蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 15 第二のチャンス

 第二のチャンス


 毎年九月には、海棠一高と下総一高とはスポーツによる親善会を開催していた。
 このために一月ぐらい前から、応援の練習をさせられるのであった。この学校のどこにそんな者たちが待機していたのか、無精髭を生やしだらしない格好の、汚れた学生服を羽織った、不良高校生としか言いようがない、あるいは暴力団候補生のような少年たちが放課後に生徒を並ばせては怒鳴り散らし、鉄拳を振るわんばかりの威嚇をしかけたりする儀式が行われるのであった。
 とても不愉快な科目であり、進学校とは思えないしろものであった。それも実際に競技が行われると翌年まではなくなるので助かるのは間違いないが。この暴力団のようなドスの利いた声を唸りだし、威張り腐っている連中が茂樹は大嫌いであり、憎しみさえ覚えたものだった。この一部の連中が
 「お前らのだらけた根性を叩きなおしたる」
 とか、
 「おらおら、ちゃんと腹に力入れて歌わんか」
 などと学校側公認で普通の生徒に罵詈罵声を浴びせる許可がでていることにも彼は厭きれ返り憤りをさえ感じるのだった。
 こういう時代錯誤な旧制高等学校の苔むした伝統などは、茂樹からみて完全に不必要なものであった。なぜ、自分たちがわざわざ罵られるために放課後に校庭の隅に集まり整列して堪えなければならないのか、怒りは膨らむばかりであった。
 それで、我慢ができなくなると髭面の団長とか副団長などと言われている者たちをじっと睨み付けてその時間を過ごすことがあった。あるとき、応援団長の細く鋭い視線とまともにぶつかったが、相手は「うっ」と小さな声をあげてたじろぎ、茂樹を見ただけであった。茂樹が前から二列目に並んで佇んでいたし、そこに睨みあいがあったとは、他のどの生徒も気がつかなかったと思う。


 試合の当日、高校生たちは日帰りの遠足でもするかのように校門前に集合して、次々にやってきたバスに乗り込んだ。座席数はせいぜい五十ぐらいのはずであったが、そんなことは関係なく、そこにいる者から乗れるだけ乗せるという鮨詰め乗車であった。
 もう立ち席として使える空間もないというぐらいバスは一杯であったが、真ん中のドアがまだ開いていて、そこにしかも手招きするクラスメートがいたので、茂樹ともう一人好川が飛び乗った。それからバスはゆっくり動き出したのであるが、ドアはなんとそのまま開いた状態であった。
 ベージュ色の砂とアスファルトの地面が自分の靴のすぐ下で動き始めているのを見て、茂樹は余りにも不可思議で滑稽で、あふれ出すような笑いを抑え切れなかった。思いっきり声をあげて好川と笑っていた。
 それがとても不思議なことであったし、あってはいけないことだった。凄く滑稽に思えて、目の前のドアを指差して茂樹と好川が笑いを押さえきれないでいると、三メートルぐらいの近いところに次のバスを待つ生徒が集まっていたが、その最前列にいるある女の子がそんな私に視線をじっと注いでいたが、思わず顔を綻ばせ口の辺りを掌で隠すのだった。
 彼女はもうおかしくてしょうがないというふうに、意外と楽しそうに声もほとんどださずに破顔していた。それが玲子だと気づいた時に、茂樹は玲子と一挙に蕩けだし合流するかとも思えた。
 茂樹の憧れの玲子であった。それまで、玲子のどこか品を保った押さえた笑顔、自己を律した感情の表出はあっても、このような少女らしい滲み出るような笑い、感情の吐露はそれまで彼女にはみられないことだった。それが、どこか、茂樹に特別な感情を抱いていてそれが零れ出してしまったというふうに感じられた。
 しかも笑顔で一杯の玲子の美しい眼差しは、間違いなく茂樹に注がれていた。
 そして、今まで校舎正門前に入ってくるバスのほうを注視していて背後に誰が並んでいるか全く見回すことも知ろうともしなかったが、茂樹のすぐ後ろには彼女がいたことにこの瞬間に気がついた。
 ところが、ドアが開きっぱなしの状態で移動し始めたバスの中にいて、思わず笑い出していた茂樹をみて、つられるように笑っていたのは、過剰に反応していたのは玲子一人であった。彼女の近くの女子生徒は別にそれほどの反応も示していない。玲子は茂樹が笑っていたから嬉しくなって自分もその笑いに誘われたという感じであった。
 ところがその傍らに体の大きく太った中野がいてきつい顔を茂樹に見せた後、玲子にせっかちに何か話しかけているのが見えた。あたかも諫止でもしているように見えた。なにを玲子に言いつけているのか読唇術をマスターしてなくても分る気がした。その時ドアが外側からぴたりと目の前で嵌って玲子の姿を遮断してしまった。玲子たちがそのあとどんなことになったのかは想像するしかなかった。いや、ドアの閉まる瞬間、玲子のその顔が平手打ちでも受けたかのように青褪めたものに豹変したのを見たと思った。
 そして中野が何を玲子の肩を掴んで鋭く忠告したのかが読み取れたような気もした。
 「あなた知らないの? あの人は古典の先生に夢中なんだから,やめたほうが良いわよ」
 と咎めているように思えた。


