蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 10  小説家を目指す少年


 小説家を目指す少年


 大学進学が眼中にない茂樹は、本を読まなければならないと思った。それで高校の図書館に行ってみたが、そこで手にとって紐解いてみる気になった本は、第二次世界大戦関係のものであった。しかし拾い読みをするだけでとても通読などは不可能な分厚さであった。日本文学講座の革張りの単行本もあったが、手にする気持ちにはなれなかった。そこまでやる必要がないような気がしたのである。
 図書館は空いていた。座っている生徒はだいたい受験勉強をやっている連中で、読書に耽るような者はひとりもいなかった。あまり本を書棚から出し入れしていると目障りになるらしく、睨み付けられたりしたこともあった。
 大体人が触った本を開いて読むのが茂樹は嫌いであった。
 通常、彼は海棠駅に向かうときに、いつも最短距離を選んで通学している。白亜の校舎から南側に細い坂道が続いていて、道の東側には濃い林が鬱蒼と茂り、西側は絶壁になっていて、低い部分は一メートルほどであるが、校舎の入り口付近では十メートル以上も切り立っていた。
 その緑の柵沿いに坂を降りると、もう駅に繋がる歩道にでるのであった。
 だが、この日は街の市街を通っていこうと思った。いつもまっすぐに帰っていたが、それも曲のないことだと思ったからだった。
 茂樹は街中を詰襟の黒い学生服で歩いて本屋のショーウインドーで立ち止まった。そして店頭に並ぶ書籍に眼を落として色々な雑誌の賑やかな表紙を眺めていた。
 そして手にどれかをとって立ち読みでもしようとしていると、後ろから声をかける者がいた。池沼であった。彼のそばにはこれまで視たこともない少年が一緒にいた。とても顔が白く、その肌はところどころピンク色に日焼している。そして奥まったところに小粒な眼があり、しかも鼻が太く高い。その若者は白い自転車に跨がっていた。池沼は二人をちょっと面白そうに紹介した。彼はどうみても純粋な白人であった。
 ふたりともすでに私服に着替えていたので、あらためて彼らが自分などとは違う人口が六万人はいるというこの現地の海棠市在住の高校生なのだということに思い当たった。
 茂樹のことは一応この日本人離れした顔と体格の同級生には話してあるようだった。川西という生徒は噂に聞く茂樹を目近に見て確認したかったかのように細かく観察していた。その目はじっと見つめてくるようなところがあった。
「彼は、小説家を目指しているんだ」
 おもむろに、茂樹の感情の変化を少しでも見逃さないという感じで見詰め観察しながら池沼が、川西について触れた。
 「小説家を…」
 茂樹の脳裏には学校の教科書にみられる芥川龍之介や夏目漱石の肖像画がすぐに浮かんだ。漫画以上に小説家への道は険しいんじゃないのかとすぐに思ったが、そんなことは口に出さなかった。
 文学者を目指しているというこの真っ白い少年が途方もなく難しい世界を望んでいるようにみえて、全く話になならない。なにを言って良いか二の句もつけない。
 茂樹の膂力のない声に、この川西はすべてを理解したらしく、ちょっと言い訳気味に呟きだした。
 「漫画家と同じで小説家もいろいろなことを知っていなくちゃいけないし、経験しなくちゃいけない」
 そんな説明を聞いても、茂樹は「うん」と頷くしかなかった。漫画はまだ目でその成果が、上手とか下手とかすぐに見える世界である。が、小説となると、次元が違って感じられた。
 だいたい学校で学ぶ小説だって、現代文として逐一解釈をしながら読んでいくのである。しかもなにがどこが素晴らしいのか、それほど茂樹などが理解できているわけではなかった。ちっとも面白いと思えない詩歌や掌編小説や作品の一部が掲載されている場合があり、どういう風に鑑賞するべきか、醍醐味がどこにあるのかも、まだ茂樹には分っていなかった。そういうものを書くという立場になろうとしていて、それを目標にしているというこの白い少年の精神構造が彼には想像もできない。
 それは上せあがりも甚だしいことだった。文学者といわれる人たちは天才でなければなれないはずだった。
 池沼は唇に笑みを浮かべて、二人の口数少ない会話に耳を傾けていた。
 どんな本を読んでいるのか訊ねると、
 「モーパッサンなんかはすきだね。アガサ・クリスティーなんかもいい」
 とも言っていた。
 茂樹は口のなかでその作家たちの名前を反芻していたが前者の作品は『首飾り』と『女の一生』ぐらいしか知らなかった。またクリスティーと聞いて推理小説じゃないか、とちょっと相手にがっかりするものを感じた。
 やがて池沼が「それじゃー」と別れを告げ、川西も自転車の前輪を左右に操作して、歩く池沼と同じ速度で進めるように、白いズボンの膝も両側にくの字型に突き出してバランスをとり、ペダルをゆっくり踏むのだった。そして
 「作家はうんとあそばなくちゃな。俺も遊ぶよ」
 と再び妙なことを後ろにいる茂樹を振り返りながら声を投げかけるのだった。ちらりと同じように茂樹を振り返った池沼の顔には、また笑みが湛えられていた。
 茂樹は二人の高校生の姿に余裕を嗅いで少し羨ましく思った。また、玄武町と違って流石に海棠市ともなると白人の子も生活しているのだと思った。それと作家志望でもあるということで二重に彼は驚かされていた。あとで、彼を同じ学年の男子クラスにみかけ、しかも高校が出版している年間誌『優美』に彼の掌編が掲載されるのを読むことになった。

