蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年20 ロッカーたち

ロッカーたち


高二の二月のことだった。頭の後ろ側に、何かを感じたので右の手を項に伸ばして自分の髪の毛を払った。蝿かなんかが飛んでいるのかと思ったからだった。
 すると、へへっと含み笑いを漏らす声が聞こえた。後ろの座席に並んで座る肩まで髪の毛を伸ばしている少年たちが、目を細めて笑っているのであった。
 「意外と敏感じゃないか」
 そういうコメントまでつけて笑っている。が、振り返ってその愚かな悪戯をしょうがないなという気持ちで相手を一瞥すると、右手には今使ったばかりという感じでシャープペンシルを三本の指の中で弄んでいる。おそらくそれで茂樹の髪に触れてみたのに違いなかった。
 彼には、ウエーブのついた髪を額の真ん中から長く野放図に肩まで伸ばしていて、不潔な感じがあった。こういうタイプの若者には覚醒剤を射ちコンサート場の椅子を破壊し、ギターを舞台に叩きつけるイメージしか茂樹はもっていなかった。
 いわゆるロッカーであった。その顔をみると、意外とその目は笑っていなかった。なにかを試すためにやってみたというような覚めた目つきであった。これまでこういう生徒と自分との接点はひとつもなかった。それがなぜこういう悪戯を彼にしてくるのか疑問であった。
 その宮田という少年の成績は明らかに下位であるし、この高校に入れたのが不思議なほど校風に相応しくないタイプの生徒であった。それは外観でも一目瞭然であった。むしろ不良学生というカテゴリーに入る生徒であった。
 おまけに、太ってもいないのに皮下から膨れ上がったような脂肪で顔はでこぼこで、額や頬骨が隆起しているかと思うと、頬には立て皺も深くはいっていて、小粒な目のしたにはでかい鼻がぶら下がり、おまけに鼻の穴が非常に大きかった。ずっとみていたいというタイプの顔では決してなかった。
 彼はその後も茂樹に後ろからいろいろと悪戯を加えてきて、振り返ると鼻めどを広げて笑っているようなことがあった。ただ、それが苛めみたいなものではなく、それ以上は別にエスカレートしてくるものでもなかった。ほんのちょっかいであり、本気で怒るべきような悪戯ではなかった。それはしかし親しいものにしてくるようなものでもなく、妙なことをする奴だと思ってできるだけ茂樹は相手にしないでいた。そのうちに彼も髪の毛を触れてくるとか、シャツの肩に消しゴムの屑をそっと載せるとかしなくなった。
 それが玲子との関係でちょっかいを出してくるのだとわかったのは大分後のことであった。


 こうして高二学年はやはり女の子がクラスにいないこともあり、幾分平穏に過ぎていった。修学旅行で奈良と京都の見学したことが茂樹にとっては一時的にせよ新鮮であった。京都の御殿近くを列になって歩いている時に、古典の仁平先生と玲子を含めて数人の女子が花やかな笑顔を見せながら遠くに見えたぐらいで、不思議なぐらい玲子の姿を目にするようなこともなかった学年であった。

漫画を描く少年19 好川の訊問

 好川の訊問


 四妻村の好川とは、去年の夏休みの特別授業のために一緒に自転車で海棠市まで通学した期間があった。それでちょっと近づいた関係であった。彼の顔は顎が張っていて鼻も三角形に尖がっていて、見ように寄れば彫が深いという褒め言葉が該当するような顔であった。
通学の途上で好川が妙な言いがかりを茂樹にかけてきたことがあった。
 「おまえ、梨衣子になんか変なこと言ったか」
 いきなり妙なことを言われて茂樹は驚くばかりであった。
 「変なこと? 俺は何も言ってない。……なんで俺が梨衣子さんに変なことをいわなければならないんだ。だいたいひと言も口を利いたことがないよ」
 「そうか、いや、やっぱり彼女の思い違いかな」
 「変なことって一体なにを俺が言ったって、彼女は言ってるんだ?」
 そう茂樹が不審に思って聞き返すと
 「いや、俺が、彼女とBまで言ったとか、おまえに話したことあったろう」
 「Bまで?」
 好川はにやけた顎を手の甲で擦りながら続けた。
 「ああ、Bまでだよ。おまえ忘れたのか? ペッティングだよ。俺が彼女とペッティングをしたと前に話しただろう」
 「うん、確かにそんなことを言っていたかな……」
 「じゃ、言ってないのか」
 「馬鹿なことをいうな。俺がなんでおまえと莉奈子さんのペッティングのことを本人に言うんだ?」
 「……わかんねぇ。……じゃ、彼女の勘違いかな」
 「当たり前だよ。なんだかわからないけど俺は何も言ってないよ」
 本当になんだって自分がこんな変なことで言いがかりをされなければならないのかと腹が立ってきそうだった。
 「じゃ、変な目で見たりしたことはないだろうな」
 「変な目?」
 ここで茂樹にひとつ思い出すことがあった。それは朝の登校時、自転車を置いて校舎に入る前に上着をつけようとした時だ、ちょうど、駅の方から流れてくる早い登校の疎らな列のなかに、一人でぽつんとこちらに向かって歩いてくる梨衣子を見たのであった。彼女も茂樹を認めてみていたが、たぶん、好川の友達が自転車置き場にいるのを見ているぐらいの気持ちでみているのだと思って、茂樹もそのまま見続けていたが、急に彼女の顔が真っ赤に火照り出し顔を隠すようにして早足で歩き出したことがあった。まだ二日ぐらい前のことであった。
 「変な目はしてないが、なんか一度目があったときに茹蛸のように真っ赤になっていたな……」
 「そうだ、それだよ。じゃ、目があっただけだったんだ。あとは勝手に彼女がなにか勘違いしているだけなんだ」
 好川はそれで納得したようであり、話はそこで打ち切られた。


 ところが同じ様なことがもう一度言われた。やはり同じ質問を不意に好川がしてきた。
 「瀬山におまえ変なことを言ってないだろうな」
 「こんどは瀬山か」
 と茂樹も呆れた声をだした。しかし、それもある偶然のタイミングで視線がぶつかったときに、彼女が急に内に籠もった熱い照明のように真っ赤になり、視線を茂樹からそらして走るようにして消え去ったことがあった。
 茂樹は女性にぴったり見詰められると自分からは目がそらせないところがあって、完全に蛇に睨まれた蛙のようになってしまうので、それには責任が持てないと思った。だいたいなぜ真っ赤になるんだと疑問に思うだけであった。もちろん、すぐに、ああ、そうだペッティングの件があったな、とその原因を思い出したが。
 「おまえ、もしかしたらいやらしい目つきで見たんじゃないのか」
 好川はまたもやそんな変な言いがかりを茂樹につけたものだった。
 「見てねえよ。だいたいおまえの彼女たちに興味ねえよ。変な言いがかりをつけると今度はこっちが怒るぜ」
 好い加減に二回も同じ下らない濡れ衣を着せられて、大迷惑だと茂樹も感じて脅かした。
 好川はそれを聞いて安心したのか気持ちよさそうに鼻で笑うばかりであった。