 どのくらいの時間が下総市に着くまでにかかったのかわからない。茂樹の頭のなかは今目撃した玲子の反応で一杯であった。それは非現実的な事実であった。ドアの上の小さな窓から、二階建ての家屋の屋根や樹木の上の部分が、そして白雲の浮かぶ青空が意味もなく流れて行くのが見えた。あとはエンジンの音、少年たちのざわざわした、やはり何の意味もなさない雑音が彼を包み体を揺らしていた。
 普通の少年だったら、今見たばかりの玲子の姿を捉えて、次に遇った時には声をかけたりするのだろうかと思った。彼女の気持ちが自分に多少なりとも寄せられていることを、せっかく発見したのである。しかも、彼女の気持ちが多少熱を帯びていて、自分を受け入れてくれる体制が整っているという印象ももった。いや、あの反応はそれ以外のものではない。
 茂樹はどうしたら良いのだろうとここでも考えあぐねるのであった。彼女と何をどういうふうに声をかけていいのかまったく分らないし、たぶん、会話をするようなことになったら、彼女は自分にがっかりするのではないかとも思った。いや、そうに違いないとさえ思えた。彼女自身が抱いてくれている自分に対するイメージと自分とは大変な落差があるに違いなかった。彼女の自分に対する好意も、実際の自分と触れあい言葉を交わすようになったら、絶対に失望するに違いないと思え懼れた。


 海棠市と下総市の長距離をバスに揺られていくことはこれまでになかった。それは列車でも同じだった。やがて茂樹の住む町、玄武にバスはさしかかるはずであった。玲子はこの町をどんな風にみるだろうかと思った。辺鄙な町と見るだろうか。酷い田舎だと思うだろうか。町の中には結城紬の紺色に白く描かれた旗が街中のあちらこちらに立ててあるはずだった。玄武紬と言う人もいるぐらい、この絹地の機織り産業にこの町の人は誇りをもっていた。茂樹の母も義理の叔母もその仕事についていた。バスの中のエンジン音と自分たち自身の騒ぐ声で、内部にいる生徒たちには全く聞こえないであろうが、町の小路を小中学校に通学するときには街中のあちらこちらから機織りの音がバタン、バタンと聞こえてくる。下総市や海棠市と同じで玄武は鬼怒川と小貝側に両側を挟まれていて、そこの澄んだ川の水で酒を作る醸造屋もあった。だが、今の茂樹には殆んど何も見えない。一緒に最下段の狭いところに並ぶ好川も何も言わずに立っていた。


 やがてバスのスピードが急に下がり、高校生で寿司詰めになっているバスが下総市の旧市街に入ったらしかった。茂樹の目の前のドアが開いた。外に下りると、既に他のバスからばらばら降りて移動を開始していて濃紺の詰襟の黒い学生服と濃紺のチョッキ姿で白いブラウスの腕を振り回している女の子や、同じ濃紺の制服に袖を通しながら歩く女の子もいた。みんなはしゃいでいた。これは一種の遠足と変わらないものであった。ただ誰も手ぶらで、書籍も食べ物も持たず、ただ動く列にそのまま加わっているだけであった。バスの停止した場所が下総一高の校門付近に違いないとは想像していたが、クラスの先頭がどこにいるのか全く見えなかった。クラスごとに移動しているのではなく、ごちゃまぜの無法状態であった。そのまま明るい九月の日差しの降る中、茂樹たちも列に巻かれて移動して行くしかなかった。大声で誘導するような教師の姿もどこにも見えなかったし、怒鳴り声が得意な応援団員こそこの場では一役かえたというのに、黒っぽい和服を羽織った彼らの姿もなかった。茂樹たちはレミングのように、前方がどうなっているのか考える余裕もなく、流れに加わって歩いていた。


 下総市では日常見かけることもないちょっと変わった学生服の少年少女たちの列に、数人のおとなたちが立ち止まっては珍しそうに眺めているようなところがあった。これだけ勢揃いして歩く高校生の行列は地元の海棠市でもまず目にすることもなかったはずだった。彼の頭の中はまだ玲子の愛くるしい笑顔で鮮明に支配されていた。そのほかの感情としては、こういう列の中で動いている自分を恥ずかしいと感じていたことだった。おかしなことに、彼の足は前に逃れるように進みたがった。次のバスに乗車した玲子たちが到着する前にかき消えたいと言う気持ちが昇ってきていた。