漫画を描く少年 9 月刊誌に投稿して


 月刊誌に投稿して


 元の木阿弥の独りの状態になった茂樹は、すぐには帰宅の途につかず、校内の図書館にもたまーに通うようになった。ケント紙一枚一枚に大変な時間が捕られてしまうので、よほどその内容である案が素晴らしいものでなければ描き出す意味がないと悟っていて、どうせ時間をかけるのなら原案が飛び切り素晴らしいものでなければならないと結論した。そのためには知識を蓄積しなければならないとも思った。それは幾つかの漫画家入門という本にも紹介されてあるとおりだと、やはり彼も納得し信じていた。
 だが、彼が手に取る本は大体歴史に関する本であった。そして、読むそばから忘れたし、忘れるような気がした。いつか遠い未来に使用するための知識の集積というのは、やはりそれほど熱中できないし、意味があるのかどうか疑問が生まれてくるのであった。  
 図書館のテーブルに座を占めても、開くページの文字は頭に入らず、やがて倦怠感が彼を襲うだけという感じになった。やはり作品を作り上げるために目を皿にして必要になってきた資料を色々と読み漁るのと、漠然と今後のために役に立つことを想定して読むのとでは読書時の燃え方、時間の充足感が全く違っている。やはり最初に案やテーマが必要で、それから資料漁りの図書館という順序だと思った。
 そういう不完全燃焼を続ける不満と欲求を持った彼の視界に、高一コースや高一時代という月刊誌が映った。図書館の入り口近くに金属製の柵でできた本棚が特別に新刊本や週、月刊誌用に設置してあった。
 自分と同じ学年を意味するタイトルがついているだけで、同世代を捉えた鮮度の高い内容が盛り込まれているような気がして、手に取ってみた。
 漫画研究会が立ち消えに近い状態になっていて、ある種の慢性的なストレス未解決の状態でいた。そんな茂樹の目に触れたのは「四コマ漫画募集」という欄であった。彼にはこの『募集』という言葉が黄金の眩しいオーラを放っているように見えた。漫画を描くのは十枚でもへとへとであったが、思いついた案は中学生の時から書き溜めているので、そのなかから選んで四コマ漫画を作って見ようと思い立った。


 思い浮かんだ案をメモするときには、ボールペンやシャープペンを持つ手が震えて、書きとめるのが間に合わないほどでもあった。そのときの興奮は、自分がこれまでにない物を生み出し創造している、何よりも生きているという充実感の味わいであった。たぶんそれは賭け事に病みつきになっている人たちと同じような至福状態ではないかとも思えた。
 茂樹はひとつここで兆戦してみようという気持ちになっていた。                        
 彼が作ってみた四コマ漫画は、これまでにメモしてきた案の中から選んだものではなかった。こういう案というのは、思いついたときには最高のものだと思えるのだが、あとで読み直してみると、全く興奮し感激しながら書いたその炎は大抵消え失せてしまっていた。ほとんどの案はつまらないもの、たいしたものじゃないなぁと落胆しながら読み直すのが常であった。
 四コマ漫画にしたら必ず良いものができるという案は、喜びとともに書き記してきた三冊のメモ帳のどこにも見当たらなかった。例によって、案を興奮して書きとめた自分と、それを読み直す自分とは全く別個の人間でもあった。
 そんなとき、生物の時間に教科書を捲っていて、ふとある言葉にひっかかった。それを骨組みにして作ってみたら面白いかもしれないと思った。再び茂樹は興奮に包まれ、情熱と一つになって一気呵成にひとつ描いてみた。出来上がるとすぐにその四コマ漫画を雑誌社に送った。できたものをいつまでもおいておくと必ず自分の目に陳腐な作品として鮮度も興奮も消えうせて見えてくるからである。できたらすぐに送ってしまう。目の前から追放する。それが一番精神衛生上いいのだと茂樹は思った。


 そして翌月の雑誌を手に取り期待を持ってぱらぱら捲ってみたが、どこにも彼の四コマ漫画は見当たらなかった。諦め悪く、それを二度ほど更に繰り返してみたが、やはり見当たらなかった。次の月の雑誌にもまったく見当たらなかった。


 二ヶ月も経って、もうその投稿した作品のことは諦め、忘れていた頃だった。
 下総一高に通う亀彦という綽名の、一学年上の近所の生徒から突然の訪問をされた。重そうな太い黒縁の眼鏡をかけ、レンズも彼の眼がかなり縮小してしまうほど分厚いものをつけていた。そして小太りなので足も短くみえた。だから亀という綽名が本来の名前についたのかどうか分らないが。中学生のときから目的の大学も決めている勉強熱心な少年だった。
 「おい、おまえの描いた漫画が本に載っているぞ」
 「……俺の描いた漫画が?」
 「おまえじゃないのか? おまえしかいないだろう。ちゃんと茨城県海棠一高、結城茂樹とでてたよ」
 「あっ、それは四コマ漫画のことじゃないのかな」
 「そうだよ。なんだと思ってたんだよ」
 続いて亀彦の笑い声が高鳴ったが、彼の声にはやるじゃないかと言う感激が感じられた。それまで大したことはないと彼を見下していた同じ中学の先輩が、見直したぞという口吻で報告にきたのであった。


 翌日、授業の合間に急いで図書館に向かうと、その高一コースの置いてあるべき場所に視線を投げやった。その月刊誌はごく普通の状態で六種類ほどの雑誌の入る金属製の本立てに、背中を持たせるようにして置き忘れられてでもいるように、普段と同じ場所に見えた。誰もまだ手に取ることもなかったようで、汚い指紋も折り目もなく、新品同様の状態であった。
 亀彦が自分をからかったのかもしれないと茂樹は訝った。だが、彼は震える指を冷たく硬い檻にぶつけるようにして分厚い本を左手で掴むとすぐに目次を見る気持ちの余裕もなく、右手でぱらぱらとページを捲りだした。
 意外とすぐに見つかった。短い栞のように、適当にほかのレポートの間に縦に印刷してあった。自分が描いて送った四コマなので内容は熟知しているが、手書きの台詞の文字が小さくなってしまっていて、これで読者は理解できるのだろうかとその効果を疑った。編集者が理解して掲載してくれたのだから別にそれでもいいのであるが、実際の大きさよりも印刷が縮小してあるので読みずらく、文字の解読が難しいのではと思った。四コマのなかにいる主人公の台詞が読めないと、この漫画も理解できないはずなのである。
 休憩時間が終わるまで、誰にも言えずにずっとその場に佇んだまま何度も起承転結の四コマを読みなおし、絵の具合を矯めつ眇めつ眺めるのだった。


