蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 25 恒例マラソン

恒例マラソン


 海棠一高では秋になるとマラソンが行われた。高校一年生の時には、そのまま自動的になんの余念もなく、そういうことになっているからやむなく従っていた。それは他の生徒も同じであった。
 その時期が近づいてくると、体育の時間は殆んどグラウンドを走り回ることばかりさせられていた。
 それについても茂樹はまだなんの思いも持ち合わせてはいなかった。
 「毎日走らせやがって。俺たち馬っ鹿みたいじゃないか」
 好川が我慢できないように顎を突き出して愚痴を言った。だが、まだこのグラウンドを走る距離と時間は本番のそれと比べたらまったく比較になるものではなかった。
 「どんな意義があるのか、一度正さなければならないよな」
 体を捻らせウーミングアップをしながら、同じく背の高い眞鍋に高橋が問いかけた。好川の言葉を受けた形になった。
 眞鍋は
 「ああ、でも学校の授業だから…」
 と呟いただけであった。
 「伝統とか言いたいんだろう。俺はでも形骸化した儀式と言いたいね」
 彼らのやり取りを聞いて、数人しか入部してはいないようであったが、二人ともその弁論部に籍を置いていることを茂樹は思い出していた。
 体育教師は彼らから離れた場所にいたし、このヤーン体操らしきものをやりながら話をしていても、別に注意することもなかった。
 「内申書だよ。内申書。それだけのためにやりゃ良いんだよ」
 好川が結論でも言うように、左より思想の二人に言葉を投げた。
 「ああ、それがあったな……体制に従うしかねえか」
 高橋も響く大きな声で頷くのだった。
 この内申書のことは中学生の時にも近所の教師の息子の同級生から聞いたことがあったが、好川も同じ教師の子であるのを茂樹は思い出していた。


 高一のマラソンの経験は酷かった。茂樹はずっとこの同じ運動の繰り返しをしている間、自問自答を繰り返さなければならなかった。二十キロメートルが与えられた距離であった。
 肘を前後に振るい、膝を上げ下ろしするのであるが、その動きをいつ終わるともしれず繰り返さなければならないのであった。一緒に走る好川と最初は面白がって勢いをつけて速度を出していたが、そのうちに辛くなってきて、言葉も交わせなくなった。孤独な疾走が続くばかりであった。あとは、疑問と不服の鞭が自分をゴールにつくまで間断なく打っていた。
 ―なぜ自分がこういう意味のない同じ繰り返しだけの、拷問に近いことをさせられているのであろうか。
 ―こんな馬鹿なことをなぜ自分はしている。
 ―このマラソンはどれくらい生徒が従順に、学校が求めることを果たせるか、それだけを測るために執行しているのではないのか。その意味も検討せずに、学校の伝統として残っているから行うというのは土台間違っていはしないか。
 ―来年は、こんな催しに俺は参加しない。大学のための内申書は俺には関係ない。進学を更に続ける積もりはないんだから。


 そして早くも高二になると再びこのマラソンの時期が近づいてきた。
 同じ様に体育の時間にただ走らされる。恒例のマラソンに備えて体のコンディションが作られていく。
 茂樹の頭の中では、まだ去年の嫌な、意味もない思い出が沸々と胸の中で煮立っている。距離にしても実際のマラソンの半分であったし、時間にしても二時間も走らないのである。だが、それ自体が自分にとっての無意味で辛い学校。そして嫌々ながら通学し妥協している自分。この活路のない遣る瀬無さが、このマラソンにおいて最もエスカレートした形で露骨に突きだされていた。
 だが、茂樹はこの年も逃げる勇気はなく参加していた。とても辛かったが参加して走った。へとへとになって、二本の棒の間に撓む白布の横断幕のゴールに達した時の救いは、これで来年まで、再び一年間こんな馬鹿なことをしなくて済むという実感であった。
 そしてこの二回目のマラソンには茂樹に本当にご褒美がついていた。ゴールに他の生徒と一緒に入った茂樹がみたものは、巨木の木陰でひとつの花束のように咲き誇る、女生徒たちの姿であった。真ん中に仁平先生がベージュ色のワンピース・スーツを着て、その周りを三人の女子たちが、濃く赤いタイツを身に付けてはしゃいでいる姿を彼は見たのだった。もちろん玲子がいて零れるような笑顔を教師に向けていた。女子たちは、男子生徒がそのスタート地点にぞろぞろとやって来るずっと前に、三十分は早く走り出していたし、距離は半分のはずだった。
 彼女たちの体には滲んだ汗のせいで赤黒い濃淡が微妙に影をつくっていた。それは陽光の加減でさらにこくのある美しさに、薔薇の花弁を際立たせる翳のような効果をだしていた。
 この時の玲子を見たことで、このマラソンは十二分に癒された。