漫画を描く少年18 『手塚治虫賞』への挑戦

 『手塚治虫賞』への挑戦 


 高二になると茂樹は男子クラスに編入された。良かったと思った。
 女の子がいないお陰で、クラスの数学の授業中に解答ができなくても別段それほど恥ずかしいと思わなくてすんだ。もちろん、安心はできなかった。もしかしたら再び高三になってから女子と一緒のクラスになってしまう可能性もあったから。
 この2D教室で、政治弁論部に入っているという眞鍋と高橋がいた。ふたりともひょろりとしていて玲子と同じ巌清水の出身だった。眞鍋は眼鏡をかけて色の黒くニキビ面のおとなしい少年であったが、高橋は良く喋り、結城にも政治的なことで話しかけてきたこともあった。
 高橋は目がいつも角ばっていて、いつも政治に繋げてほんの小さなことでも意味づけていたようだが、それはただ結城からみると面白いだけで説得力もなにもなかった。こういう生徒もいることに不思議な思いがするだけだった。また、マラソンがとても得意で目立つ小柄で坊主頭の大林という生徒もいた。あとで彼らは左翼系の思想に進んでいることを他の生徒から聞いた。


  暫く与野や久野とは帰りの列車のなかでも一緒になることはなかった。別にそれほど気にもしていないことだった。
 ある昼食後の休憩時間にバルコニーを伝い歩き隣のCクラスをちょっと覗いて見ると、教室の中に四人の男女が体をぴったりくっつけて座っている姿をみた。
 それぞれの女の子に腕を絡ませるようにして椅子をくっつけて固まっている彼らを見た。しかも、その女の子たちは学年でも二人ともチャーミングで綺麗なタイプに属していた。たまたま目撃したので少し嫉妬も覚えた。それで、もう一緒に同じ時刻の列車に乗る必要もなくなり、茂樹などを何かのために誘う必要もなくなったのだとわかった。彼らの目的は達成されたのである。
 一人の女の子は兄弟高の下総から帰るバスの中で、そして入学試験の時に彼の斜め前方に座っていたあの笑窪と八重歯の女の子だった。彼女はちらりと久野の腕と肩の間から茂樹を振り返ったが、その顔には笑窪も笑顔ももう彼に対してはあらわれてはいなかった。
 授業の合間の休憩時間にバルコニーにでるとか、廊下を歩くときにこれまでと同じように隣の教室などに注意を向けなければすむことだと茂樹は思った。


 茂樹は性的な雰囲気から自分の意識を遠ざけることに禁欲的に努めていた。しかし、他の生徒はもっと思春期そのままにホルモンの要求するままに動き、そこに無批判に左右されているようなところがあった。
 肘を机についてヴェルレーヌに眼を落としていると、バスケット部の生徒が後ろから茂樹に抱きつき、ありもしない彼の胸をまさぐって、痛い思いをさせたことがあった。
 「悪いな、おめえは色が白くて女みたいだからよう」
 そんなことをいって自嘲的な笑い声を立てていて、茂樹にも怒れないものがあった。そして彼は、海棠二高の女子生徒たちとバスケットをやりに行くことがあり、そんな時に胸や腰にさわれるんだと、もう堪らないように思い出して話すのであった。それで、身代わりに発作的に後ろから思いっきり襲い掛かられるのは大変な迷惑であった。
 また、教室から教室を歩き男の子ばかりをみて回る男子がいて、
 「このクラスじゃ、結城が一番の美男だな……」
 と茂樹は耳元に生温かく湿った息を吹きかけられたことがあった。振り返ってその本人をみると、小柄で眉毛の濃く目のいかつい毬栗頭の少年がそこにいた。確か彼は何かのスポーツ部に入っている者であった。美とか、そんなこと自体を気にするようなタイプの少年には全く見えなかった。茂樹は、そんなことを言われても、他のクラスにはもっと格好の良い、女の子にもてそうな健全な姿勢を持つ男子生徒がいるし、それは自分には全く無意味な言葉であり、慰めにもならないと思った。


 中学生の時の茂樹は好きな漫画家の作品の掲載される雑誌を毎週のように買っていた。だが、自分の好みが決まってくるとどうしても他の漫画家の絵は受け入れられなくなって来た。
 高校二年生になった漫画家志望者はほとんど漫画雑誌も買わず、読みもしない少年になっていた。それはまた破廉恥で、派手に騒ぐ漫画が増えてきたことでますます買いもせず読みもしなくなった。代わりに、横山光輝の作品だけで一冊の本に纏められているような本があると、自分の小遣いの額とその値段を比べて困惑はするが、買いたい手に入れたいと思うのだった。彼の描き方は良く知っている。そして内容は一度目を通してしまったら実際にはもう購入する意味がなくなってしまうことも迷いのうちの大きな要因であった。
 放課後になってまっすぐ帰宅するのも面白くなく、駅に行くのに市街の賑やかな通りを歩いて行った。そしてやはり彼の足は本屋で止まった。店頭には客引きのための新刊書、出たばかりの雑誌や新聞が突き出されていたが、そのなかに漫画の月刊誌もあった。
 別に見ようという気持ちもなかったが、なんとなくその表紙にあった見出しに、その時は眼を射られたのであった。
 そこには今まで漫画雑誌に書かれてなかった文字が大きく赤い太字で描かれていた。それが『手塚治虫賞』であった。
 賞と言うと文学の賞はよく聞くが漫画に賞が存在するというのは始めて知ることであった。他のものも立ち読みしているので、茂樹も中年や初老の髪の毛のないおっさんたちに混じってこの『手塚治虫賞』なるものがどういうことなのか、予感に震えながら、ページを慌てて破らないように自分をことさらに抑えてその記事を探した。
 「新人の意欲に満ちる作品を求む」とか、「プロの漫画家への登竜門」などという小見出しが飛びだしてきた。
 雑誌を買うお金も持ち合わせていないので、彼はその漫画としては初の賞の募集要項に目を走らせ、締め切りとか枚数を口の中で繰り返して脳裏に焼き付けた。送り先は雑誌の出版社であるから、それは家にもある漫画雑誌の裏側をみれば良いのだと思って、今見たこの賞のことを信じられない思いで本屋を離れた。しかし、駅の近くまで来た時には、もうしゃにむに今の書店に戻って有り金をはたいて、その問題の漫画月刊誌を購入することしか頭にはなかった。
 彼は帰りの列車に揺られながら、店の名の入った白い紙袋をあたかも重要な書類でも抱えるようにして帰路を急いだ。極秘情報でも獲得したかのように、彼は少しも袋から出して見ようなどとは思わなかった。誰かに見られては、ましてや「ちょっと、読ませろ」とか言われて汚されたくもなかったからだ。
 帰宅した茂樹は、テーブルをわざわざ布巾で拭くと、油とかの汚れがないことを顔を近づけて確かめてから、崩れやすい古書でも取り扱うように、ゆっくり紙袋から取り出して、注意深くその問題のページを開くのだった。 
 この賞を獲れば、すぐに自分はプロの漫画家になれる。この思いに茂樹は恍惚となった。賞を獲得すれば同級生からの尊敬の念も計り知れないほど急上昇するし、岩本玲子に声をかけることもできると思った。
 この高二の夏、全ての時間と労力を漫画製作に傾けることを決意した。