 その日は学校内で女生徒と少しでも視線がぶつかると、この高一コースのことで茂樹を見たのではないのかと勝手に思った。いい気な物で急に彼女たちの視線が自分に照射されてくるような錯覚も覚えるのだった。
 その日の放課後、海棠市内の繁華街の書籍店に足早に入り、少ない小遣いからこの月刊誌を買って大事に抱えて帰途についた。
 帰宅した彼を驚かせたのは、奇妙に顔が強張る母から渡された、二通の手紙であった。濃い紫色と普通の白い封筒であった。送り主を見るとどちらも見知らぬ女性の名前が記してあった。一通は生徒会長を務めているという女の子からで
 「仲間が三人いるけれども、どの子に聞いても理解できないという結果がでました。どういう意味なのでしょうか。できれば教えてください」
 という要求であった。もう一通も良く理解できなかったという女の子からの手紙で、やはり解説を求めていた。そして更に四五日後にもう一通手紙が来るが、それは文通したいという内容であった。


 掲載された作品は『突然変異』というタイトルであった。そこにどのくらい岩本玲子への思いがこめられていたのかは、はっきり意識してはいなかったと思う。
 起承転結の最初の三コマまでは時代がそれぞれ違うが明らかに同じ家系出身とすぐにわかる容貌の若者が、やはり同じ家の家系と思える容姿の娘と一緒に描かれているのだが、デートの申し込みを断られているシーンが続き、つまり起承承と続けたのであった。そして、四コマ目は同時に転結の意味を込めた。これまで祖先をふってきた娘と同じ顔の、しかし服装は現代風の女の子が明らかにその子孫と一目瞭然と分る若者を、愛をこめてうっとりと見つめる姿になっているのである。そして若者はぼんやりと「突然変異かな」と呟いているシーンであった。恋愛の逆転劇であった。
 例によって描き終えた直後には傑作が描けたと有頂天になった作品であったが、あとになればなるほど、もっと工夫はできなかったのだろうかと不安になった四コマ漫画であった。
 このことを池沼には自分からは言えなかった。なんだか自慢しているような雰囲気になってしまうからである。漫画のことをもう何も言わなくなったし視線さえ合わせようとしない中伊には、もちろん違う意味で何も言う必要はなかった。


 翌日になると古典の女教師のもとに見せにいった。やはり誰かには見せたかったが、漫画に一番近い科目は数学でも物理でもなく文学である。だから古典文学の授業を担当しているまだ二十代前半の女の先生に見せにいったのであった。現代文の初老の教師のことは頭になかった。その授業がやはり興味が持てなかったということもある。誰かが指されて朗読し、難しい漢字が指摘され、あとは作家に関してのスキャンダルなどのエピソードなどが得意げに話されるだけであった。そんなことは文庫本の後ろに書き記してあることで、読めば誰でもわかることじゃないかと茂樹は彼の現代国語の授業には常々不満足であった。教科書に掲載されている文学作品のどこが素晴らしいのかその秘密を解くコツを教えてくれるような授業ではなかった。図書館の棚に文学作品鑑賞という書籍も揃っていたが、茂樹の能力不足ということもあり、すぐに退屈を覚えてしまうので、授業中に教師の口から教えてもらいたいという期待があったのだが、それは見事に破られていたのだった。惰性で授業しているような教師だったのである。
 古典の女性の教師はその授業の取り組み方がまるで違っていた。ただ、残念ながら古典の文章が自分の漫画にプラスになるとは全く思えなかったことだった。だが、平安や鎌倉時代の雰囲気への憧れを茂樹に植え付けてくれたのはこの仁平先生だった。もちろん笑顔で親切な生徒との融け方が茂樹には好ましく思われた。
 彼女は高一コースに掲載されていたことをすでに知っていた。
 「ええ、結城君の漫画のことは女の子たちから聞いていたわ」
 茂樹はこの意外な仁平という女教師の言葉に二度驚かされていた。彼女が知っていたということ。また、学校内の女生徒の話題にもなっていたということがやはり意外であった。いつから彼女たちは知っていたのであろうかとも思った。少なくとも茂樹が雑誌の掲載を知る前に彼女たちは知っていたことになる。そして彼は彼女たちの同学年の間では急に有名になった自分への視線や注目を、全く昨日まで、感知することもできなかったということになる。
 自分の感覚もたいしたことはないなとちょっと落胆した。落胆と言えば自分の作品を理解できなかった同学年の子がいるということもそのひとつで、思わずそのことを話した。
 「あたくしにはすぐにわかりました。ロマンチックで良かったと思いました」
 そのコメントで、仁平先生も実際にすでに読んでいたことを知り驚かされた。ということは彼女の近くに存在する女生徒が実際に持ってきて見せたということになる。自分の知らないところで勝手に周囲が動いていることに少し不思議な感覚を持った。
 遅れて、玄武町から常総線で通う与野や久野に、
 「おい、やったじゃないか」
 と肩を叩かれた。
 池沼はと言えば遠くから茂樹を落ち着いた内二重の横長の目を注ぐだけで、まったく触れてはこなかった。ただ、いつものどこか考え観察しているような表情があるだけだった。‎                   


 それから二ヶ月もして、また亀彦から連絡が入った。
 「おまえんとこは凄いな、また、載ってたぜ」
 「どこに」
 「漫画だよ。ちゃんと海棠一高の生徒ってかいてあったよ」
 再び高一コースに誰かが描いた漫画が掲載されたらしかったが、それは茂樹にとってはショックであった。誰の仕業だろうと思った。不思議なことに彼には皆目見当もつかず顔さえも浮かばなかったのだった。
 同じ『漫画研究会』に名前だけ連ねたほかの二人の可能性などもまったく思い浮かべもしなかった。
 図書館でその記事を探すと、漫画の一コマが、つまりカットが掲載されていた。海棠一高池沼と記してあった。いかにも永島慎二風の漫画がひとつ小さくページの隅に載っていた。
 「ううん、カットときたか」
 と彼は唸った。カットだったら四コマ漫画よりも速く描けると茂樹は思った。思わぬところでしてやられたと感じた。
 本来ならばカットなどよりもやはりストーリー性のある漫画、少なくとも四コマ漫画でなければやる意味がないと思っていたが、池沼の作品が載ったことで何枚かのカットを描いて茂樹は投稿してみた。
 すると再び亀彦から
 「また載ってるぜ」
 という連絡が入った。亀彦の情報は迅速であった。自分のカットだとその時は思った。
 「この間と同じ奴の名前がでてるよ」
 それは池沼ということになる。
 「そうか、池沼はあれから更にカットを送り続けているわけか」
 ここで自分のカットではなく彼のそれが選抜されたことにちょっとした敗北感を味わった。
 これだけ続けて海棠一高から同じ月刊誌に載ってしまっては、もう珍しくもなんともなくなってしまった感じがした。最初に載ったときには学校内でも話題にもなったはずだが、このように池沼の漫画カットが続けざまに掲載されてしまうともう掲載されること自体の価値は薄くなってきた気がした。おそらくクラスメートたちも同じように受け止めはじめるだろうと思った。 
 「無価値化されてしまった」 
 そんな言葉を茂樹は何度も頭の中で噛み締めていた。
 池沼と視線があうことが偶然あっても、お互いにそのことには不思議と触れなかったし、言葉を交わすこともなかった。交わさなくても、自分たちの間には会話がもう交わされていたような気持ちさえしていた。彼らの間にはまさに以心伝心という禅宗の言葉がリアルに介在していた。

