郎との懐古的なものを読んだ。井原西鶴やお能、歌舞伎などの話にはもうわたしなどには過去の遺物という感じでついてはいけなかった。