 案と言うものは妙なもので、メモする数分の間は最高なものだと思えた。だが、あとで読み返してみるとその時の天才的と思えた閃きは通俗的でありきたりのものでしかなく、どれも『手塚治虫賞』に挑戦するだけの輝きを放つようなものではなかった。それは四コマ漫画でもこのような短編でも同じであった。
 三十枚ということは夏休み期間、全部を使ってやっと完成を期待できる。そのように計画しなければならないと茂樹は心の準備をした。そのためには、いかにストーリーが重要でも三、四日間で輝くアイデアを見出し堅固な構成を練り上げなければならないと思った。そして絵コンテを三十枚に配分し、ケント紙に毎日最低一枚以上はしあげなければならない。


 茂樹は自分の部屋と言う物は持たなかった。一つ上の兄と同じ三畳ほどの部屋を共有しなければならなかった。漫画を一所懸命描いているところを覗かれたり、また、見られていると思うとやりづらいので机の前と右側は壁際につけ、椅子の背後に書棚を立てて、前の壁に釘を打つと、後ろの書棚と紐で繋ぎ、一枚の布切れをカーテンにして左側に下げた。これで部屋に入ってきた兄から左側から見られることもなくなった。大き目の公衆電話ボックスのような自分だけの領域を茂樹はこうして作った。彼が机に向かっているときに、くるぶし辺りまで下りたカーテンに触れて本棚との隙間から手を入れて覗くようなことは兄もしなかった。自分だけの架空の世界が、誰にも邪魔されない領域が茂樹には必要であったから、これには両親も怒らず、そのまま暗黙の了解も得られたようだった。


 なにをテーマにしてどのように描こうかと四六時中考えあぐねるのであったが、なかなか良いアイデアが浮かばない。
 ふと玲子の姿が頭に浮かび、今頃はなにをこの夏休み中にしているのだろうかと想像する。次に彼女をヒロインにしてみようという思いが湧くと、すらすらとストーリーが憑かれたように様々に展開し始めるのだった。


 作品は幾分神話風のサイエンスフィクションに仕上げることに決めた。しっかりした起承転結の骨組みを備えた、モラルの上でも人を考えさせる良いものができそうな予感がした。
 エピローグの部分で、もう絶体絶命に追い込まれてしまい、数人のうち一人が犠牲にならなければ許されない状況に追い込まれ、玲子にあたるヒロインが進んでみんなのために犠牲になろうとするのである。そしてその瞬間にみんながこの綺麗な心の彼女のお陰で救済されるという結末を茂樹は考えた。
 このときは絶対に行けると思った。このどんでん返しに審査員たちも深い感銘を受けるのではないのかとさえ茂樹は信じた。このストーリーには大変な彼自身のオリジナリティーが奇跡的に突出していると、書き出してみて我ながら感激するのだった。
 それから全体のストーリーを台本のように書けるだけ書き始めた。あとで、余分なところは削除し縮小すれば良いのだから、今すべきことは出来るだけ思いついたことを書き足していくだけだと思った。絶対良いものが出来上がると茂樹は確信し幸福なひと時を体験するのだった。
 少しづつ出来上がっていって、そのたびに一流の漫画家がやっているように、壁と彼の背丈ぐらいある書棚とのあいだに張った紐に、出来上がったばかりでまだ濡れて光るケント紙を洗濯ばさみで止めてぶら下げかわかすのであった。兄はちょっとこの弟の熱心さに感心したようで父が近くにいた時にもっともらしいことを言った。
 「まあな、家族に一人ぐらいは、こういう変わった奴がいても良いよな」


 夏休みが終わりに近づいたときに、やっと三十枚の漫画ができあがった。およそ毎日十時間から十四時間は机に向かって描いていた。結構大変な作業だと茂樹は思い知らされ、出来上がったことでやっと漫画から解放されるとさえ感じていた。本当はそれじゃまずいのではないのかと不審に思いながらも、解かれた喜びに浸っていた。
 そして出来上がると、やはり誰かに見せて、この夏休み中にどんなに自分が精力を打ち込んで頑張ったかその成果を見せたい、認められたいという気持ちが込み上げてきていた。
 新学期が始まると、彼の足は自然に古典の仁平先生に向かっていた。職員室は新館の一番南側にあり、大きな窓が三方に開いていて外の見晴らしも最高だし、教室二部屋分は十分にある明るい大きな部屋だった。これまで入ったことのない職員室であったが、仁平先生に自分の渾身込めた努力を見せたいという気持ちが茂樹をして踏み入りさせた。他の先生にだって見られても平気だと思った。それだけの自信作でもあったし、自分には自分の青春があることを見てもらいたいような誇りさえ持てた。
 もう、あとは投函するだけの、『手塚治虫賞』宛の住所も書いた茶封筒から、白いケント紙をだして彼女のテーブルの前に拡げた。
 「まあ、結城君、上手だわ、プロの漫画家とまったく変わらない感じね」
 笑窪を見せながら二十代前半の彼女は大きな目を爛々と光らせて一枚一枚両手にとった。そして読むというよりは鑑賞していた。もとより彼の文字は下手で読みづらいはずであった。内容は荒唐無稽なものであったし、それが古典の先生に本当に理解できるかどうかは最初から彼としても疑問ではあった。
 このちょっとした珍事に近くに座っていた現代国語の福松や大狸も女教師の周りに煙草臭い息を吐きながら集まって来て数枚のケント紙を手にとって眺め始めた。茂樹としてはこの大切な生原稿を彼らが手に触れるたびに、ハッと肝が縮まる思いだった。彼らの汚れた指の指紋でもついたら修正をしなければならない。それも再び帰宅してからやらなければならない。こんな場所に修正するための道具も材料も揃っていないので、触れられるたびにヒヤッとする思いであった。
 ただ、彼らが茂樹の努力の結果にすくなからず関心を示してくれていることがとても嬉しい。
 「こういう生徒がいても良いと思うね。みんなが同じ敷かれた線路に乗って同じことをする必要はないわな」
 地学の大狸が笑顔をつくって尤もらしいことを言った。ただ、茂樹の未来は自分自身の能力と運だけにかかっていて不安定なことは彼も忘れてはいなかった。こういう先生たちも実はちゃんとしたコースを進めない茂樹を半分憐れみの気持ちで見ているのかもしれないとも感じるのだった。
 出来上がった創作漫画は仁平先生のもとに置いて、授業時間のあいまに読んでもらえたらと言い残して、彼は教室に戻った。
 あとで、なかなかの力作ですねと彼女に言われたが、自分の漫画を普段から研究していない教師に、その醍醐味を味わえるかどうかは困難なのではと思った。それは文学に携わっている仁平先生でも違わないと思った。彼はにこりと頷いて職員室を後にした。多少お世辞が混じっていたとしても、もうこれで良いと思った。あとは運を天に任せて送るだけだと思った。
 そしたら完全に肩の荷が下りることになるはずだった。
 実際に大変な仕事であった。
 三十枚描くのに、約四十日間の時間を必要とした。しかも、茂樹としては毎日を辛く感じた。楽しく喜びを感じた瞬間も何度もあったが、結構厳しいものであった。
 十枚描いたときにも苦を少し感じたが、今度は本格的な辛酸さの一部を舐めさせられたという気がした。
 プロになったら一体どういうことになってしまうのだろう、と入らぬ狸の皮算用で、もうこの体験から作品生産に必要であろう苦労を想像してぞっとするのであった。とても自分に毎週何十枚も描きあげる才能はないという気がした。
 考えていくうちに、プロはアシスタントを使うから締め切りに間に合うんだろうと言う事に思いついた。だが、スタートしたばかりの自分にアシスタントを使うだけの経済的な余裕はあり得ないだろうとも思った。ましてや、他人に同じケント紙に建造物や乗り物、あるいは背景画などを描きこませるなどということはちょっと自分に許せなかった。それでは自分の純粋な作品ではなくなるではないかと茂樹は憤るのであった。それは絶対にできない。……でも、そうなると、ケント紙を前にすること自体に憎悪を覚えるようなところまで行ってしまうような気がする。どうもこれに関しては解決策はないような気がした。今の彼には突破口は開けそうもなかった。