漫画を描く少年 8 漫画との出会い


 漫画との出会い


 茂樹が最初に漫画というものを手にしたのは小学二年生の時だった。藁半紙を分厚く綴じた漫画本を読んでいたクラスの男の子が、興味深そうに茂樹が肩越しに覗いていると、簡単に貸してくれたのであった。しかもその漫画本は新品であった。自分が好きなのを茂樹が理解しているから貸してくれたということなのかもしれなかったが、親に金があって幾らでも買って貰えるという感じだった。
 もちろんどんな理由があるにしろ、貸してもらえたのは茂樹にとっては幸いだった。その月刊誌のなかには、彼が漫画の虜になるきっかけともなる戦国時代の侍ものが掲載されていた。
 父も母親も切り殺され、森にひっそりと立つ六角堂にやっと逃げ込んだ生き残りの侍少年に、返り血を浴びた傷だらけの情け容赦もなく殺気立つ野侍たち四五人が、じりじりと押し迫ってくるストーリーであった。ページを捲る茂樹には、この絶体絶命の窮地にたたされた少年の恐怖心が、絵の中のこととは思えないほど切実に身に迫って感じられた。その時からこれ以上のものはないと思い始めたのであった。その作品を描いた漫画家が横山光輝であった。


 中伊も池沼も漫画に対しては作者という立場で本格的に考えてくれているが、しかしその前にまず大学受験を優先課題として彼らは念頭においていた。それでもそれから四,五日ほど後になってから、そんな態度で良かったら自分も参加しても良いと池沼も言ってくれた。


 茂樹が高一の全学年のクラスに『お知らせ』をだし、中伊が初代会長を名乗りだしてから一週間後には、同じ全学年の後ろの黒板に会長として中伊の名前が追加され、石森風ドブ鼠も描き添えられていった。
 A組の後部の黒板を見た茂樹は、そんなに重要だろうかという疑問だけであった。会長を設けるなどと考えたこともなかったので、それに執着している中伊が不可思議に感じられるだけだった。
 「おい、結城、こんなこと書かれていいのか」
 同じように黒板をみた玄武統合中学出身の背丈のちょっと高い与野と久野が教室に入ってくると、開口一番茂樹に中伊のことで抗議するのだった。その口吻で中伊をあまり面白く思っていないのを感じ取った。
 「まあ、そんなに俺は気にしてはいないけど」
 「だって、結城、お前が始めたんじゃないか、あんな奴に会長面されることはないだろう」
 茂樹はそれ以上なんて答えていいかわからず笑顔を向けるだけだった。この彼の煮え切らない態度に落胆したのか、二人ともそれ以上は言葉がでないようだった。
 茂樹にとっては結局、この『漫画研究会』設立の動機は、お互いに刺激を与え合って、励ましになり、漫画を描くことになればそれで良かったので、別に頻繁に会合などもする必要もないし、会長と言ってもそれは名ばかりだと見なしていた。あくまでも同じような漫画家志望者がいて励ましになればそれで用足りるのであった。


 それから一ヶ月ほどして、中伊の学ぶC組のバルコニーに二人は呼ばれた。十分間ほどであったが、初めて漫画研究会のミーティングがそこで行われた。
 中伊が色の白い顔の中の目を細くして、今年の五月ごろから一人十枚ぐらいの短編を描いてちゃんとした月刊誌に纏めて出そうじゃないか、と池沼と茂樹に話すのだった。それはちょっと頻繁すぎると茂樹は驚いたが、池沼は一種の余裕を湛えた表情で黙って頷いている。とりあえず十枚ぐらいなのでその期日までに創刊号はできないことはないと思った。ひとつしか年上ではないが、この中伊の発案にはちょっと意表を衝かれ驚かされてもいたし、一枚も二枚も上手なのかもしれないとさえ茂樹は思った。
 「問題は案だな。案さえ良いのが浮かべば、あとは三十枚ほど三日もあればできる」
 そういいながら中伊の顔が異様に真剣なものに成り強張っていくのだった。が、まずどこからこの三十枚という枚数が急にでてくるのか鸚鵡返しに茂樹は聞いて見た。
 「俺は会長だから、三十枚ぐらいは描くんだ。それも一気呵成にな」
  彼は平気でそう決めてしまっていた。他の二人は十枚でも自分は三十枚をかいて、中心的な役割をになって本にするというのである。出すお金は同額らしいので、茂樹にはそれがちょっと不公平なものに感じられたが、それが彼が欲しがった会長という特権であったのかと驚かされた。ちょっと罠にかかったような気がした。池沼のほうはというと、あとで彼は鼻先で笑い、呟いていた。
 「まあ、やらせてみたら」