漫画を描く少年 14 最初のチャンス

 最初のチャンス


 体育の時間に指を切ってしまった生徒がいた。茂樹は教師から指示され、それまで一度も足を踏み入れたことのない、保健室にドアを開けて同行した。
 教室の半分ぐらいの広さの室内には、陽光が直接射し込んでいてとても明るかった。茂樹でさえ、たとえガラスの戸棚に入っていても、こんなに薬瓶が暖められていいものだろうかとすぐに疑問に思ったぐらいだった。そこには、自分の年をとても気にしていて、なにかと言うと、
 「あら、こんなことを言うのは年のせいかしら」
 と口癖のように言う、白粉の濃い肥満気味の初老の女性がいた。保健室にいる唯一の看護婦兼医者であった。髪は一様にムラのないブリュネットに染められていた。しかし顔は塗り込めて白くても皺だらけであった。目の辺りも皺が凝縮していてギョボーという感じの大きな目つきで入ってきた高校生二人を診断でもするように見た。と、同時にきつい消毒液が茂樹の嗅覚を襲った。それを最初、この保険の先生の香水だと錯覚した。
 この部屋には、同じく独りっきりの女教師である仁平先生がいて、楽しい会話をこの茂樹たちに中断されたらしくまだその頬には笑みが残っていた。明るい色のツーピースのスカートを身に付け、体のお尻のあたりを、硬いテーブルの横のへりに凭せかけていた。そしてそこの椅子にはそれまで初老の保険の先生が座っていたのであろう。
 学校中で女二人が過ごせる唯一の部屋がこの保健室なのであろう、仁平先生の姿は古典の授業中の教室の中では見たことのない寛いだ姿勢であった。二十代前半の彼女は茂樹たちに顔をむけるとすぐに微笑みかけてきた。あたかも生徒たちがここに遊びにでもきたかのような歓迎の笑みであり、優しさが溢れるようだった。そしてテーブルについていたために痛みを感じていたのか、その両の掌をちらりとひろげてみるとすぐに両手をあわせては擦った。その掌の中に、茂樹の目は薄く紫色に滲んだ線を認めた。そして彼女は続けて凭せ掛けていたお尻を軽く固いテーブルから引くと、その手でちょっと臀部を上からさすり下ろすように撫でつけた。あたかもそこに押されて出来てしまった薄紫の横の溝を引き伸ばすとでも言うような仕草をした。それは一瞬のことであった。ここでは生徒の眼も気にせず娘っぽい存在に彼女も変身していた。それは自然で新鮮な姿であった。
 初老の看護婦が指の手当てをしている間に、意外にも彼女は茂樹に
 「結城君は優しいから友達もたくさんいるんでしょう」
 と話しかけてきた。数人の男子生徒の顔が浮かんだが、でも、あれは友達とはいえないんじゃないかと躊躇った。
 「うーん、そうでもないですが」
 「でも、女の子たちが結城君のことをよく話してたわ……」
 彼女は大きな目の瞳を輝かせて、頬に笑窪さえ作って彼を悪戯っぽく覗き込むのだった。彼女の雰囲気が、鉄腕アトムの妹のウランに似ていると彼は思った。
 「それは、僕にはまったく縁のないことですね、ほんとにそうです…」
 こういう意外な話題に、彼は驚かされまた照れた。
 しかし、その意外性は更により高い方向に急上昇していくのだった。
 「イワモトさんなんかは、可愛いし、どう思いますか」
 「……」
 この意外すぎる名前が、茂樹には、すぐには玲子のことだとは、この時には思えなかった。また理解できても今聞いた言葉の意味が信じられないのだった。
 自分の岩本玲子への秘めた情熱を古典教師の彼女が知るわけもないし、ただ唖然とするばかりであった。
 そして数秒置いてもまだ、それが自分の聞き間違えではないかと思えるのだった。
 茂樹はなにも反応できず、あたかもこの言葉が聞こえなかったかのような態度さえとってしまっていた。
 もしかして岩本玲子から頼まれて先生が自分に伝言してくれているのでは、とも一瞬思えた。しかし、そんなことはありえなかった。だが、先生が玲子を可愛いと思ったから、自分にお勧めしてくれているだけだとも思えなかった。
 彼女はばつの悪いことを聞いてしまったと思ったのか、言葉につっかえている茂樹に横顔をみせ、同行した生徒の手当ての具合に目を移してしまった。
 仁平先生が窓の黄色っぽいカーテンを引いて直射日光を遮ると、室内は落ち着いた雰囲気に変わった。戸棚のガラスのなかに整然と並ぶ小箱やガラスの瓶に入った錠剤も時の経過が停止したように、いつまでも使用されることなくその中に閉じ込められているように見えた。消毒液の匂いも清潔な白く塗られた壁面から微かに滲みでているようだった。そして窓外には明るい清らかさを含んだ秋の気配が近づいたような雰囲気がある。


 実は、もうずっと前に古典のこの先生を好きだとクラスメートたちに告白したことがあった。孤独な学校生活においてなにか支えになるものが自分には必要だと感じていたし、やはり恋に恋する思春期に彼も入っていた。だが、ごく近くに接近することのできる女性はこの古典の先生以外にいなかったし、他の女子生徒とは話をすることもなかった。人恋しい気持ちをある程度満たしてくれるのが、この先生へのちょっとした恋心であったのだと思う。そんな気持ちを持つ男子生徒は茂樹だけではもちろんなかった。
 またこの気まぐれな告白を面白がって女教師に伝えた生徒もいたはずであった。
 そして当の本人から、唐突に学年一位の綺麗な玲子はいかがと言われても、自分の深いところで蠢いている恋心がまさにその岩本玲子にあったと古典の女性教師に告白するわけにもいかなかった。
 「あなたは自分にとってただの漠然とした憧れとしての女性像を象徴するだけの存在で、それだけで自分は満足して、本当の愛情は岩本玲子だけに最初に出会った瞬間から注がれていた」とはおくびにもだせなかったのだ。