 漫画の募集が締め切られた期日と受賞者の発表日は結構短かった。文学作品と違って選考委員には最後まで読まなくても彼らの鑑識眼で即日落とすことが可能だし、その枚数も少ないせいなのだろう。
 秋には締め切られ早くも晩冬には賞が決定するのであった。
 それからは、受賞者が発表されるはずのない月の漫画雑誌も、間違って載る事はないかと思い、表紙や目次ぐらいは開いてみてきた。
 そしていよいよ一月のお正月号が店頭に置かれる日が来た時、震え逸る気持ちを抑えながら校舎の高台から坂道を急ぎ足に、目抜き通りの本屋に茂樹は向かっていた。さすがに気温は下がっていたが、午後ということもあり道路は乾燥していた。
 市内の本通にある本屋がこれほど離れて感じられたことはなかった。自分の足の速度がいらだたしいほどであった。まもなく磨かれたガラス張りの仕切り壁と臙脂色の庇がみえる。今はガラスドアの店内に新刊の雑誌が積み重ねてあり暖房が入っているはずだった。
 辿りついた茂樹は、まず自分を落ち着かせて、例の漫画の月刊誌を目で探した。そしてそれがいとも簡単に目に触れて信じられないような気持ちであった。
 そして発見すると『手塚治虫賞』受賞者の項目を夢中になって探すつもりであった。が、それは探すも何も、あっけなく表紙の上方に赤い特大文字で受賞者の名前が記されていた。
 そしてそんな馬鹿なはずはないと茂樹は思った。もしかしたら彼が出した郵便物がちゃんと『手塚治虫賞』受付の係りに届いていないのではないかとさえ思った。そして雑誌を開いてその理由を知ろうとした。一体どうして他の作品が受賞していて、自分の名前が出ていないのかその理由がなんとか知りたかった。
 受賞でなければ、最終候補作作品に留まっているのかも知れないと思った。しかしそこに出ている五作品にも自分の名前も作品の題名も見当たらない。これはおかしすぎると思った。まさかその下の選外佳作に自分の名前が連なっているという恥を自分はかいているのだろうかと思い、そこにも自分の作品と名前が上っていないので、全くわけがわからなくなり呆然とした。
 彼は食い入るようにして作者名と作品名を二三度チェックするのであるが、何度見てもそこにあるべき結城茂樹という自分の名前を見出せないのである。
 まさかと第二次予選選考通過作品ぐらいのランクに自分の名前が蹲っているのではあるまいかと落胆しながら、震える手でさらに小さくなった文字をつぶさに見てみた。選考委員の能力を疑いながら文字を追うのだが、そこにも茂樹の作品も名前も見あたらない。やはり届いていないのだ。なにかの郵便局内の手違いで遅れて届いたがために、来年に回されでもしたのだと思い始めながら、念のために、ありえない事だが次のページを捲った。するとそこには更に細かくなった文字で、すでに第一次予選で落ちたその他の全応募者の名前が掲載されていた。作品のタイトルなどは余白を惜しんで記してもなかった。そこに茂樹は自分の名前を発見しなければならなかったのである。
 これは茂樹にとっては大変なショックであった。


 受賞した作品はひと言で言うならば、下手糞そのものだった。それが茂樹の受けた第一印象だった。
 だが、稚拙ではあるが誰もこれまで描いたことのない素朴でオリジナルティーな画風ではあると思えるものだった。しかしそれにしても出来損ないのような画法でもって独特な線をだすというのは、なんと程度の低い次元での成功であろうかと侮蔑さえ感じるのだった。……ただ、この酷い受賞作品に比較すると、池沼も中伊も、そして茂樹自身の作風も独自のものはあまり見当たらないといわれてしまっても仕方ないのかもしれないとも思った。
 なにがいけなかったのか、この驚愕の渦中にあっても、それでも茂樹はすぐに理解した気持ちだった。やはり絵の独自性なのだろうと思うのだった。それ以外にこの下手な絵が受賞できた理由が他にないと彼には思えた。
 第一回『手塚治虫賞』が掲載されているこの月刊誌を購入するつもりでここまで来たのだが、でしなに顔面にパンチを食らった状態であった。そして、この受賞作のストーリーなど、もう読むとか味わうとか、そんな気にもならなかった。この稚拙とも言える受賞作の絵はそれほど大変なショックを茂樹に与えていた。彼はそれまで、受賞するかもしれないと半ば本気で思っていたのだ。その興奮で夜中に起きてしまったことさえあった。
 自分たちは有名な漫画家たちのアシスタントには成れるかもしれないが、到底独自の作風をもって自己主張できるプロには当分今の画風ではなれないのかもしれないと茂樹は思った。アシスタントの地位だって日本全国各地に自分たちのようなアマチュアはたくさんいるはずなので困難な限りだろうとも思われた。