 だが、高三になったときの茂樹の気持ちは大分違ってきていた。女子の一緒に学ぶ3Cクラスにいたが、その嫌悪すべき期日が近づくと、今度は絶対に参加しないと誓っていた。もうあの意味のない屈辱は懲り懲りで、我慢ならなかった。そして今度は実行した。マラソンの日に登校しなかったのである。
 翌日茂樹は学校にでていった。なにも自分は違法なことはやっていない。ただ、あの余りにも酷い屈辱に反対して応じなかっただけだという気持ちであった。
 校舎に向かって歩を進めていても、ほとんどの生徒は茂樹のことも知らないし、ましてや前日に彼がマラソンに参加しなかったことにも関知しなかった。彼が昨日不在であったことを責めるような視線も感じないで済んだ。だが、自分のCクラスに入室してからは周囲の雰囲気が違うと思った。
 女子あるいは男子生徒と目が合うたびに、昨日の厳しいマラソンにはでてこなかったのに、よくのうのうと登校してきたなと非難されているような気がした。
  自分の席につくときまで誰とも口をきけなかった。このまま授業が普通に行われて一日が経過していき、あたかも何でもなかったかのようにマラソンのことが、自分が走っていなかったのを目撃した者たちの記憶が塵埃に埋まり、忘却の底に消滅してくれれば良いと内心必死に願っていた。
 その朝、高橋や眞鍋とも言葉はまったく交わしていなかった。ただ、高橋が最初の授業前に寄って来て、角ばった大きな目と頬骨が突き出た痩せぎすの体を近づけ、うん、うんとくぐもった咽喉声を響かせていたことが普段と違うと思った。最初の始業時間の鐘がなると、そのまま何も言わずに一番後ろの自分の席に戻ったことだけがわかった。
 女の子たちは茂樹と目を合わせないようにしているようにさえ見えた。あたかも魔物と目を合わせたくないかのようでもあった。男子生徒のほうにはあまり茂樹の個人的な問題に関心があるようには見えなかった。
 高橋と彼とは、ほんの僅かなものではあっても言葉を交わす、友達っぽい関係にあった。好川とはよく話もするが友達という感じはなかった。大林はわが道を行くという態度で他の生徒に関心はない様子だった。茂樹が漫画の世界で活躍する夢をみているように、彼もなにか違う世界をターゲットにおいているようなところがあった。もちろん、羊のように大人しく勉強に勤しむほかの生徒たちも大学という目標があって、結局、それぞれ達成すべき夢を追っていたといえる。


 ドアから担任教師の姿があらわれた。するとその時、後ろから喉仏を震わせる高橋の声が教室内に響き渡った。
 「先生、授業を始める前に、昨日のことについて僕は話し合いをするべきだと思います。昨日の卑怯な欠席者について僕はここに時間を割くべきだと申請します」
 教師が入ってきたときにはまだざわざわしていた教室の中が一度に静かになった。
 高橋の堂々たる大きな声と口吻は、ちょうど国会の議場で、不正を働く議員をみんなの前で訴え弾劾する潔癖な諮問委員のものであった。
 彼の良く徹る叫び声で、クラスの生徒は一挙に昨日のマラソンを思い出したかのように息を呑んだ。次に何が起こるのかを待つ、緊張した空気が朝の教室に張り詰めた。
 茂樹が驚いたことに、教師はなにも言わずに、表情の変化もなにもなく黙っている。それがどのくらい続いたか分らない。教壇の下の窓際の机に向かい椅子に座るタイミングも逃し佇んでいる。
 次に、どんな表情の変化がこの担任の教師にあらわれるのか、茂樹にはまったくわからない。大きな頭の割には痩せぎすで小柄な体の彼が、眼鏡を鼻の先のほうにひっかけて茂樹をじっと見つめている。ただ、何も言わない。その沈黙がひょろりと背の高い骨ばった頬と喉仏の高橋に同感しているようにも感じられた。
 まさか、ここでクラスメート全員が自分に謝罪を求めているとか、そんな想像はまったく茂樹には閃きもしなかった。
 この緊迫した状況で、生徒たちが見て見ぬふりをしていて、実は内心の目で茂樹を注視しているのは明らかであった。こういう事態がこのあとの瞬間にどう変化するのか、猟奇的な関心もあったかもしれない。しかし、早く終わってくれれば良いと期待しているような生徒たちの雰囲気も、茂樹は突き上げられている当人なのに、感じていた。
 高橋の近くに座っているはずの眞鍋が、低い声で
 「……や、やめなよ。もう、いいじゃないか」
 と諌めているのが聞こえる。
 そう諌められていっそう面白くなく、好個の具体的な的を見出しすでに狙撃した、正義感に溢れた高橋としては、やめようという気持などは微塵も持ち合わせてはいないようだった。
 「でも、こういう問題を解決しないで見逃してしまうのは最も政治的に良くないことじゃないのか。われわれはだから力がない。みんな政治だろ?」
 「そりゃ、そうだけれど……」
 眞鍋が弱々しい声で頷いた言葉が、ある意味ではみんなの気持ちを代表していたかもしれない。そのあとにも誰も彼らの言葉を受け継いで話す者はなかった。
 茂樹は何も言わず、ただ自分の目の前のテーブルに目を落としているだけであった。この授業が終わったら下校したいと思った。そして数日間は登校したくないと思った。
 教師もなにも言わず、咳をしたあと、
 「じゃ、今日は…」
 と教科書のページを言うと、普通に何事もなかったかのように授業を開始した。他の生徒も忙しくそのページを開いていて、その書籍の紙を捲る音が救いのように茂樹の聴覚を洗った。