漫画を描く少年 13 恋慕

 
 恋慕


 同じ地域から通学する関係で、列車も同じであったし、また、漫画研究会創立の時には中伊を嫌悪する動機から茂樹に近づいてきたのが与野と久野であった。それまでは、中学でも同じクラスになったこともないし、言葉を交わしたこともなかった。
 良い作品を作ろうと考えて、図書館にも通ったこともあるが、文学書などは次から次と読めるしろものではなかった。資料を収集する宝庫としての図書館の意義はあるが、そこまで現在の彼は必要とはしていなかった。ただ、名作と言われる作品を読んでみたいと言うのが当面の目標であった。だが、それも最近ではやはり食傷気味であることは否めなかった。
 伝記などを読むと、片っ端から文学書と言わずなんでも書籍を読み漁ったという経験を持つ偉人たちがいる。彼らに比べると自分は濫読をできる器も持っていないようだし、能力不足なのかと、この頃は自己不審を感じ始めていた時期でもあった。
 また、孤独も感じていた。そんな茂樹に与野たちが通学列車のなかで、彼らも音楽をやっていると話した事があった。たまにエレキギターでの演奏を集まってやっているんだということも嬉しげに話してくれる。茂樹と彼らの世代は、ビートルズが解散した後だった。だが、それでもグループサウンズの夢を彼らは追っているようだった。ただ、それほど心底打ち込んでいるようには感じられなかった。


 ある放課後、与野が茂樹に声をかけてきた。ちょうど視線があったから掛けたという感じだった。一人でも多いほうが良いと判断したのかもしれなかった。
 「結城、おまえもつきあうか…久野の奴が寄っていきたいとこがあってよ」
 自分が彼らの仲間の一人のように声をかけられたことがちょっと嬉しく、茂樹はすぐに付いて行った。
 背の低く肥満した毛山と与野と久野と、学生服のまま連れ立って歩いてはいった場所は、海棠市内の駅に近い和風のレストランであった。
 濃紺の布地の暖簾に頭を屈めて並んで入ると、黒檀風の四、五人は座れる木造テーブルが両側の窓際に四っつ、三つと真ん中に通路を作ってセットされていた。まだ一人も客はいなかったが場所が良いだけに繁盛しそうな料理屋だと茂樹は思った。
 こんなところに来てなにをするんだろうと思いながらも茂樹はなにも訊ねなかった。なぜか皆黙っていて、なにも注文もせずに奥のカウンターにたったままでいるのだった。ただなにかを待っている気配だけがあった。だが何も起こらない。
 何か注文しなくては不味いのではないのかと思ったが、そんな気の使い方をしているのは自分だけだとまもなく気がついた。他の三人はこの場所に幾度かきたことがあるらしく、黙って店の奥のカウンターに体を寄せて立っているだけであった。この気配に白い鉢巻で頭を絞った短い髪の殆んど無表情の中年の男がちょっと顔をだし、その彼に久野が小声で何か訊ねたことだけは遠目からも分った。
 十分以上も待つと、とても若いウエイトレスがあらわれたが、彼女も別にこちらの高校生に近づきもしないし、第一見向きもしない。ただ黙って、頑丈で分厚く足の太い黒い光沢のテーブルの上を拭いたり、塩、胡椒をお盆に載せて取り替えるという作業を忙しげに行っていた。一見自分たちとこの女の子は無関係に見える。だが、久野が待っているのは明らかにこの女の子なのではないのかと茂樹は思った。久野がただ寡黙の状態でじっと彼女の姿を目で追う真剣な表情からそう思えた。
 茂樹がこの女の子を見たのは初めてであった。同じ市内の女子高である海棠第二高校に通う女の子なのではないのかとなんとなく思った。着衣しているものが料亭に似つかわしい動き安い短めの焦げ茶色の和服であるし、仕事用にお化粧でもしているのか年上にさえみえる。そして久野だけがこの女性をじっと見つめ続けるのだった。他の二人は窓外に走行する車や、買い物籠を持って歩く中年のおばさんを意味もなく眺めたり、壁にかかったカレンダーのお寺の写真をぼんやりと見あげてその場の気まずい状況を誤魔化しているのであった。誰も何も言わなくても、この辺の事情が茂樹にも分かってきた。そして彼女が完全に久野を無視しているのも理解した。そこの娘は、眼も大きく鼻筋もとおった美女に属するタイプだが、終始きつい横顔をみせて仕事に徹するだけであった。声をかけうる余地は全くなかった。
 茂樹が驚かされたことは、久野のような全くロマンチックな雰囲気もなにも持ち合わせない、そばかすだらけの決して美男の範疇には入らない少年が、片思いをしているという事実だった。