 帰りの海棠駅のプラットホームでは、知っている生徒がいない端のほうに佇み、列車に乗り込んだ。そして熱に浮かされたようにこの『手塚治虫賞』の結果を口のなかで唱えているのだった。
 これまでの自分への信頼が、この落選で、いや相手にもされなかった『手塚治虫賞』の結果で、一撃の下に瓦解した感じがあった。
 とにかく自分のやっていることが根本的に間違っているのに違いないと思わざるを得なかった。でなければ、あんな下手な絵が受賞するはずがないのである。思えば自分なりの画風を作ろうとか考えたことがあっただろうか。むしろ自分の敬愛する横山光輝の画風に似ているといわれて自分の才能を認められた気分になり嬉しく思っていたぐらいであった。それは恐らく他の二人も同じなのだと思った。車中、考えていくうちに、こういう間違いが発生しないように作品を見せ合い議論をして腕を磨いていくのが『漫画研究会』ではなかったかと気がついた。三人が何度かもっと集まって鼎談でもしていたら、絵のセンスはそれぞれあっても、自分たちにオリジナリティーの画風がないのを気がつくところまでに到達していたのではないかと思えるのだった。
 この受賞作のような稚拙だからオリジナリティーがあると見なされている作品とはちがう、技術的にも絵のタッチも熟し優れた画風で独自のものはつくれないかと思った。しかしそれは致命的なことであった。自己否定的なところから再スタートしなければならないような気がしたし、到底この残った高校時代の短期間では到達できないような気がするのであった。唯美主義者、耽美主義者にいきなりアヴァンギャルドでやってみろというのと同じ様なことに思われた。
 これが絶望的な状態、窮地というものだろうかと、茂樹は列車に揺られながら空虚な気分を舐めていた。
 窓の外では、鉄道のすぐ近くに林立する森や林の樹冠を、静脈から流れて煮凝った固まりのような、濃度の強い赤い夕日が焼いていた。空を流れる薄く細い雲が、最後の陽光に染め上げられて痛みを伴って喘いでいるようだった。近くに建つ家屋は黒いシルエットをみずからの黄色や橙色の灯火で素早く長く切り裂いている。そして冬の田畑が再び視界を広げたかと思うとまたすぐに鉄道付近に植えられた樹木の影が不明瞭な黒と濃い灰色に解け混ざって横に流れていく。あらためて世の中が暗黒であると思う。このまますべてが真っ暗になり消滅してしまえばよいとさえ茂樹は願った。


 翌日もこの『手塚治虫賞』の結果で茂樹は悶々としていた。彼は激しく打ちのめされショックを受けていた。受賞作に関して、あんなのは違法だとさえ思った。横山光輝も石森章太郎も他の漫画家たちも手塚治虫の画風に似ているじゃないか。それでも、認められているじゃないかと思うと、再び理不尽な扱いを自分の作品が受けたと思えるのであった。……ただ、全応募者のカテゴリーに自分の名前が掲載されていたのはどう説明していいか自分でも分らなかった。つまり才能が全くないという結果と見なければならないのだろうかとさえ考えるのであった。
 そして彼の脳裏には、横山光輝のアシスタントになれるのではないかとか、しかし同じ様な気持ちでいる者は他にもいるし、だいたい彼がアシスタントを必要としているのかなどと何度も同じことを自分に問うのであった。
 それが一通り終わるとこんどは堀川先生に指摘されたことが幾度も頭の中を旋回するのだった。
 「でも、手塚治虫なんかは、医学博士なんじゃないの。大学に入って、それから漫画家になったって遅くはないよ」
 と笑って茂樹の肩を叩いてくれた生物の教師、彼の言葉があらたに突き刺すのであった。
 そして彼は実際には言えなかった理論でやり返すのであった。
 「でも、彼は世に稀な天才ですから。だからそんな回り道をしても漫画家として大成したんです。でも、僕みたいな普通の者には彼の例はまったく参考にもならないし、比較すること自体が間違っていると思います」
 丸一日も経過すると、茂樹はショックからすこしは立ち直り、回復への道程を思案しだしていた。
 十代後半の今、何ができるか、またなにをしておくべきか。今はまだ十六歳であり、一番色々な知識とか吸収できる大事な時期である。やはり知識のほうにウエイトを置くべきかも知れない。画風はすぐには変えられないだろうと思った。
 結局、彼が新約聖書のように大事にしている手塚治虫の『漫画家入門』の中に書かれてある幾つもの重要な聖句が脳裏に蘇るのであった。


 放課後の出口で珍しく池沼と一緒になり視線があった。本当は自分が『手塚治虫賞』に応募したことは、受賞すれば話は別だが一切口外しない積もりでいた。だが、池沼の誠実さを感じさせる落ち着いた浅黒い顔を見ると、昨日見た結果を話さないではいられなくなった。
 『手塚治虫賞』に応募したことを話すと、池沼の茂樹を見る眼にある種の感嘆の気持ちが揺らいだようだった。中伊とは違って本当に実行に移す者、創り出して自分の目標へ努力を惜しまない者への感心した眼差しであった。
 もちろん、落選したことも彼にすぐに話した。また、茂樹の口調からその言葉を使わなくても、すぐに落選のことは、理解したと思う。そして茂樹の言いたかったことも池沼には理解できたと思う。
 どうみても下手な画風。だが、オリジナリティーという、これまであまり茂樹が考えたこともなかったものをこの受賞者が兼ね備えているという事実。茂樹は本屋の店頭に池沼を伴って、受賞作を見せたかったのである。
 「その原稿のコピーは取ったの」
 そう言われて、そういうことができることをすっかり忘れていたことに気がついた。ただ、茂樹は、受賞して自分の作品が掲載されることを錯視していたので、コピーのことは全く考えもしなかった。
 「いや、残念だな。見たかったな」
 池沼の発言には、それだけの量の原稿を製作したということに、ある敬意さえ窺えた。それは物造りの苦難を体験するものだけにわかる溜息だった。


 玄武統合中学校での茂樹の成績は、百七十名中、だいたい四番目あたりであった。
 廊下に期末試験などの上位者の結果が貼りだされるので、それは否応なくわかってしまうのであった。
 ただ卒業時には中卒ですぐに漫画の修行を始めたかったし、その決意はかなり真剣であった。そして彼が必要とする意味のある部活もなかったことと、ガリ勉と陰口をもう叩かせないために中二からゴルフのキャディーや牛乳配達や新聞配達を始めていた。
 そして中三の最後の頃には出来たばかりのサッカー部に半強制的に入れられてしまったことがある。猥褻で暴力的な振る舞いで恐れられていた国語教師に捕まりたちまち入部させられてしまったのであった。
 そんなこともあり、海棠一高入学試験の結果は二百五十名中、七十四番と教師から言われた。言われてその気になればもっと上位で入学することもできたのだと心のなかで相手に主張していた。
 入学後は在学中に漫画家のプロとしてデビューしようと固く決意していたので、成績は更に悪くなっていた。
 無名のアマチュア漫画少年に与えられた『手塚治虫賞』という好機を自分が活かし得なかったこともあり、ふと大学進学という道も思った。だが、いまさら国立の大学に入学できるほどの学力を取り戻すようなことは、到底自分には現実的にも無理と思われた。
 ほぼ二年間の在学中の学業における怠惰は取り返しが付かないのはあきらかだった。文学作品に登場するジュリアン・ソレルのような超人的な頭脳を持つ主人公たちとは、自分が別物であるのは自覚していた。このハンディキャップを乗り越えるような能力がないことも分っていた。