 三週間経過して約束の締め切り日に茂樹と池沼はぴったり十枚に納めて描いたものを持ってきた。このちょっとしたヴァニサーチは休憩時間を利用してC組の教室の後ろで他の生徒の目も憚らず簡単に行われた。有難いことに他の生徒は遠くから見るものが数人いるだけでそれほどの関心も持たないようだった。次々に部外者たちの手に渡り読み回され、時間をかけて神経質に描いてきたケント紙の漫画が汚されるようになっては台無しである。だから、それで良かった。
 中伊は傍目にも分かるほどはしゃいでいて、茂樹が茶封筒から大事そうに出す作品にすぐに両手で余白の部分を掴んで目を通し始めた。その間、彼の咽喉からは低い唸り声がでていた。そして次に、珍しく顔がほぐれている池沼の作品を手に取り、漫画の細部を見ながら読み始めた。
 茂樹は池沼の作品を読んで、作品のタイプが全く違うとすぐに思ったが、時間が経つにつれ、自分の作品が起承転結に拘り、僅か十枚の作品なのにストーリーをそこに詰め込みすぎ、盛りだくさんになり過ぎたかなと感じ始めていた。描いている時には、かえって限られた紙数を十二分に活かして読み応えのある作品にしてみせようと得意になっていたのであったが。池沼の作品は台詞が殆どなく、駒もそれぞれ絵画作品のように静謐で、恋愛を経験した男性が喫茶店で恋人との写真を眺め、ため息をつきながらコーヒーを一口含むのであるが、そこで初めて「……もう、冷めちまったか」と呟いて終わり、作品に品格と詩的なものさえ感じさせた。
 美大を目指す彼と自分にこんなふうな形で差がでてきてしまっているのだとすこしショックを覚えた。ただ、長編などになったらどんな風に池沼は描くのだろうかという疑問も残った。自分の漫画を描く方法は長編でも短編でも成功し得る最小公倍数みたいな力を持っているとちょっと自負するところが茂樹にはあった。もちろん池沼のような才能はそれはそれなりにこなしてしまうのだろうとも思えたが。
 「うむうむ、結城のは横山さんだ。それから池沼のは永嶋慎二先生の影響がでてるな」
 一つ年下の少年たちは顔を見合わせてちょっと照れた。少なくとも茂樹は、影響を誰から受けているのか、当てられて嬉しい気持ちさえしていた。
 「…そして俺のは、やっぱり石森さんの影響がでてるな」
 と呟くと、一人悦に入ったように大きな渇いた声を立てて中伊は笑った。
  彼が作品をださないので、不審に茂樹も思っていると、
 「まあ、あと二日もあれば描きあがる」
 と言い、
 「今日はまだ持ってきてない。凄い傑作なんだが、二日も徹夜すれば三十枚はかきあがる」
 と笑うばかりであった。
 池沼は大人しくそれを聞いていたが、中伊が二人をおいて立ち去ったあと、
 「たぶん、なにも出来上がってないんだよ」
 とゆっくりと落ち着いた口調で決め付けて茂樹を驚かせた。
 「まさか……」
 中伊の二日あれば三十枚かきあげ得るという自信にも驚かされていたが、池沼の憶測には更に驚いていた。そんなことは考えてもいなかったのだ。


茂樹の十枚の漫画作品を読んだせいだろうか、池沼がコピーということを口にした。初めてきく言葉であった。この漫画をコピーしておいたほうが良いと言うのだった。それは彼のまさに言うとおりであった。それで、彼ら二人は放課後に海棠市の繁華街にある文房具屋に行き、そこにあるたった一つのコピー機で店の奥さんらしい小母さんに操作してもらった。大事な彼の作品であったが、彼女はまったく関心がない態度で黙って一枚づつ硝子盤の上においてはスイッチを押すという作業を繰り返していた。
 「凄い、こんなことが出来るんだぁ」
 目の前で刷れ上がってくるそっくり同じものを手にして、茂樹は文明の利器を直接目撃した気持ちだった。思わずはしゃいでいる茂樹を見て池沼は声も立てずにクックックと笑うばかりであった。 
 「ガロっていう漫画雑誌しってる?」
 池沼はこの時にも茂樹に謎めいた言葉を呟き、不思議な気持ちにさせた。
 「アマチュアの漫画が投稿できる雑誌なんだ」
 「漫画が投稿できる……」
 「誰でも描いて送れて、そしてガロの編集部に気に入られたら載せてもらえるんだ」
 「ガロ、いや全然分らない…」
 池沼の顔が静かに緩むのをよそに、茂樹は自分がいかに何も知らないかという事実を知った。漫画についてはいろいろ知っていた積もりであったが、自分がほぼ井の中の蛙のような存在であることをこの池沼の前では感じるのだった。
 思えば、それほど茂樹は漫画を読んではいなかった。好みの漫画家たちが決まっていて、横山、手塚治虫のほかは、石森章太郎でさえも拒否反応を自分のなかに感じるほどであり、ましてや少年サンデーやマガジン以外のものの存在には別に目も通してはいなかった。
 池沼はさらにガラス張りの綺麗な海棠市内の書籍店に彼を導き、
 「今月号がもう出ているはずだがなあ」
 と言いながらすうっと店頭から入っていくと、A4版の大きさもある大きな、しかし六十ページもないような薄い漫画雑誌を手にとって見せた。
 「これさ」
 「……これがその投稿のできる…」
 雑誌に掲載されている漫画家たちの画風は独特なものだった。見たこともほとんどないような作風だった。拙いとしか評価できない作品もあったし、また台詞の部分がほとんどなく絵だけで語るという作品もあった。それは池沼の作風でもあるとすぐに理解した。彼はこの雑誌から影響を受けているのだと思い溜息をついた。この雑誌の世界は売れっ子ではなくても、知られてはいなくてもまたアマチュア風の作品でも自分の信念を貫いて描いているような芸術家の気質が感じられた。
 規定の枚数は生憎十枚ではなかったが、一冊購入してその日は帰った。池沼にもぎこちなく感謝した。人付き合いのない彼にはこんな時にスムーズに感謝の言葉もでてこないのであった。


 その後、池沼の断定した通り、二日経っても、一週間過ぎても中伊が二人の前に提示する作品は何もなかった。その後もいっこうに二人の前に漫画作品を持ってくることはなかった。また、そのことが気まずいせいなのか、会員が三人集まってからわずか二ヶ月もしないうちに、この研究会は開店休業という状態になってしまった。いや、消滅したといったほうが正確なのかもしれなかった。
 つまるところ案を捻出して漫画にしあげるのも一人の孤独な作業なのであるから、一応『漫画研究会』を作って見て、関心のある同級生が二人発見できたということだけでも茂樹にとっては気持ちの上で一つの成果ではあった。‎