 茂樹は次のように考えた。
 彼らは進学という餌を目の前にぶら提げられて、一心に勉強に勤しむ子羊たちである。マラソンというあの精神性のない筋肉運動の無意味な繰り返しを毎年自分たちは学校から強制されている。ただし自分のような悩みを抱えた生徒と違って、楽とは言わなくとも彼らには比較的スムーズにこのマラソンを受け入れられる内申書という理由があった。だから自分のことが到底分るはずもないし、彼らは走らなかった自分に関心は持たないだろうと茂樹は半ば考えていた。ましてや狡猾とか卑怯とか、そんな憎悪の対象として走らなかった自分を見るようなことはないはずだと思っていたのであった。だが、それはそれ、これはこれというものだということを自分は思い知らされた。辛く面白くないマラソンに参加しなかったのは、自分だけずるいことをしていると見做している生徒もいるのがわかった。その中で、このまま見過ごしはしないぞという態度が高橋であった。
 大学に行くための瑕瑾のない評価の為に、あの何も精神的活動ができない、拷問に等しいマラソンに参加することは自分にはできなかった。まさに自分以外の生徒はこの理由からこの長距離を完走出来たのに違いなかった。
 授業が終了し、起訴の重さを負う茂樹は、その彼の様子をみているかに思えるクラスメートたちの視線も払拭できないでいた。彼のこの個人的な追い詰められた状況に関心も何も持たない者もいるだろう。だが、やはり耐えられるものではなかった。
 眞鍋が寄ってきて、なにやら慰めっぽい言葉をかけてきた。しかも、その傍には授業開始時に茂樹を弾劾の被告席に追いやった高橋も一緒に来ていた。
 茂樹には高橋になにかをいう力もなく、そのままどうでもいい頷きを二人に繰り返し、鞄を持つと後ろも振り返らずに教室をでて、廊下を歩き、校舎をあとにして、坂道を降りて行った。やはり今日みたいな日は登校するべきではなかったんだと思った。でも、それではいつ何日ぐらい後に、登校するべきだったのかは自分にもわからなかった。


 進学系の三年生が大多数を占める学校内の雰囲気には薄氷のような緊張が支配していた。冬季ということだけではなく、受験も間近いということもあり、その寒さが更に彼らをちぢ籠もらせ閉鎖させるような姿勢に変化させていた。
 その渦中でますます茂樹は孤立を感じていた。この高校通学の最後の日々は、あたかも死刑囚が処刑のその日まで、桎梏状態のまま無意味に時を数えるような空虚に生かされているような期間であった。
 社会にでたら、企業体の一員に組み込まれてしまったら、もう自分の夢などは見ることも許されない厳しい現実があると茂樹は想像していた。もう漫画などとはますます縁がなくなっていくものと思えるのだった。
 高校生であるがために、落第への恐怖と、否応なく押し出されて行く社会というものに、不安に満ちた妙な日々を過ごしていた。
 高三の夏休みにも『手塚治虫賞』の募集記事を見た。だが、自分の画風で、そして自信のもてない案を苦労して漫画化しても受賞できるとは、もう思はなかった。再び技術も能力も備わないのにこういう宝籤のような賞にトライするよりは、現状を雌伏期間と見なし、いつか躍り出るための準備をこの成長期にしておくべきことが重要に思われたのであった。
 正直言って、あれだけの時間と労力を注ぎ込んで受賞はもちろん佳作にもならなければ、梨の礫に再び重要な時間を喪失してしまうだけのことになる。高二の失敗後からは、滋養分を吸収して備えることに、これまでの期間を当てているつもりであった。だが、どこまで補充されたのか、どこにもそんな簡便な尺度もメーターもない。高二までのあの挫折を知らなかった時のパワーはもうなかった。何か決定的なものが漫画家志望としてもかけているようにも思えるのだった。
 卒業が近づくに連れて、一年近くもの間漫画製作から遠ざかっていたが、またやってみるかと言う思いも膨らんだ。が、すぐにあの漫画に奪われる時間を思い出すと製作を始める気持ちにはなれないのであった。実は関心を失いつつあった。しかも、漫画はまだあとでも描ける。頭の成長が止まってから後でも描けると思い始めていた。二十二歳ぐらいまでは頭脳を鍛え豊かにしなければならない。漫画は自転車や水泳と同じで一度マスターした腕はそうそうに忘れるはずはないと考え始めていた。『手塚治虫賞』応募作品のときの苦労と落選の失望を考えると、気持ちが遠ざかってきていた。


 それに、他の重要な問題もここ半年間以上茂樹に迫ってきていた。それはやはり落第への恐怖であった。
 高校を落第するという恐ろしい不名誉だけはしてはいけなかった。そして漫画にも自分の将来にも役に立つとは思えない数学や物理などの理科系の分野や英語なども引き続き勉強するのであった。
 それは辛いだけの学習であった。この辛くてあまり意味があるとは思えない受験のための学業に、自分の僅かに残った卒業までの膂力と期日を犠牲にしなければならなかった。他に有効に活かすというアイデアもなく、無益に煩悶しては教科書を開くのだった。
 本当はこれまで読んできた文学作品などの素養を活かして、高校卒業と同時に華々しく漫画家の世界に飛び出すべき準備をしなくちゃいけない、と思いながら、実力のなさを知ってしまった今は、無事に卒業することだけが目標となってしまっていた。そのためにはコンスタントに勉強をやっていた他の生徒以上に努力をしなければ付いていけないのであった。