漫画を描く少年 17 戯れ歌

 戯れ歌


 帰りのバスは立ち席は許されず皆が安全上着席していた。だが、相変わらず組ごとでも男女別にも分かれてなくて、校門前に帰るために集まっていた生徒からどんどんやってきたバスに乗り込ませていた。しかも一人用のシートに二人、また二人用の座席に三人座っていたりしていて、バスが揺れるたびに不安定に通路に落ちて笑ったり、また体で外側の生徒を落っことしたりして笑うのである。
 下総市から海棠市までの車中、最初はごもごも勝手な会話が隣同士でなされていたが、そのうちに、ハミングする男子生徒があり、そして
 「そっれ!」
 という音頭が後ろから上ったかと思うと、忽ち声高に茂樹のしらない破廉恥な歌が合唱され、バスの中で木霊した。
 それというのもほぼ真ん中に六、七人の女子生徒が固まって座っていて、彼女たちを特別に意識して始まったのだった。男子生徒だけだったら白けてそんな歌詞のある歌声はでてこない。
 第一楽章らしいものを聞いていると、たぶん部活で歌われる戯れ歌でもあるのだろう、メロディーはどこか日本の田舎か地方の民謡にも聞こえたが、茂樹や他の生徒はもちろん女の子たちが聞き取れた歌詞は、どこかとぼけた調子でリフレインされるひと言だけであった。
 彼らは三度も四度もその
 「つっこめ! つっこめ!」
 という言葉を繰り返し、繰り返すたびにその合唱の声は大きくなっていくのであった。
 この妙な抑揚に茂樹も笑いを誘われたが、このバスに岩本玲子が乗ってなくてよかったと思った。
 それまでは先生が前に座っているとは知らなかったのであるが、仁平先生がやむなく笑顔を作って自分の置かれた立場を誤魔化しているという感じで、それは女の子たちも同じ態度でこの恥ずかしい破廉恥歌をやり過ごそうとしていた。
 おもむろに背の低い担任の堀川が深い皺をおでこに三四本刻んで、そしてその中の目を松葉のように細くして笑いながら振り返った。彼も前のほうに座っていたのであった。
 「おいおい、楽しくていいのは歓迎だけんど、その歌だけはちょっとやめてくれんかな」
 それで笑う生徒もいたが、与野が
 「ほら、だから俺がいったじゃねえか、それだけはやめろって」
 それを傍で聞いていた茂樹は、この与野の言い方が彼らしいと思った。彼が首謀者の一人であるのを疑う者はいなかったであろう。でも、教師の手前、責任逃れを早くもやりおおせているのであった。


 与野を中心に悪餓鬼たちの悪戯は再び沸々と煮立ってきているようで、なにか後ろから相談するような話声が低く聞こえる。
 バスが何度も横揺れしていたが、茂樹の後ろから前に進み出て、前のほうに座るほかの生徒のほうに移動する子がいた。そちらに遊びに行くのか、窮屈でも横に詰めさせて座りに行くのかと思えた。ところが移動途中で
 「おっ、ごめん」
 と言いながら、通路側に座っている顔立ちの良い女子生徒に体をぶつけているのであった。
 それが成功すると背後からやはり低い声で
 「やったやった。あいつはうまいよ」
 という声が笑い声とともに聞こえた。
 その女子生徒が、高校入学試験の時に茂樹の右斜め前に座っていて、笑窪をみせて愛想の良い雰囲気の女の子だった。茂樹の二つ前に彼女たちは集まって座っていた。綺麗な彼女はこの悪戯のなかではターゲットそのものであった。彼女は頬を薔薇色にそめて隣の女の子たちとおしゃべりを続けていた。彼女はその中では軸になっていた。周りの女の子は耳を傾けるか、彼女を中心に常に話しかけていて、それは無声映画みたいでもあった。
 戯れ歌が禁じられた後では、彼女たちも自分たちが自然発生的にバスに乗り込むときに作った孤島のなかで、自分たちの会話を交わし、また黙って乗っていた。平常に戻った感じだった。ところが与野や他の男子生徒が自分たちの席を立ち、ちょっと前に出てきて近寄っては彼女の肩に触れて、ゴミがついているとか呟いては戻るという、大胆な行動をとり始めるのであった。それは茂樹を多少なりとも驚かせ、この行為を奇妙に思わせるのだった。肩を触れられたこの女の子は
 「えっ」
 とちょっと驚いた顔を見せ後ろを振り返るが、ニコリと笑顔を作ってまたおしゃべりに戻るのだった。その時にちらりと茂樹の顔を一瞥し、笑窪と八重歯を覗かせるのであった。実は何もついていなくて、男子生徒が自分を触ってきただけだと言うことも、彼女にはわかっているような気配があった。
 「おい、結城、お前も触れよ。そんな近くにいるのに、勇気ねえな」
 後ろから銅鑼声で与野が狐っぽい顔をむけて茂樹にけしかけてくる。それが聞けたに違いない彼女の顔が幾分後ろに傾き、睫が瞬かれるのが茂樹の視界にはいった。そして、再び微笑に戻る。
 バスが揺れて、小さい背丈の顔がつやつやの生徒が揺れてしょうがないなと言いながら、少し前にでてきてやはりその彼女の背中に触れた。彼女はそれでも微笑みを保っていて、やはり茂樹のほうを盗み見るように半分ちょっと振り向くようなところがあった。  
 もしかしてちょっとだけだったら触れても大丈夫なのかも知れないと茂樹の頭を誘惑が掠った。彼女はこのバスの中では一番チャーミングな少女であった。
 「おい、お前、そんなすぐ後ろにいて何だよ、ぜんぜん意気地がないなぁ」
 また、後ろから囃し掛ける声が続くのだった。
 好川もすぐ隣に座っていて呆れ返っていた。
 「おまえ、ほんとにだらしねえな。なんにもできねえのか」
 と言って、何もついていない彼女の肩を腕を伸ばして簡単に払うのであった。
 「ちょっとゴミがね。あれ、気のせいかな」