 漫画を描くためには大変な精神的、肉体的な労力が必要であった。通学しながらの作画であったので十枚描くのにも一月はかかった。プロの漫画家は睡眠と運動を犠牲にして、毎週の漫画雑誌に作品を掲載させている。茂樹には自分の漫画を描くスピードが酷くのろく、また、自分が一生をかけている世界なのに同志を必要としていることも自分が弱いせいだと思った。もっと意志が強ければ孤高を保って邁進できるはずではないかと思い、自分に不満足であった。
 結果的には口だけで調子の言いことだけをほざいただけの中伊はもう何も漫画については触れたくなさそうであったし、廊下ですれ違う時には、茂樹から目を逸らすほどであった。
 池沼も美大受験のほうが最優先であるので、それ以上は彼も漫画を描くことは話題にしなかった。池沼とも殆ど会話をすることもなくなった。茂樹も無口なほうであったが、彼といったらいつも沈黙していて目だけで観察しているようなところがあった。
 そんな彼が珍しく話しかけてきた。
 「俺、就業後にブカツに行っているんだけど、来て見ないか」
 ボソッと言った池沼の言葉が、すぐには理解できない。
 「ブカツ…?」
 「美術部さ」
 「ああ、美術のクラブ活動ということか」
 そこまで確認しても、まだ具体的なイメージが茂樹には湧いては来なかった。
 「明日、その部活があるんだけど、君の漫画を持ってこないか。伊藤先生に見てもらわないか」
 池沼が彼を美術のクラブ活動に誘おうとしているのかと最初は思ったが、あの気難しい美術の授業の教師に見せるという話であった。ピカソとかクレーやココシュカに感激しているこの教師の授業は、あの週に一度のそれで十分だった。ましてや彫刻の胸像をテーブルに置いてそれを毎回スケッチさせられたのでは自分のプラスにはならないと茂樹は判定していた。そんな悠長なことを自分はやっている暇はない。
 だが、ちょっと自分をあの教師に見直させることにはなるのではないかと興味を持った。
 さっそく翌日の午後に二人で美術室に行きひょろながの老教師に池沼の紹介もあって例の作品を見せると、絵画を製作し創造する立場の人間だけあってじっくり多少の驚きを交えながら見てくれた。
 「君の絵は悪くないが、この文字はもうちょっとどうにかならないのかね」
 茂樹は思わず笑顔を浮かべて、そこだけは印刷所が活字を入れてくれることを得意になって説明した。
 「ほう…」
 と感心している教師をあとにしながら茂樹の気持ちは明るく高揚していた。人に少しでも認められたという喜びがそこにあったし、これからは違う目でこの気難しい教師が自分を見てくれるのではないかと思うと嬉しかった。


 その後漫画の月刊誌『ガロ』をもう一部購入して眺め読みしていたが、とても自分が真似できるような、また自分の肌にあうような潮流ではないと感じ始めた。投稿欄があっても、次元が、根本的な漫画に対する考え方、フィーリングが違うことが雑誌全体に雰囲気としてあった。そしてとても自作品が挑戦できるような世界には思えなかった。
 二三冊立ち読みもし購入して読んで感じたことは、この雑誌の世界には最初から自分は適さないし、ここの読者とは異なると言う事だった。自分はここの漫画雑誌を読み、また投稿するようなタイプの漫画家志望ではない。耽読すればするほど疎外感を覚えるのだった。自分の呼吸する世界ではないと感じるのだった。自分の活躍する舞台はもっと違う雰囲気の漫画の世界だと思った。この『ガロ』の世界はむしろ詩であり、自分の世界は散文だと思った。

漫画を描く少年 7 漫画研究会結成

 
 漫画研究会結成


 決まった列車の時間というものがあって、それにあわせて茂樹も他の市町村から通う生徒もそれぞれ教室を出るのであった。ある時間が訪れるとみんなはたちまち校舎からでて、海棠駅に向かって姿を消して行った。
茂樹はそんなある放課後、帰る列車をひとつ遅らせた。そして、これまで何度か考えていたことを思いを決して、実行に踏み切った。
 『漫画研究会結成。同志求む。関心のある人は一年A組結城茂樹まで』
 DからG組まで、四つの教室の後ろの黒板に白墨で次々に書いていった。最初の教室の後ろの黒板に書くときにはどきどきしたが、次の教室からは比較的楽に、指先のチョークは流れて行った。
 なぜ全クラスに一挙に書かなかったかというと、これ以上に拡げることが茂樹にはできなかったのであった。女子の学ぶ最初の三つのクラスには羞恥心が邪魔して書き記せなかった。漫画なんかを描くということは愚鈍で低脳な少年に自分が見えてしまうのが当然という気がしたからだった。玲子への可能性のない希望を吹っ切るために、このアクションを起こしたのであった。が、やはり一貫しておこなう事ができず、男子クラスのなかだけで十二分に反応を期待できるだろうと自分に言い訳していた。これだけで関心のあるメンバーを集めるのに十分ではないかと予想していたのであった。また、男子だけのクラスに遊びに行く女生徒はまずいないと思えたから。
 こういうやり方でアピールし、目に触れるようにしなければならない。そして少人数編成の『漫画研究会』というものをとにかく結成するのだ。男子だけのクラスで十二分に集まるだろうと彼は思った。ABCクラスまで騒がせることはないのだと思った。女生徒、特に玲子が結城のことを漫画と関連させて知る必要もなかった。もともとこっそりと努力して行きたかったのである。そしていきなりデビューして中退するのが目標であった。
もちろん、女生徒の居るクラスにもこの茂樹の書いた募集内容が広まってしまう可能性はどうしようもなかった。それはしかしそれでしょうがないとは思ってのことだった。自分への励ましのためにも同志を募る事は重要だと思ったのだ。


 だが二日経っても一人も茂樹に話しかけてくる生徒はいなかった。それで三日目になると、勇を鼓して残った男女共学のクラスにも白墨でカチカチッと音を立てて同じ募集広告を書いていった。
 すると、翌日の朝一番で、中伊という背のちいさく目の細い少年がニタニタしながら、ドアから出て行く他の生徒と体をぶつけても気にならないほどの旺盛な好奇心に溢れた視線を室内にむけて茂樹のクラスに入ってきた。
 「結城という奴は、どこにいる」
 誰かれ構わずクラスメートを捕まえて彼は訊ねていた。   
その声は後部座席に座っていた茂樹にも聞こえたので、彼は立ち上がってこの中伊という少年と対面することになった。
 「俺が結城です…」
 「うん、うん、…あんた漫画をかくのか」
 「ええ、まあ」
 左肩を彼に軽く叩かれながら短いやりとりが続いた。
 「あとで、Cクラスにこないか。休み時間に話をしよう」
 それだけ言い残して、彼は再び茂樹のAクラスをでていった。来たときと同じでどこかワクワクしているところがあった。関心はあるようだった。漫画を研究するということ、つまり描くことを意味するこの活動を馬鹿にしているわけでも、文句を言いにきたわけでもないのを感じた。やっと漫画家を目指す本格的な同志が眼前にあらわれたと思うと、それだけで茂樹の胸は急に熱くなってきた。