漫画を描く少年 12 茂樹のウイタセクスアリス

                       
 茂樹のウイタセクスアリス


 女の子の存在は茂樹にとってなんであったか。それはせいぜい進展があったとしても手を握って散歩するぐらい、もしかしたら唇をあわせるぐらいなものであって、それ以上のことは考えることもできなかった。いや、それ以上のことは、犯罪に等しかった。しかも、もっとも恥ずかしい性犯罪である。
 ところで、海棠市と玄武町間を列車で通学するメンバーは自分からは選ぶこともできない。
 革紐につかまり列車に揺られていると、考えたこともない話題が露骨に出されたりするのだった。たとえば、自涜行為の話などであった。
 「結城は、夢精とかしたことあるか」
 四妻村から通ってくる小柄な稲垣という生徒が、興味津々と視線も露に茂樹の股間をまさぐるように眺めながら聞くのであった。
 答えなければ、人の話だけ黙って聞いていてずるいと言うことになると判断して
 「ムセイって…ある」
 とどうしようかと迷ったが結局正直に答えた。すると、そこで笑いが起こり、一緒にいていつもそういう話をしている与野が隣の稲垣の肩をどついた。
 「ほうら、俺が言ったとおりだろう」
 茂樹のそんなことも彼らがこれまでに話題にしていたことが分かり、ちょっと彼を驚かせた。
 小柄な稲垣が目の前に立っている彼を見上げて、
 「いいなあ、俺も経験してえな」
 と興味深そうに想像に耽るように視点を床の上に彷徨わせるのであった。
 「おまえみたいに毎夜こいてる奴には無理だよ」
 与野にそういわれて笑っていた稲垣は、再び茂樹のほうを見あげて、
 「じゃ、おめえは、かいてねえの?」
 と本当に驚いて聞いてきた。
 二人の話によると、ああいうものは処理しないと健康に悪いという結論であるし、小柄な稲垣を指してこいつの肌の艶がいいのは毎日頑張っているからだと与野がからかった。
 茂樹にはあまりこういう生々しい話が苦手であった。自分が大事にしている個人的な情報を目の前に吐き出させられたようで気分がよくなかった。付き合い上自分も別に言わなくて済むことを話してしまう結果となってしまった。それがすぐ後で悔やまれたがもう遅かった。


 放課後に市内の本屋に与野や久野、そして毛山たちと入ったことがある。しかしそこで彼らの目的とする書籍は大概エロ雑誌であった。ちょっと来て見ろといわれてある本の文章を読むと、そこにはオラールセックスに関連したジョウクがづらりと書き並べてあった。彼らにとっては性というのはゲームのようなものであり、獣の行う交尾のように捉えているようなところがあった。すくなくともそういう印象を受けざるを得ない読み物しか読んでなかった。
 茂樹にはそういう会話と現実に存在する女性とを関連させて考えることは全くできなかった。
 彼らの言い方を借りると茂樹は性格が女みたいだというのであったが、それがずっと小学生の頃から漫画家志望少年であったことが、彼を普通の動物的な性感覚から逸らせてしまったのか、もともとそうだったのか、それは分析のしようもない。
 彼には逆に、そのように女性を性的処理の対象としてしか見做していない彼らが、汚らわしい存在としてしか見えないのであった。かなりの猥褻犯罪者に近い、いぎたない存在としてしか茂樹には感じられないのであった。


 小学校六年生のときに、いきなり股間をまさぐられそれを鷲摑みにされたことがあった。なぜそんなことをするのか茂樹には不可解であったし、近くに女生徒がいるのにそんなことも構わずにそういう破廉恥な行為をする動機がまったく理解できなかった。  
 やるものの動機は明らかに卑しい。が、その被害者の自分も不本意にその恥ずかしいアクションの仲間として無理やり引き釣りこまれ、妙な情景を形作らされたことになる。
 大抵、後ろからいきなり屈んで人の性器を握るので、茂樹としても防ぎようもない。茂樹にはそんなことをして、そんなものを掴んで何が面白いのか、その理不尽で迷惑な行為がまったくのナンセンスであった。
 ただ「こいつのでっかい」などと言われたときに、ふと近くにいてこの奇妙な悪戯を目撃する女の子がいるのに気がついて、ちょっと救われたという気持ちになったこともあった。もしこういう破廉恥な少年たちに「こいつのちっちゃい」とか女の子たちの前で叫ばれたりしたらそれこそ二重の被害と言えよう。
 この馬鹿げた悪戯にちょっと興味をもったのは、それからずっと後のことだった。海棠一高で綺麗な少年を見て、実行には及ばなかったが、ふとそういう同じ様な衝動を茂樹も覚えたことがあった。
 統合中学校に入ってからも同じことを、しかもほとんど見ず知らずの生徒からされたことがあった。やはりそういう行動は迅速にしかもなんの前触れもなく行われ、茂樹はたいてい不意を衝かれて犠牲者になってしまっていた。
 その他に、何も予期せず、無防備に佇んでいるときに、背後から尻の割れ目に思い切り、合掌でもするように指先を合わせ尖らせた両手を突っ込ませてくる悪餓鬼もいた。そんなときの痛みは大変なものでフローリングの固い床を茂樹も転げまわったことがあった。そいつはそんな茂樹を見下ろしながら
 「転げまわるから痛いんだよ」
 と軽蔑するように罵ったものだった。中学生なのに額に深い皺もより、瞼も分厚くて中年のおっさんのような顔と雰囲気を持つ子であった。そいつが小柄ということもあり、腕力では負けないし復讐も考えたが、痛みも消えてみると、同じようなことをして仕返しする気持ちには一向になれなかった。