 小学校二年生のときからずっと高校二年生あたりまで漫画を最高の芸術と見做してきた。それは幼い子供たちに与える圧倒的な影響力を思うと最も大切な芸術であり、その気持ちは漫画からやや離れた茂樹であってもまだかわりはしない。だが、以前に比べて随分その情熱が薄くなってきたという自覚もあった。彼がしがみついていたものが前ほどには重要に感じられなくなってきていたのである。


 茂樹は巌清水の三叉路にバスで向かうことをやめて以来、列車で城砦市で乗り換えて海棠市に来る、遠回りを精神衛生上選んできた。卒業するためだけにのみ通学する学校への通学であるせいか、ある日、彼はまた遅刻した。
 他に生徒の登校する姿も見えないゆるやかな坂道を、意味もなく虚無的な気分で力なく登っていった。誰も歩いていなかった。海棠の生徒が歩かないと他に歩く人もないような坂道であった。二階南側の職員室目指して階段を上がっていくと、再び、いつか経験したような情景に行き当たった。それは岩本玲子が職員室を立ち去る姿を目撃したことだった。このときの玲子は茂樹に見られていることをまったく気が付かない様子だった。良かったと思った。彼女のネガチーブな目撃者になったことを、あまり彼女に知られたくはなかったから。
 ただ、茂樹にはなぜ彼女が遅刻をするのか、そのときにはよく分からなかった。

漫画を描く少年 24 巌清水の三叉路

 巌清水の三叉路


 千葉県の後光台から海棠市に行くためには、これまで彼が行ったこともなかった巌清水という地域を通ることになった。そこで一度バスを降りて三叉路という場所で次の海棠行きのバスを待たなければならないこともあったが、朝方はだいたい座ったまま海棠市まで本などを読みながら通学できた。しかし帰りは、暗くても寒くてもちっぽけなバス停のところでいったん降りて、千葉県行きのバスを待たなければならないのであった。そこから乗り込むのも茂樹一人であった。
 バスの通学を始めてから二週間ぐらいは経っていたろうか。停車と走行を繰り返すバスのなかで、最初の頃こそ知っている者が巌清水市三叉路あたりで乗り込んで来るかどうか気になったが、彼の知る高橋や眞鍋などの男子たちもひとつ前あたりのバスにのるのか一緒のバスになったことはなかった。大抵一人きりで最後の海棠市まで茂樹は揺られていた。
 この朝も、三叉路のバス停に背中を向けてぼんやり座り、反対側の窓外に目をやっていた。
 吊革を掴む何本もの腕と乗客たちの体のために、バスの上部と窓外の家の塀や樹木の一部が、いつもと同じように過ぎ去るだけであった。この日は自分が遅刻するバスに乗っていることが最初から分っていた。千葉県で一つ乗り遅れるともう、高校には遅刻するしかない結果が待っていた。
 混んでいるときにはもちろん、目の前も、横をむいてもバスの天井や上部を除いて殆んど視界は遮断されていた。
 文庫本の小さな文字を目でなぞっていてその疲れた目をちょっと上げたときだった、眼前で吊り皮を掴んでいる腕と人体の揺れる隙間に、目の端に入った姿があった。それがほとんど奇跡的に岩本玲子だということを一瞬のうちに知った。 
玲子はちょうど茂樹から視線を逸らすところだった。このバスに彼が乗ってもう一ヶ月以上も経つが、それまで玲子の姿など見たこともなかった。
 玲子は茂樹から一メートル半も離れていない吊革に腕を伸ばして窓外に目をやり横顔を見せている。彼女のあげる腕でその顔もほとんどみえない。あるいは見せないような気がした。彼も彼女の横顔を見たくても見つめるわけにはいかなかった。厚かましくなりそうな気持ちを抑えて、読みたくもない膝の上の書籍に目を落として彼女の姿に無関心を装った。
 この車内に、憧れの岩本玲子と自分がたった二人っきりで乗っている事実に、茂樹の頭のなかは徐々に覆われて行き、それとともに幸せな興奮が胸のなかに高まってくるのを抑えきれない気持だった。神が自分に与えてくれた最後のチャンスなのかもしれないとさえ思い込み始めていた。ただし、どうして良いか相変わらずまったく分からないのであった。これまでにも声をかけたことも挨拶をしたこともなかった。それが他の通勤サラリーマンたちの間にたつ玲子にどうやって話すきっかけを作って良いのか、機転も利かずアイデアもさっぱり浮かばないのであった。
 学校付近のバス停に到着したときも、下車する人たちのわざわざ一番あとから腰をあげてついて下りた。実は下車してからが最も触れ合うチャンスが大きくなると思った。茂樹の気持ちは階段を降りるときにはすでに膨大な想像力に惑乱していた。二人一緒になって残りの五十メートルほどの坂道を正門まで歩く可能性が状況的に発生しているのである。
 ところが降り立ってみると、もうそのバス停付近には玲子の姿は見当たらず、学校正門付近にその姿が見えるばかりであった。一体どうやってあの急傾斜な道をこの短い数分間に上っていけたのか茂樹には信じられなかった。あたかも自分から姿を早く消したいとでも言うかのようでもあり、決して一緒に並んで正門玄関に入るようなことにならないように急いでいるという印象であった。
 茂樹は茫然自失という状態で、自分がずっと恋焦がれてきた玲子の後ろ姿を見詰め、それから重い足取りでゆっくり正門の内側に消える彼女をもう一度一瞥してから歩き始めるのだった。