 休憩の時間に彼を訪ねると、
 「『漫画研究会』の会員になってもいいんだが、実は俺のほうが君よりな、ひとつ上なんだな。病気をしちまって一年留年してるんでな…」
 茂樹にはこの話の展開が良く分からず、肌のつやつやしていて黒目勝ちの小粒な目をした中伊の次の言葉を待った。彼は一匹の鼠の漫画をにやにやしながら茂樹の目の前に出した。おそらく今の授業中にかいたものと思われた。皺が多く毛も細かく描かれていて、不気味で恐ろしい表情が宿っていて、その作風は石森章太郎そっくりであった。まさに彼の作品をなぞった以外のなにものでもなかった。茂樹が目を丸くしてみているのに満足して中伊はさらに語を継いだ。
 「俺は、石森さんと東京であって話も親しくしたことがあってね、忙しい時には手伝いに来てくれないかとも言われていて、誘われているんだよ」
 「はあ……それは、すっ、すっごいですね」
 作風が似ているということは独自性がなくて問題ではあるが、茂樹が『漫画研究会』の同志を募集とか、この田舎の高校でやっているのに、この中伊という少年はすでに石森章太郎に東京で会っているということであった。それがやはり自分からあまりにもかけ離れ優越していて、茂樹としてはただ唖然とするだけだった。こちらはあてもないずぶの素人も甚だしいのに、中伊はすでに有名な漫画家の家の敷居を踏み入っている。中伊がどんなに目を細くして優越感も露に笑い続けていても、それは当然の態度に見えた。
 「君はどんな漫画家が好きなのかな」
  どんな人に心酔しているのか、同じ仲間と思えるものに告白するのはやはり茂樹としても嬉しかった。読むだけの人たちとは違って実際に描くほうの立場にたっている者から、どの漫画家がすきであるかどうかという質問は、もう仲間内の会話であり、お互いの心を開くようなものと同じであった。
 「横山光輝とか、手塚治虫、それから白戸三平なんかも好きですね」
 未知のしかし今最も自分を理解してくれそうな同志を前にして、巨匠たちの名前を並べ揚げる自分の頬が、喜びに火照り興奮しているのがわかった。
 「うん、うん。手塚治虫と横山光輝ね」
 そう繰り返す中伊の唇の薄い口は、同時に茂樹の実力をテストし、もち味と傾向を探ろうとでもしているようだった。
  「『漫画研究会』に入会してもいいが……俺が会長ということではいけないかな」
 そういいながら茂樹をぴたりと見据えるのだった。だが、そんなことは彼にはどうでも良かったし考えてもいないことだった。
 「いや、俺としてはそれは別に気にもしてないことで、会員ができただけで、もう嬉しいだけです」
 中伊はそんなに簡単に承諾されるとは思ってもいなかったのか息を深くついで茂樹の肩に手を置いてにんまりと笑顔を綻ばせた。


 最初に後ろの黒板に募集事項を書いた頃から、他のある男子生徒からも注視されている気が茂樹にはしていた。その生徒は時折近くまで来るとじっと彼を見つめているようなところがあった。                      ‎
 その生徒は池沼といい、やがて茂樹を見ながら近づいて言葉をかけてきた。
 「どう、『研究会』のほうは。大分集まった?」
 色が浅黒く鼻も唇もこれと言った特徴のない少年だった。目は大きく白い部分も目立つが、黒目勝ちのその目付きだけはどこかものをじっくり観察するような落ちついたところがあった。
 この池沼が話しかけてくる前から、漫画に興味を持つ種族に違いないと茂樹も感じていた。
 「いや、たった一人だけ、あとは全然…」
 「…そんなもんかな、やっぱり」
 池沼にはどこか達観したようなところがあった。彼のその顔を見つめながら一番聞きたい質問を茂樹もしてみた。
 「漫画は描いたことある?」
 「ある。あるけど」そこでにこっと笑うと「将来性があまりないから、しっかりしてないから、僕はやめたんだ」
 「……もう描いてないの」
 「趣味でたまには描いてるけど、そんなに本気でやってるわけじゃないな。…僕は美大を目指してるんだ」
 「美大を…」
 「ああ、東京の美術大をね。それからでもまだ漫画のほうは遅くないしね」
 美術関係に失敗したら、漫画家になることをもう一度考え直してもいい、という風に茂樹には聞こえた。中伊と同じくこの池沼も結構な自信家で、また自分の才能を十分自認しているらしいのを感じた。茂樹も自分の漫画の才能はある程度確かなものがあると信じているが、彼らにはそれ以上の余裕と自信がたゆたっているように思われた。
 始業時間が迫り、彼はAクラスをでていったが、やはり漫画が美術のかなり下のランクに見做されていることが感じられた。茂樹自身も実はそのように思っているのでそのままぐうの音もでない。池沼が隣のBクラスに廊下を急ぐのを見送るばかりだった。
 漫画は芸術的には美術よりも低いかもしれない。でも、幼少期に一番最初に手にとるのは絵本はもちろんだが、自発的に手にとって読むのは漫画ではないだろうか。だから漫画の影響力というのは絶大であり重要だと茂樹は見なすのであった。なによりも自分が漫画に捕り衝かれていることがその重要な証拠と言える。