 中学校三年生になって、周囲でなにか合図のような掛け声があったと気がついた途端、たちまち茂樹は手足を数人によって取り押さえられたことがあった。
 首領格の屁川が指示して、その中で彫が深い顔つきからドイツという異名をもつ平田が手を伸ばし、茂樹の性器をズボンの上から鷲掴みにしてしつこく揉むのであった。それはこれまでの掴んでは満足して離すのとは異質な性格の行為であった。その時の執拗な掴み方は時間的にも異常に長く、何かある目的を伴っている気配があった。それがなんであるのかこの時の茂樹には分らなかった。体を動かし捻り、手足も引っこ抜こうとするが、がっちり四肢が握られて身動きができない。それを何度か繰り返すが彼らはよけいに面白がっているところがあり、それらの顔には笑顔と好奇心のようなものが溢れていた。
 平田のその行為をするときの表情も異様であったし、伸縮させる掌の反復もなかなかやめようとしないのであった。これまでの、彼の知る辱めとは質を異にするものだと予感した。それでも手足を四、五人の生徒にしっかり抑えられている茂樹は逃れられないでいた。まだ茂樹には彼らの目的などは想像もできず、彼が一番心配したのはチャックをあけられて、ズボンからピンクのそれを掴みだされて、そのままの恥ずかしい姿を女性徒の前に曝け出されることであった。ただ、彼らの目的はそんなものでもないらしいことがもがいて逃れようとしながら思った。
 そのうち「しぶとい」とか「なかなかだな」などと囃し立てて笑う声もあり、繰り返し彼の股間をしごき続ける手が交代された。どうもそこら辺に彼らの目的があるらしいのを感じ始めて、未知の不安に徐々に襲われていった。そして足を押さえている生徒が妙な笑顔で彼を覗いていて、そのうちにこれまで彼が経験したこともない妙な気持ちが下半身から高まってくるのを覚え、尿意を催してきたのだと茂樹は恐れた。それはこれまで知らなかった感覚であった。茂樹は体の異変を感じて、本気で止めろと叫び、騒ぎだし、手足に猛烈な力をこめて暴れ始め怒鳴り声をあげた。さすがにこの反応に彼らはうろたえ、興醒めした様子で悪餓鬼たちもやっと彼から手をひき開放してくれた。いかになんでも殴られたりはしたくなかったのであろう。
 「和助にもやってやったのに」
 いかにも面白くもないという白けた、あるいはきつい眼差しを投げて彼をそこに置き去りにすると、彼らは教室に戻っていった。茂樹はそのままコンクリートの床の白い埃にズボンを汚したまま座り込んでいた。今起こりつつあったことが分らなかったからである。           


 数日後のある夜、風呂桶の傍らで石鹸を使い体を洗っているときに、あの時の奇妙な、実を言うと快ささえ予感させるような感覚は、しかし、ある種の越えてはいけないどこかタブーな感覚はなんだったのだろうと思い出した。普通に汚れた体の一部として性器を触り泡立てた石鹸で洗っていたが、茂樹は彼が暴れてそれ以上させなかった、その先の更に後の感覚はどうなっていくのであろうかと思い、いつしか自分でもされたようにその部分を一緒に揉み始めていた。やがてあの時とほぼ同じ感覚が高まってきてしまい、驚いて手の動きを止めたのだったが、もう遅かった。もう未知の禁忌な領域の境を超えてしまったのだった。タブーを犯してしまったと思った。茂樹は初めて射精という現象を体験してしまったのだった。
 彼の意志とは無関係に独特の起動に従い、下腹部から痺れるような罪深い快感を伴いながら痙攣が繰り返され、それが噴き出されるのだった。同時に彼の鼻腔には、切り裂いたばかりの鮮度の高い若竹のような匂いが強く拡がった。茂樹はその粘っこく不透明な液体をおずおずと、しかし冷や汗をかく気分で見詰め観察しながら、取り返しのつかないことをしてしまったと思い不安を感じるのだった。中学三年生の茂樹はこの時、大変な罪の意識に襲われていた。そして掌に溢れでたその液体は、指の間から零れ、胡坐をかいていた彼の太腿を舐めて黒い板木に滴りやがてコンクリートの濡れた床に垂れ落ちていった。
 硬くなったのは小学校四年生あたりからだった。それが授業中でもどこでも、特にクラスで綺麗なので有名な女の子を見ただけでそうなってしまいまともな姿勢で歩けなくなり困ったことがあった。が、それがこんな結果になり大変なことをしでかしてしまったと思った。こんな生理現象は誰とも話したことがなかったから、こういうことが起こりうるのもしらなかった。これはたぶん何も知らずに初潮を経験して自分が死ぬと信じる女の子と同じ驚きであった。
 しかも、まだ硬直しているその皮膚の下かどこかに得体の知れない異物を感じ、パニックに陥りそうであった。なにかがそこの皮下、もしくは中に潜むように留まっていて流れ出てこないのである。それはなんとかすぐに処理しなければ重大なことになりそうな類のものに感じた。
 なにか応急措置でもすぐにしなければならないと茂樹は焦燥に駆られるのだった。彼は根っこから更に亀頭に向かって握った右手に力を入れてその中に居残っているものを絞りだそうとした。
 まもなく同じ様な匂いに嗅覚が包まれ、半透明な膜が一体となって掌に温かく流れ出てきた。
 それは水の温む春の池などに、水生植物の緑の葉の間に帯状に浮かぶ、不透明な蛙の卵を覆う膜にも似ていた。やがて半分以上が指の間からとろりと手首や脹脛を伝って流れ、黒い板張りの隙間からコンクリートの床に蛇行していった。
 茂樹はこの淡く薄い粘着糊のようなものはなんなんだろうと恐れた。大事な自分の体の中の、彼が名も知らぬ臓器の一部ででもでてきてしまったのだろうかと思って怖れた。
 やはりずっとあとになって、それもまた女の子にとっての処女膜というものと同じようなものなのではと考え自分なりに解釈し納得した。それはその後の自分の体に支障が全くなかったからでもあった。ただ、この自慰行為をその後にしたことは高校生になるまで全くなかった。そして夢精するぐらいこの行為は怠っていた。罪悪の意識があまりにも強かったせいもあるし、たまたまあのような禁忌を犯しても何もその後に異常がなかったことを彼は僥倖だったのだと判断していた。次回からはどういうことになるのかはなんの保証もないと思った。またそれ以後も誰ともこのことに関して話すことも相談することもなかった。これに関係する本を紐解くようなアイデアも浮かばなかった。茂樹は性に関しても晩熟であったし大人しい少年であった。漫画のことしか頭にはなかったのだ。