 階段を上がって職員室のドアが見えるところまで近づいた時だった。肩にかかる黒髪を揺らして女の子が飛び出てきた。それが玲子であることにすぐに気がついた。彼女は茂樹を真正面から見てはっと眼を見開いたが、すぐに出てきたときの強張った、他人を相容れない表情に戻り、そのまま私の前を通り抜けると廊下を足早に去っていった。彼女が行くべき方向は実は茂樹の佇む階段のはずだった。三年生の3Aクラスのほうに行くにはこの階段を上がっていくのが最短距離のはずであった。だが、玲子は廊下を反対側の1Fや1Gの方向に向かって姿を消して行くのであった。
 こんなに玲子の近くに自分がいたことはあの高一の時の『渡り廊下』以来だった。玲子の顔は普段から冷たい感じがあったが、それは言い寄る男、あるいは厚かましい視線を向けてくる男たちから自分を守るために身についてしまった表情なのだろうと彼は思いもし、またすべての男に対してそうして欲しいと普段から願っていた。このときには冷たい横顔にさらに怒ったような緊張が彼女には伺えた。一瞬のことではあったが、玲子と茂樹は随分接近した場所にいて、見つめあった。だが、ふっと彼女は風の妖精のように廊下を早歩きに去って行った。茂樹は彼女の後ろ姿を抵抗もできずにずっと見詰めるのだった。職員室前のこの空間に自分と彼女だけがいてほかに誰もいないという瞬間、たぶんこの記念碑的なこの数秒間を忘れないであろうと思った。


 「しょうがないなあー」
 彼女の姿が消えたのとほぼ同時に、ドアの奥から聞き覚えのある教師の声がもれ出てきた。その声で茂樹は現実に引き戻され、玲子が遅刻したのだということを再び思い出した。
 調子っぱずれの教師の声を耳にしていても、茂樹の脳裏には、玲子のどこか屈辱でも受けて、怒りを堪えながら被害者のように今しがた消えていった姿しか浮かんではこなかった。
 開いたままの職員室のドアから茂樹が入っても、そこにいた職員室の教師たちの気持ちも、消え去った玲子の姿にしかない様子であった。
 「……全くねぇー」
 二人の中年の男たちは椅子に深く腰をおろし両腕を後頭部に回した状態でなんとも浮かない顔をしていた。茂樹がはいってきたことも現実に眼にしていない様子である。
 そのときの遅刻担当は、常に黒縁の大きな眼鏡を鼻の中ほどにずり落として顎を上げるようにして相手をみて話す教師であった。頭ばかり大きく痩せぎすで、それだけでもどことなく愛嬌の溢れる滑稽な顔つきの四十代後半の小柄な男は、このときは不興げであった。彼は茂樹の担任教師でもあった。
 「バスの乗り遅れか」
 彼は一言そう呟いたが、目の前の生徒の上に気持ちは介在していないようだった。
 茂樹も
 「ええ、すみません」
 と意味も感情も篭っていない事務的な挨拶を返した。
 「うむ…毎朝大変だな。巌清水で乗り換えるんだったかな」
 長い蛍光灯のたくさん整列して下がる白い天井に目をやりながら、バスに揺られている生徒たちの姿を思い浮かべてでもいるようだった。
 岩本玲子が巌清水から通学してくるので、それでイメージしているのかもしれないと、ふと茂樹は思った。
 もう一人の中年の髪の少なく小柄で小太りの眼の小さい教師とあっては、ずっと寡黙の状態であった。
 たった今姿を消した玲子の残照を、私も含めて思い思いに噛み味わっているような雰囲気がその職員室のこの隅っこには漂っていた。