 この好川はかつて中学三年生で莉奈子とペッティングを卒業したと言っていたし、また、茂樹と同じ出身校の瀬山とも同じことをしたと笑って話していたことがあった。
 面白い物で、そんな経験が少しもない茂樹には、そこに一線を超えてしまった破廉恥行為と性犯罪臭を嗅いでも、それ以上のことは実感として何も理解できないのであった。
 「それって、脱いで?」
 思わず茂樹は得意になって語る好川に聞き返したものだった。彼は問わず語りに
 「当たり前じゃないか。そうしなくちゃBと言えないじゃないか。だがよ、もちろん、そこまでで、その先はなにもしてないけどな」
 と何度も繰り返しその先を否定していた。関心もなく実際の感覚として感情移入もできない茂樹はただ、その二人の女生徒の顔と学生服姿を思い浮かべただけに過ぎない。彼女たちが好川の前で服を脱ぐとか、そんな姿を想像することはまったく不可能であった。
 バスが揺れるちょっとした拍子にとうとう茂樹も彼女の背にサッと触れた。女の子に触れてみたいという気持ちにもなぜかなっていた。彼女はちょっと振り返り、それが茂樹であることを確認し綺麗な目でぴったりと見つめ唇を撓めると、また何も言わずに笑顔をつくって、また前に顔を戻した。茂樹はそこに、触られて嬉しいと感じている彼女をそこに見出した。この僅かな動作が、茂樹が自ら生まれてはじめて行った女性への働きかけであった。思えば、彼女は受験で近くに席をとったときから茂樹のほうを気にしていたようなところがあった。
 あとは、彼女たちももとの女の子たちだけの会話に戻り、男子生徒もバスのモーター音や風を切る音の繰り返しと、適当な揺り籠のような揺れのお陰で寝入るものもいたし、そとの景色をぼんやり眺めるだけというものもいて、生徒の声は徐々に薄れて行った。

漫画を描く少年 16 ライバル学校

ライバル学校


 下総一高は海棠一高と兄弟高である。そしてそれと同時にライバルでもあった。だが、それは海棠周辺の中学校から入った生徒たちがそういう意識を抱いていて、茂樹たちの玄武統合中学校出身の生徒たちにとっては少し意味合いが違っていた。ちょうどこの二つの人口の多い大きな街の中間に位置する玄武町では、一番良い成績の上澄み十人ほどが下総にいき、次の十人ほどが海棠の高校受験に挑戦するのが習慣になっていた。ただし、茂樹の場合には高校はやむなく行かなければならない場所であり、実際には漫画家になるための巣窟として一時的に体を預けているだけの場所であった。だから、中学校時代にむきになって勉強している同輩とは、別の学校にしたのだった。
 「おまえ、意気地がないな。おまえだったら下総に入れたじゃないか。もっと成績の悪かった奴だって入れたんだから」
 入学後、近所に住む小学校の教師の息子であり、ガリ勉で肥満児の広山が、中学で成績が悪くても下総の入学試験にちゃんと通った生徒の名前をあげて、茂樹の意気地なしぶりを非難した。しかし茂樹としてはそれは痛くも痒くもないことであった。彼にとっての高校は次の大学に行くためのものではなかったから。


 旧市街地区の玄武駅付近に、細い川が流れていたが、それに面した古い木造家屋を借りて茂樹と家族たちは住んでいた。
 茂樹はすでに小学校五年生あたりから、中学校に入ったら本格的に漫画をやろうと決心していた。だが、そんな部活は中学校には存在しなかった。他に自分も漫画を描けるという名乗りを上げた少年がいたが、その実力も落書き程度のものでしかなかった。道子という子も漫画を描いていたらしいが、仲間として女の子と一緒に描くということは考えることもできなかった。中学生の時にもうすでに茂樹はひとりっきりで漫画家を志望する孤独な存在であった。
 統合中学の校舎が、茂樹たちがはいる一年前に完成していた。校舎の屋上に聳える銀色の天文台を入学時に見て、すぐに天文学部に入ろうと茂樹は決意していた。サイエンス・フィクションあたりの漫画を描くにはもってこいの環境だとすぐに思ったからだった。ところが望遠鏡もなく、ただの飾りだと中学校の先生にまもなく豪快に笑われただけであった。入学後も卒業後も望遠鏡が入ったというニュースを聞くこともなく、屋上は常に立ち入り禁止であり、ドアはいつも閉まっていた。本当に飾り以外の何ものでもなかった。
 スポーツ関係の部活は多かったが、茂樹が魅力を感じるクラブも別になく、まっすぐに帰宅しては、畳に寝そべっては浮かんだ漫画の案をメモしたり漫画本を読んでいたりした。
 一週間分の小遣いはたった一度の買い物で彼は全部使っっていた。毎週出版される少年マガジンや少年サンデーのために一度で支出されるのであった。茂樹はそれを貪るように読んで中学一、ニ学年を過ごしていた。
 妙なことに中学に入ってから、聞いている授業を面白いし興味深いと茂樹は感じ始めていた。そして彼の成績も、授業を聞いているだけなのに、周りの生徒からガリ勉の疑惑を受けるほど、だんだん良くなってきてしまっていた。漫画に興味のある背丈の低い少年からは
 「勉強ばっかりやりやがって、もう漫画に興味がなくなったんだろ」
 と勝手な憶測を言われてしまうのだった。そのたびに茂樹は
 「勉強なんか、やってないよ」
 と力なく答えていた。
 また、小学校時代から成績上位であった、酒屋や機織り屋そして小学校校長の息子たちが茂樹の陰口をたたくようになった。つまりこれまで小学校では大した学力でもなかったのに中学校で急に成績があがったのは、ガリ勉に変じたのに違いないという濡れ衣であった。確かに小学生のときの成績は良くなかった。平均以下であった。しかしその原因はあとで考えてみると、まず二回も転校していたことがあった。埼玉県の川口で小学校に入り、二年生で茨城県に移り、やがて同じ玄武町の山奥の小学校から数ヶ月もしないうちに鬼怒川沿いの旧市街の小学校に父の仕事の関係で転校を余儀なくされたのであった。そしてもう一つの重大な遠因があった。  
 幼年時代に遡ると、彼の世代ではもう幼稚園に入るのは当然なのに、彼は入園しなかったのであった。他の小学生がとうの昔に「わ」や「ね」の区別がつき、「あ」という難しいひらがなを書けるのに、茂樹にはそれがとても難しいように感じられたのであった。しかし、ほとんど彼一人を除いてみんながすでに書けるし、読めるので茂樹は置いてきぼりにされてしまい、次のページでもやはり彼だけが初めてみる難問が待ち構えていた。童謡なども一番彼の覚えが悪かった。茂樹という生徒は、把握が遅く、女性の先生からも赤い添削用の太い鉛筆で頭を叩かれることもあったぐらい鈍いと思われていた。小学校に入る前に、他の生徒は幼稚園ですでに学び終わっていたか数年間もよけいに予習をしていたのであった。
 小学五年生あたりになるまで、普通の成績の子になるために随分時間がかかってしまっていた。長い間、茂樹自身も自分を愚かな生徒と見なしていた。