漫画を描く少年 11 限りなく接近した二人 ―夏の課外授業


限りなく接近した二人 ―夏の課外授業


 『漫画研究会』が立ち消えになると同時に、茂樹は独自の道を模索し歩んでいかなければならなくなった。刺激も同志から受けることがほぼ皆無のなかでは、自分で自己を育むしかなかった。
 仁平が担当する古典文学に茂樹は多少の興味を惹かれていた。三年間も学校に通わなければならないと思うと、通う理由を肯定的に見出さなければならなかった。でなければ到底やりきれたものではなかった。ましてや彼が後生大事に中学生の時から持っている手塚治虫の『漫画入門』には豊富な知識を吸収すべきことが記してあったし多読濫読もするべきことも述べてあった。
 我をして通学させる理由の少しでもある科目をあえて選択させると、『美術』『地理』『歴史』『古典』が残るのだった。


 そしてまもなく、高一年の夏休みが始まった。そのころまでには茂樹もモーパッサンの短編集を文庫で買って読んでいた。また同じく短編集でオーヘンリーも買い求めていた。前者の作品の後書きに同じく短編の妙手として後者の名前があがっていたからである。その連鎖で、割腹して目立とうとして、自己の実力で有名を獲得したわけではないと思われた三島、この絶対に読むつもりのなかった三島の作品も購入して少しづつ読むようになった。


 夏休みの時間を利用して週に二日間は仁平先生も古典の特別授業を受け持っていた。他の先生はスポーツなども担当していて正規の授業を特別にやるような教師は他にいなかったように見えた。少なくとも他に授業があっても関心のない茂樹にはないようなものだった。この古典の授業にも出席していたのは僅か七名ぐらいなものだった。さすがに東大を目指す背の高い稲葉や女子ではトップの成績と噂されている岩崎なども出席していた。
 文学書を通して古典文学にも茂樹はあらたな関心を抱き始めていた。
 ただし、この古典語で展開される世界と自分の漫画とは、直接には関係しないし、利益に繋がらないと感じて、まもなく興褪めするのであった。
 授業の前半が終わって、教室に沿って長く伸びたバルコニーにでると、風がそよいでいて快かった。
 背丈のある稲葉が独り言のようにぼやきだした。
 「古典はわかんねえからな。なにをどんなふうに勉強していいか、とらえどころがない。そこが数学とか物理なんかと違うところだな」
 だから古典の授業にでてきたと言いたいようだった。そして続けて茂樹のやろうとしていることにも触れた。
 「漫画をやって、もし漫画家になれたとしても、結局は芸術でもなんでもないから、やっても虚しいことなんじゃないか」 
 噂ではかなり成績の良い生徒だと聞いていた。入学試験もベスト・スリーに入る実力で堂々と合格したということであった。彼からすると漫画家とか言っている茂樹のような少年はチャンチャラおかしい存在を通り越して、真面目に勉強している生徒にとっては侮辱になるのかもしれなかった。
 それでも、思ったままのことを茂樹は口にしていた。
「その漫画を芸術的なものにしようと思う」
東大志望者は一瞬、異様なものでも見るようにまじまじと茂樹の顔をみていたが、すぐに今度は考えるだけでも馬鹿らしいとでもいわんばかりに
 「ふん、そうかな。そんなことができるのかな」
 と視線を樹木の濃く深い緑に囲まれた旧館のスレート屋根のほうに移しながら露骨に呟いた。
 茂樹はふと隣の教室の窓に動いた影に気がついた。しかもそれは岩本玲子ではないかと感じた。彼女に、そして自分自身にも決意を表明でもするように茂樹は応じた。
 「できると思う。漫画だって芸術的で優れたものが出来るに違いないと思う。…もしそれが失敗しても、また意味がない結果しかでてこなかったとしても、あとからやる者にその方向が駄目だということが示せるじゃないか」
 「……」
 「そういう意味でも、信じることを最後までやり通す意義はあると思う」
 茂樹が本気で言っているらしいことを理解し、またかなりの重症だとでもおもったのか、もうこの東大志望の生徒もなにも言わなかった。言う言葉がなかったのかもしれない。
 古典の後半部の始業時間の呼びかけが室内からあり、再びバルコニーから教室のドアに体の向きを変えたときに、隣室の窓に滲む影が少し動いたような気がした。そしてその姿が茂樹にはみえないのに、曇りガラスの背後には絶対に玲子が耳をすませてくれていたと勝手に思い込んだ。授業の後半はそのために全く理解できなかった。
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 なぜ玲子が夏休みの期間中に学校にきているのか誰にも訊ねられない。彼女に特別な関心のあることは秘め続けていたので、茂樹にわかろうはずもなかった。もしかしたら何かのクラブ活動にでも参加しているのかもしれないと思った。
 二日後には再び古典の特別授業があった。彼が参加した理由は古典の世界、おもに平安時代の女性が登場する世界をいずれは描きたいという気持ちがあったからだった。谷崎は以前から読み齧っていたが、三島なども読むようになっていた彼の内奥では、平安の女性がこの上もなく優美でフェミニンで理想的なものに思うところまで突き上がって来てしまっていた。茂樹の頭の中ではこの理想像と合致する女性として、神秘的で官能的でもある玲子が実際にあらわれ、彼女のその姿をまた見ることができるかもしれないと言う強い期待が、今度は新しく強い動機となってこの特別授業に彼をでかけさせた。   
 その日も新館の校舎は白くがらーんと広かった。窓外の濃い緑の樹林と、上空の明るく青い空に長閑に浮かび移動する白い雲が流れ、玄関から廊下に一人歩いている自分がタイムスリップでもしてしまったような気持ちがした。どこか場違いなのである。本当は家に閉じこもって漫画に勤しまなければならない。それが本来の自分の目的であった。本当に一縷の希望からわざわざ自転車で海棠まで茂樹はきていた。来させたのは岩本玲子を一刹那でも見たいという気持ちからであった。が、それが可能なものかどうかはわからない。それでも、自分は夏休暇で漫画のために何かできそうなのに、それもせずに出かけてきているのであった。