 それからは一つ、あるいは二つ前のバスに乗り込むようになった。同じバスに乗り合わせることができると分かってからは、人の腕と体の間からでも彼女の姿を、とくに顔をみたいし声も聞きたいという気持ちがどうしょうもなく突き上げてきていた。
 それまで気がつかなかったが、注意深く見ていると、玲子は他の女子生徒と同じく巌清水三叉路で乗り込んで来ていた。濃紺の学生服に体は包まれたなかで、首と胸元だけがガードが弛くちょっと挑発的であった。幾分膨らんだ白いブラウスの渓谷に、赤く細いリボンが幾本も襟の中から滴るように垂れ下がり、彼女が動く度に茂樹の注意を引くかのようにそこで戯れるのだった。他の女の子の場合には単なる女子が学校に通うために着ている学生服なのに、玲子の場合にはそれさえも彼女の魅力を蠱惑的に強調する特別誂のオートクチュールになってしまっていた。
 三叉路が近づくたびに、茂樹は体を少し捻らせて窓外に瞬間視線を投げやるようになった。
 不思議なことに玲子の姿をみることは殆どなかった。たまたま彼女の姿が見えても、必ず他の同級生の髪や顔、そして鞄や学生服が邪魔になって玲子の体や容貌を見る機会は少なかった。その中の色の白く四角っぽい顔の女性とか太った中野が茂樹のほうを見上げるようなところがあったので、その視線に合う前に彼は目を逸らさなければならなかった。
 玲子は停留所でバスを待つときも、車内でも、他の女子生徒と体を寄せ合って一緒にいる時には、ほとんど聞こえはしないけれども、あの澄んで明るく美しい声を奏で、笑顔もみせていた。
 玲子のために、他の女子が朴訥で鄙びたものに自動的に貶められ落下してしまうのはどうしょうもなかった。品のある綺麗な笑顔が、同乗の群衆の狭間から垣間見える時には、それが茂樹を意識して作ってくれているような錯覚を彼に生じさせてしまっていた。
 ただし、彼のほうには一瞥も与えてくれることはなく、だいたいにおいて冷たい横顔をみせているだけであった。それが何度か重なると、岩本玲子の関心はまったく自分にはないのだと思い込むようになった。そしてロッカーの腕が彼女の肩にかけられ相合傘で豪雨の白い刺繍のなかを歩いて行ったその姿を今更ながらに思い出すのであった。
 そう思うと、茂樹にはこの朝方のこの興奮が辛かった。
 朝方はラッシュアワーの時間のせいで、三叉路で降りて乗換える必要はほぼ皆無であり、ほとんど座っていた。だが、帰宅時は必ずと言って良いほど三叉路で茂樹は降りなければならなかった。
 そこは玲子たちが朝方乗り込む場所であった。その付近に住んでいるというよりは、もっと先の巌清水市本町あたりから来てその三叉路で乗り換えるらしかった。ふと茂樹はこの辺に彼女は立っていたかなと思い、同じ場所にたってみる。そして玲子が触れたかもしれない、変哲もない家屋を囲む生け垣の厚い緑の葉に触れてみるのだった。
 定期路線バスは、海棠市の鬼怒川の橋を渡り、それからおだやかな起伏の田畑の中を暫く走り、林が広がってくる小高いその分岐点を過ぎると、あとは千葉県に向けて完全に孤独な状態で、とくに森林が広がる森閑とした暗い地域を揺られて一人っきりで知るものもない地域を下校するのであった。バスの中も閑散としてくる。そして回りが静かになればなるほど玲子の面影がちらついてどうしょうもないのであった。
 それで、茂樹はひとつの決心をした。遠回りになるが、列車で城砦駅を回ってG線に乗り換えて通学するということに……。

漫画を描く少年 23 千葉県に引越し


 千葉県に引越し


 そしてまもなく、父の仕事の関係で彼らはまたも引越しを余儀なくされた。
 小学校に上がる前にも千葉県から埼玉県の川越に引越していた。小学校二年生の時には埼玉県から茨城県の玄武町岡田に引っ越し、それから現在の玄武町に転向させられていた。
 そして今度は隣の千葉県の野田市に近い後光台への引越しであった。今度は学校の転校とまではならなかった。茂樹はそこから毎朝早くバスで茨城県の巌清水市の三叉路に向かい、そこから海棠市に向かうことになった。
 これを機会に中退したい気持ちがにわかに込み上げて来ていたが、さすがにもう口にはださなかった。
 そして学校に行くという気持ちも、もともと皆無ということもあって、茂樹は遅刻をするようになった。
 さらにまた最後の学年は就職クラスと進学クラスに分けるという話も持ち上がり、アンケート調査があったが、それには反対した。それでなくても、心の中では被差別を感じているのに、それが今度は公式の差別となってしまう。そんな就職クラスにいるというだけで胸に被差別者側のワッペンをつけられているようなことになる。今はまだ隠れて混じっているという状態であり、進学しないことを知っているのは本人が言わない限り先生たちだけであった。
 だが、気持ちが落ち込んでくるのはどうしようもなかった。なんのために高校にいくのかという疑問が再び性懲りもなくぶり返した。大学にいくための勉強をしないのだったらなぜいくのか。それから、就職に相応しい準備をしていかなければならないはずではないのかという焦りもあった。
 就職先に関しては茂樹は全くなにも頭に思い浮かべていなかった。
 もはや、高三の茂樹は、高卒までに漫画家としてなんとかデビューできるとはもう思ってはいなかった。そんなことが不可能であることが現実のものとして分ってきたからである。
 『手塚治虫賞』に渾身の作を送って失敗したあと、読書に時間を注いでいた。そして、いつのまにか自分のなかに、大きな変化がおこってしまっているのに気づきはじめるのだった。
 漫画が安っぽいもの、軽いものに思われ始めてきたのである。幾ら努力しても素晴らしい芸術などにはなりっこない分野に思えてきていたのである。漫画を描くための知識を増やそうとして文学書とかを漁っているうちに、いつのまにか漫画自体に価値を見出せなくなってしまっていた。茂樹の頭は白紙の状態、諦念という気分に襲われ支配されはじめていた。
 いつのまにか、この後どうなるかも分からずに漫画家志望を脱皮してしまった。
          ‎