漫画を描く少年 6 眩し過ぎる少女

眩し過ぎる少女


 体育の時間になると、男女は別れて、高台に並ぶ校舎群の南に五メートルは低く下がって広がるグラウンドで授業を受けることになっていた。初の体育の授業で、そのときにはなにも考えずに新品の濃紺のタイツをぴったり身に着けて、男子が集合しているグラウンドの真ん中目掛けて、茂樹も遅れまいと石組みの階段を駆け下り飛び出して行った。
 グラウンドは北に校舎群を臨み、そして南と西の低い土地には、居並ぶ一戸建ての、大抵は二階建ての住宅群が広がっていた。そして東には、細い通学用の坂道が南北に森に沿って続いていた。   
 広いグランドの東側に、登校用の坂道と新緑の葉で萌黄色に燃える森を背景にして、濃く赤いタイツをぴったりと身に付けて女生徒たちが次々に開花する花のように増え、集まりだしていた。
 やはり学生服とは違って体を締め付けるような運動着は新品なだけにどこか動きずらいようで、女の子たちはそれぞれ体を屈め背中や脚を伸ばしてみたり、上着の生地を下方に小さな手で掴んで伸ばしたりしていてどこかぎこちなく集まり出していた。それ以上のことは、見たことのない服装をして集まりだした女生徒を見ても、なにも茂樹は感じなかった。
 やがてB組の女の子たちも混じってきて、その中に玲子の姿をみいだした。彼の視線は釘付けにされて動けなくなった。
 他の女子生徒はただ着おろしなので、ちょっと不慣れな感じで身に付けているだけというそれ以外のなにものでもないのに、玲子のタイツ姿から受ける印象は全く違うのだった。だいたいこのタイツは玲子のとても女性的な体を強調し誇示するためにつくられたのではないかと思わせるほど彼女に似合っていた。そして彼女の十六歳とは思えない女らしさが後光のように放射されていた。だいたい彼女のいる場所だけは明るく壊れやすく澄んだ緊張感が感じられた。他の女性のほうをみても茂樹のほうでは気持ちも弛緩していて早く帰宅して漫画製作に関係あることに取り掛かりたいぐらいのことしか考えてもいないのに、玲子があらわれると自分の本来の目的を忘れそうになる。それがたとえ一時的にであっても、漫画を茂樹が忘れるとか二の次にして良いとかそんな気持ちになったことはこれまでにもなかったことなのだ。
 濃く赤く伸縮するタイツは彼女の女性の性的特徴をこれ以上はないほど際立たせ、腰からスニーカーに消える縫い込みの二本の白い線は彼女の曲線を強調するためにだけあるようだった。だいたいほかの女生徒が余りにも差をつけられて可哀想にさえ見えるのだった。顔だけでなく肢体にも彼女は恵まれていた。動作に従い更に濃い影が胸元や下腹部にあらわれ官能的な魅力を彼女の意思に無関係に惜しみなく周囲に玲子は振りまいていた。
 茂樹の近くにいる他の男子生徒たちも濃く赤い薔薇の花のように固まっている同じ方向に目を彷徨わせている状態であった。彼ら複数の男子生徒が好奇心も旺盛に視線を送っているのに気がつくと、再び茂樹は、自分には無縁であるべき存在ということを思って目を逸らした。自分には関係ないと考え気持ちを持ち直すのであった。ただそんな時の玲子の表情は、見られていることをしっているからなのか、いつも拒否的で冷たいとさえ思えるものだった。それが茂樹には少し救いにも感じられるのだった。どの男子にもああいう拒否をしてもらいたいと願うのだった。
 やがて痩せぎすで両頬に深い皺が顎まで刻まれている体育の教師が来ると、男子生徒は徒手体操をさせられた。数分間退屈そうに体を折ったり捻ったりしていた。するといきなり男子生徒たちの目の前に、こくのある暗赤色を身に纏った女の子たちが次々に走りでたのであった。彼女たちはトラックを小鹿たちのように軽やかに走らされていたのだった。
 見ないようにしている茂樹には大変迷惑なことであった。
 まだ成長の途上にあるはずなのに、玲子だけはすでに素晴らしい女性的な特徴に恵まれているのを見せつけられなければならなかった。他の女の子たちがただ成長し、伸びただけというのに引き換え、玲子の姿態は形良いだけでなく魅力的であり、どうしても目が離せない。走り方も、気のせいか、女性的な肉体的美点が彼女自身にとっては邪魔で走りづらいかのような走り方であった。あんな走り方をさせてしまったら、今の素晴らしいプロポーションを崩し、台無しにしてしまうのではと危ぶまれるほど、もう女性としては成熟に限りなく近いものに見えた。
 授業が終わりに近づき、落ち着いてきて、女生徒群に目をやると玲子ばかりではなく、おとなっぽい体つき肉付きの女の子は幾らでもいることに気がついた。ただ、玲子が信じられないような魅力に溢れていただけであった。茂樹には「蠱惑的」とか「凄艶な」という谷崎潤一郎が良く使う言葉が自然と頭に浮かんでくるのを妨げることもできなかった。自分が高校生だから彼女を見てしまってこのように感じてしまうのだろうと思い、大人たちが見たらそのようには映じないのかも知れないと思ったが、自分自身そのようには思わなかった。あんなに玲子の魅力を官能的に露出してしまうような体育着は着せてはいけないとさえ思った。


 通学時に電信柱や木造の塀などに貼られた映画の広告が、急に彼の瞼の裏に染み出てきた。たいていは成人用の猥褻映画の広告で、中年のいやらしい男がにやけた顔で上半身裸の女性の乳房を後ろから鷲摑みにしているシーンなどであった。おっさんたちは大体不潔な体臭を漂わせるようなタイプで、頭頂部までおでこは禿げ上がり、太鼓っぱらを抱えていて破廉恥に目を細めていた。しかもだらしないステテコ姿か襤褸のような浴衣姿であった。
 茂樹は彼女がそういう汚らわしい中年のおっさんたちの注目の的、餌食になってしまうのではないかと不安な気持ちに囚われるのであった。
 そしてあらためて玲子をみつめているのは自分だけではないだろうと、クラスメートをみまわした。そして自分の勘に間違いないことを確認しなければならないのであった。彼女の、時に凄艶な魅力を湛える容貌と、蠱惑的な姿態はもう同じ地域を故郷にする女生徒とは思えなかった。この田舎に間違って生れ落ちたか、少しはヨーロッパ人の遺伝子を体のなかにもっているのではないかと想像したほどであった。まだ少女にしか過ぎないのに、もう男どもを膝まづかせ悩殺し得るような魅力を容姿から醸し出しているのだった。             
 到底自分に縁のある女の子ではなかった。また、縁があったとしてもどうして良いのか彼にはまったくわからなかった。なにもその先を想像できなかった。玲子の女の子としての、理想以上にどこか挑発的な姿態と容貌はそういう意味では単なる自分の目的を破壊する雑念にしか過ぎないもの、掻き消さなければならない妖艶な夢のようなものであった。