 中学二年生になると、あまり誹謗中傷を受けるので、やる気もなかったが卓球部に一時期入部した。が、面白くもないのでやがて退部せざるを得ない羽目になった。やりたいことは美術関係であったが、そんな部活は中学校ではまだなかった。したがってぶらぶらするしかなかった。


 そして、期末試験が翌日に控えていた午後のことだった。怠惰な茂樹は、いつも土壇場になってから教科書でもみようという気持ちになるのであったが、その彼を、この三人の優等生がいきなり一緒に野球でもやらないかと、もうグローブからソフトボールの大きいのを抱えて訪ねてきたことがあった。
 これまでに彼らと遊んだことも稀だったし、ましてや三人揃って試験の前日の遅い午後にやってくるのは初めてのことであった。
 三人ともブラスバンド部に入っていて、それで話が決まって茂樹のことも誘いに来たというふうにも頷けるが、もしかしたら自分たちはすでに明日の試験の予習を終えて、その足で茂樹の意表をついて勉強させないように、二の句も告がせずに遊びに拉致しにきたのではないかという感じであった。
 鬼怒川の広い河原の砂の上で四人で二組に分かれてソフトボールをするのであるが、この日、守備に立っていた茂樹に、そのなかの機織り屋の息子がいきなり飛び上がって膝蹴りを顔面に食らわせた。左頬の骨に、全体重を収斂した膝蹴りを食らわせられたのであった。気を失うような猛烈な痛撃に、茂樹は瀕死の動物のように砂浜でのたうち回った。目の前が痛みのために吹き出た涙と砂で見えなくなっていたが、周りから
 「ごめんな、ごめん」
 という声と教師の肥満息子の
 「わざわざやったわけじゃないからな」
 という声が何べんも聞こえていた。痛みが減ってきたころには、殴り返したいと思っていた気持ちは、何度も周りから繰り返される言葉にだんだん消えていき本当にそうだったのだろうと納得させられてしまった。そしてこのアクションを合図に、茂樹に聞こえてきた言葉は、
 「もう暗くなったから、帰ろう」
 という酒屋の息子のお開きを意味する言葉だった。茂樹は焼け付くような痛みがまだ熾っている頬を押さえながらそれを聴いていた。
 三人は揃って、頬をまだ撫でながらついてくる茂樹を不安からなのか時々は振り返っていた。茂樹にとっては、その日はもう勉強どころではなかった。もともと教科書を帰宅してから開くようなことは茂樹にはなかったが。
 その三人もこの下総一高にいた。
 なんの感慨もないとは言えない。彼らはここで大学進学のために毎日次の大学受験を目指して机に齧りついているのだろうと思った。
 生徒たちの群れに混ざって歩きながら、こちらの校舎も白亜の鉄筋コンクリートの新築だし、ポプラやプラタナスの樹木も茂り、緑の葉を繁茂させているところもほとんど同じだと思った。ただし校庭が校舎と同じ高さにあるのを見て、曲がないと思った。小高い丘に立ち市街や校庭が坂下に広がる自分たちの高校のほうがよほど素晴らしいと思った。仕方なく受験し、通学する学校であるが、愛着らしいものを感じ始めている自分を茂樹は発見していた。         


 こういう催しにありがちな、例えば全校生徒が体育館に集まって校長同士が挨拶するとか、生徒会長がマイクをもって挨拶するとか、まったくそんな儀式はなかった。あっても茂樹には分らないほどの自由さ、解放さがそこにはあった。生徒たちは気まぐれに、校庭や館内で行われる試合を簡単に見て回れた。
 茂樹はこういうイベント自体が無駄な時間だと思いながら、木陰と校舎の間を目的もなく一人で歩いていた。玲子に会いたい。そんな気持ちが茂樹には執拗に籠もっていた。ただしそれは、自分は安全な位置において、遠くから彼女を一方的に見詰めていたいという種類のものだった。彼女に見つからずに自分だけが彼女を捉え見詰めていたい。実際に声をかけたりするような勇気はまるでなかった。
 下総の黒いセーラー服の女の子たちや海棠一高のモダンな濃紺のブレザーとプリーツスカート、そしてあとはどちらか全く分らない詰襟の男子生徒たちが周りを楽しそうに小さなグループを作って移動していた。
 すると生徒たちの行き交う流れの中に一人の女の子が彫像ででもあるかのように微動だにもせずに彼の前で立ち止まるのだった。その姿は、否応なく彼の視界に飛び込んできた。彼女はまっすぐ茂樹をなんの臆面もなく見詰めていた。彼はちょっとびくっと震えたが、そのまま金縛りにあった状態で一メートルほどの距離を置いて同じようにこの女の子を見つめざるを得なかった。他の何ものにも気を殺がれることなく、彼女はじっと茂樹の目を捉えて離さずに佇んでいるのであった。彼はその強い視線に捉えられ同じように見るだけであった。そしてこれが初めてでないのを思い出していた。
 およそ六ヶ月も前のことであったが、茂樹たちの班は中学校の職員室前の廊下を掃除していた。茂樹も頬を火照らしながら雑巾で廊下を拭いていた。すると、職員室のなかからでてきたらしい女子生徒がぴたりと彼の目の前で歩みを止め動かなくなったのであった。不審に思って立ち上がってその女子を見ると、彼女もあたかもこの世の最後の思い出にでもするかのように異常なほど臆面もなく、彼をじっと息を凝らして見つめているのである。別に睨んでいるわけでもなく、微笑みかけているのでもない。ただじっとこちらが不安になるぐらい彼の視線を捉えて離さず、見つめるのをやめないでのあった。
 この女子生徒のことを彼も一応知ってはいた。確か、成績が良くてスポーツも優秀な子であるはずだった。名前も聞いたことがある。だが、いままで中学校の三年間で一度も一緒のクラスに編入されたことはなかった。
 その同じ彼女がじっと、中学三年生の時と全く変わらない視線と姿勢で彼と対峙しているのであった。彼もそのときと同じく動けないでいた。
 どのくらいの時間そうしていたかは分からないが、そこに通りかかった彼女を知る女子生徒が、他に行くことを促したので、このときも何も話さずなんの表情の変化もなくそれで分かれた。ちらっと彼女は茂樹をもう一度肩越しに振り返ったが、茂樹は相変わらず同じ目付きで見送るだけであった。
 一体今の彼女はなんなのだろうかと不安に思った。あとはただ会わないようにしたいと思っただけであった。
 そして相変わらず自分が知っている誰かとあうかどうかと期待と惧れをもって適当に散歩していたが、あの三人の優等生たちの姿も、一緒に玄武町から列車で海棠に通学する生徒の姿もどこにも見ることはなかった。そして岩本玲子の姿もどこにも見出しえなかった。本当に遠くからだけでも彼女の姿を見詰めていたかったのに……