漫画を描く少年22 涙の季節

 涙の季節


 やげて季節も梅雨に入った。
 放課後、駅に向かって坂道を降りて行かなければならない時間帯に、不意に大雨が降りだした。大粒の雨だった。
 茂樹と好川は並んでなすすべもなく、多くの生徒と同じ様に出口の近くに立っていた。誰もがすこし待てば雨の勢いもなくなるし、降り止むと信じるしかなかった。
 あらためてこの新館の白くて広い玄関口。ガラスドアの大振れに開閉する出入り口を茂樹は見回した。
 ホテルかデパートの出入り口のようにドアも大きいとぼんやり思った。
 今は傘を持ってこなかった生徒でその場所はざわざわしていて、曇天のため館内も急に暗くなった。
 平べったいコンクリの屋根が広く外に突き出ているのでガラス戸の外にいても真上からは雨水に濡れない。だが横から風とともにシャワーでも浴びせられるように雨水を叩きつけられる生徒もいて時折賑やかな悲鳴が上った。高く明るい声を感情的にあたりに撒き散らせられるのは女生徒の特権とも言えた。否応なくそちらに好川や茂樹の視線が引き寄せられる。だが、茂樹の関心は一瞥しただけでそれ以上にはならないのであった。
 観音開きの右側のガラス戸は、傘をもってでる生徒のためにずっと開けっぱなしであったが、一人歩いてでるのがやっとのように生徒たちはそちらまでところ狭しと並んでいて、外の大雨を見ながら立っていた。左側のドアの内側の二列目あたりに彼らはたってこの様子をなすすべもなく見つめていた。
 「よりによって、こんな時間に降りやがって」
 好川が顎と長い鼻を突き出して思ったことを周りに関係なく叫んだ。そんなことは彼が言わなくてもそこに突っ立っていて外の激しい雨脚、地面を叩いて白く飛び散る一面の飛沫をみれば分かりそうなものだが、彼は思いついたことはいわなければ気がすまなかった。
 愚痴っている好川をよそに、右端の出口ではひっきりなしにパチッと音をたてては黒い傘を広げて出て行くものがいた。この用意の良さが茂樹たちをほとんど呆れさせていた。
 「ちゃんと傘を持ってきている奴がいるんだ」
 そんな溜息がもれたが、大抵傘を用意してきているのは女生徒であった。
 そこに岩本玲子がふっと後ろから姿をあらわした。一瞬のうちにも茂樹にはそれが彼女だと分った。
 彼女の学ぶ教室3Aに行けばいくらでもその容姿を盗み見ることはできるが、そんなことも茂樹は憧れながらしなかった。そのために、彼女の姿を見ることはこれまでもあまりなかった。それでもほんの僅かな彼女の姿の片鱗が、瞼の中には残滓していて、その面影を、彼は胸のうちに秘めていてほとんど無意識にお守りのように温めてきた。  
 彼女はどこか拒否的な、男の子とかを近づけない例の美しいが冷たい横顔をみせてガラス戸の外にでたところで止まった。そしてふっと茂樹のほうに顔をむけた。ただし、むしろ自分が玲子だと言う事を見せるために半分こちらに顔をむけたという感じで、視線は茂樹を捉えようとはしなかった。だが、それは茂樹のために振り返ったのかどうか、次に目撃したありようもない光景で彼にも分からなくなった。
 玲子の姿を見詰める茂樹の視界に、続けて原始人のような伸び放題に伸ばした髪と黒い詰め襟の制服があらわれ、更にその男は黒い傘を広げて玲子にさし掛けるのである。
 そいつは分厚い唇を曲げてなんか玲子に話しかけたようだった。玲子は何も言わずに黒い睫の瞼を伏せているだけで、そのまま彼の伸ばす左腕に肩を覆われたまま坂道に向かって校舎を去り、開かれた黒や紺色の傘の流れの中に溶け消えていくのだった。それはあたかも急に増した水嵩に、ゆっくり流されていく幾つもの蓮の葉っぱのようであった。
 そいつは、茂樹の後方にすわって悪戯をしてきたあの宮田というロッカーであった。あの鼻めどのでかい、不潔な長い髪を肩まで揺らしていた奴だった。
 好川にはそれが見えなかったのか、なにもコメントをつけない。相手がいる女の子については関心がないということなのか、そのあとも何も言うことはなかった。
 だいたいどういうことなのか、玲子についてはあの与野も久野も口にしたこともなかった。好川も同じであった。他にも教師の息子で自分が特別に女の子にもてると思いこんでいる自己溺愛者もいたが、彼も玲子の名前を出すことはなかった。
 ……玲子は近寄りがたい聖なる領域に生息するような女の子であり、他の生徒は近づきがたいということなのだと思えた。だが、この時の彼が見た情景はまったく想像とは正反対の信じられない様相を呈していた。
 いつまで続くともしれないこの大粒の雨に、玄関の内側に立って待つものも多くいるが、傘のあるものは疎らではあるが、その後も黒い傘を広げて坂道を降りていくのであった。
 茂樹は相合傘で坂道を降りていく二人の姿が、他の傘の中に紛れて見えなくなってもまだ目で行方を追っていた。
 そしてもう一つの旧市街に向かう道に、突然そのまま雨に打たれながら歩き出した。背後から好川の
 「おい、どうしたんだよ。まだこんなに降ってるのによ」
 と言う声が投げられたが、そのまま我武者羅に歩いていた。

漫画を描く少年21 再び、男女共学クラス

 再び、男女共学クラス


 高三になると茂樹が怖れていたとおりになってしまった。再び女子と一緒のクラスに編入されてしまったのだった。
 この頃は漫画への情熱が暫く冷めていた時期であった。それでも自分なりに模索を繰り返していた。いろいろな計画を自分で立て直していた。
 ただしいくら、できるだけ高卒までに漫画に必要と思われる知識を吸収していき、案もできるだけたくさん溜め込んで、就職と同時に昼間は社会人、夜は漫画製作で頑張ろうと言う計画に改変してみても、思春期の感じやすい彼には、女の子の前で劣等生扱いはしてほしくなかった。恥辱は受けたくなかった。
 そのためには、ある程度学力を取り戻さないといけないのであった。彼にとっては非常に迷惑な話ではあるが、この共学クラスに入れられてしまった事実はどうしょうもなかった。


 勉強をあらためてしなければならない。だが、二年間もサボった学力は幾ら焦ってもどうにもなるものでもなかった。積み重ねが必要不可欠な学科である英語や数学はもちろん、とてもやりきれない学生生活が『手塚治虫賞』を逸した後の茂樹を毎日襲うことになった。
 特に数学などはついていくこと自体に至極困難を極めた。落第するのではないかと思われるほど、理解はもう不可能であった。進学コースを選んで勉強の積み重ねをしてきた生徒以上に努力をしなければ到底不可能であった。
 そんなときに、『高校時代三』という月刊誌を図書館でなんの期待もなくぺらぺらとページを捲っていると、ヘッセの『車輪の下』が偶然彼の目を捉えた。ドイツの聖堂や森林、そして赤い屋根のエキゾチックな古い街の様子が、淡い水彩で描かれていた。文章よりもその挿絵に彼は好奇心を誘われ、そのままなんとなくこの取っ付きやすい縮刷版を読み出していた。
 この作品は忽ち彼を虜にした。読破したあと素晴らしい作品だと思った。が、どこかこの主人公には救いがなかったと思い自分も落ち込む気がした。自分に関して、こういう結末であってはいけないと思った。だが、それからというもの彼は高校中退というイメージに呪縛され始めていた。それは落伍者ということになるが、それでも自分は他の生徒とは違うんだ、だからこういう別の道を行くしかないんだと考え込んでしまうのだった。
 しばらくは自分の心の中にその中退という名の救いを、ひとりぶら下げて苦しんでいたが、とうとう学校も二三日ではあるが登校しないようなこともしてしまった。
 海棠市の中を流れる鬼怒川のほとりを歩き、また草で覆われた砂地に腰掛けて自分の将来をいろいろ考えるのだった。こんな風に自分が窮地に立たされてしまったのは自分に漫画の才能が足りないからかも知れないと自分を苛めたり、学校さえやめて漫画のために家にこもらせて貰えれば一番良いのだとこれまでにも思ったことを堂々巡りで頭の中が擦り切れるほど考えあぐねるのだった。
 いずれは父母にもばれてしまうことだし、そうなったら父の鉄拳は防ぎようのないことであった。自分から言わなければ大変なことになると判断し、夕方になって、やはりある機会をとらえ、高校を中退したいと父に話した。その頃は「登校拒否」などと言う言葉は社会的に通用しなかった。
 「親がどんな思いをしてお前を学校に送ってやっているのかが、お前にはわかんねえのか。こんな親不孝はないぞ」
 小さい頃は子供を折檻する役目は母がやっていたが、高校生になると、父が取って代わった。父は殴るときには中途半端ではなく、病院に担ぎ込まれるのを覚悟しなければならないほど全力で殴りつけてくる。手加減などは出来ない戦時下に青春をおくった人であった。
 だが、このときの父はむしろ嘆願に近い言い方であった。父母にしてみたら中卒ですぐにでも労働にでてもらいたいところであったかもしれない。そういう世代に育っていたのであるから。しかも自分の店などを、子供を中学だけで卒業させ手伝わせている家もまだこの町ではみかけていた。高校に息子をだせるということは社会的には義務になりつつあり、親としては世間体を保つためにも不可欠なことだった。
 茂樹は解決も逃げ道もないことを理解しなければならなかった。このまま卒業まで漕ぎ着くことだけをやむなく考えることにした。
 この父との会話のあとからは漫画に関係することを一時的に休止した。落第しないためにもとにかく教科書を読み、頭の柔らかいうちにいろいろな知識を吸収することにもなるんだと自分に言い聞かせた。
 中退ができないこの現状ではクラスで恥をかかないためにも勉強しなければならなくなったのである。