 二階の一学年Aクラスの教室が古典文学の特別授業の場所として使われていた。そちらに向かう途中、一階の廊下で、太った体を揺らし眼鏡を小さな布切れでずりあげては目の辺りを拭く大男と出くわした。大狸と綽名のつく地学の教師であった。茂樹を認めたその顔には最初はなんの感情も浮んでいなかったが、
 「なんだ、今日は……仁平先生のとこか」
 と面白くもない顔で質問してきた。その口調から、茂樹をみたときから古典の女教師の授業に彼がでることを、この狸は知っていたのではないかと感じた。
 「はい、古典の授業に、これから……」
 もしかしたら地学の特別授業もあるのかもしれなかった。そこには一向に興味も茂樹が示さず、他の特別授業にでるということで、そのことにも不服だったのかもしれない。
 そこへ女の子の高い声が大狸の背後から湧き上がった。この男の体のために、彼女たちの姿をみることが出来たのは、すぐ彼の背後に彼女たちが近づいて声をあげたところからであった。大狸は体を半転させ、すぐにそちらにすっかり注意を完全に奪われた格好になった。
 「中野、そんな短いのはいて」
 いつも男子生徒の中に自分から混じって休憩時間や放課後に騒いでいる太った女子生徒が中野だった。意外なことに、玲子もその脇に一緒になって歩いていて、まさに階段を上がるところだった。
 中野は一度茂樹に愛嬌を振りまき悪戯もして近づいてきたことがあったが、相手にしなかった。だいたい異性とか関心をもつ余裕がなかったからだ。そして持つとしたら玲子しか他に考えられなかったぐらいだから、拘わりあわなかった。
 なぜこの二人が一緒にいるのだろうと茂樹は不審に思った。が、たしか、同じ巌清水という地域のでであるのを聞いたことがあった。それで一応納得がいったが、この取り合わせはまったく釣り合いを欠いたものだった。おかちめんことダ・ヴィンチの描く聖女が一緒に並んでいるようなバランスの崩れがあった。
 「下着が見えちゃうだろ。後ろに、ついて来ちゃうじゃないか」 
 そういいながらも大狸は彼女たちの階段を上がっていく後ろ姿を熱心にみあげているようだった。茂樹もそこには彼ら二人しかいないのに変なことを言う教師だなと思いながら玲子が微笑みながら上階に上がっていく姿から目を離すことができないでいた。
 階段はしかし中ほどで横から見る彼らにはくの字型に折れ曲がっているし、欄干代わりのコンクリートの低い塀になっているので、すぐに二人の腰から下は死角に入ってしまった。ただ、玲子の意外な、プライベートな姿に遭遇したことが彼の脳裏に焼きついた。
 いつものプリーツのスカートの制服と違って、色は同じ濃紺でも、淡いピンク色のブラウスにタイトスカートで健康そうな膝と太腿の白さが茂樹の目を射た。
 大狸にあんな性的な冷やかしを言われて玲子は嬉しかったのだろうか、いや、そんなことはない、中野が大きな平べったい顔で大笑いしているのでつられて微笑んでいたのに過ぎないと考えた。高貴な雰囲気を持つ彼女があんな野卑な言葉が嬉しかったとは到底思えない。
 確かに美しい女の子が、あんなミニスカートを穿いていたらそこらじゅうの男どもの視線が集まってしまうのは目に見えている。それに関しても、それだけ彼女を思い慕うライバルたちは多くなるだけで彼にとって、ちっとも良いことではなかった。やはり自分に関係のある、手の届く女の子ではなかった。だいたい女の子自体に興味を持つ心の余裕はこの漫画家志望にはあってはいけなかった。
 ただ、玲子が微笑みながらも、そして茂樹の姿がみえていたはずなのに、彼女の視線はむしろ大狸は捉えていても自分とは交わりあわなかったように見えて、それが残念であった。
 茂樹のなかの漫画家志望としての強いはずの意志は、こと玲子に関係してくるとすぐにぐらつきだしていた。


「あの二人な、こないだ屋上でキスしてたぜ」
 色が白く目が細い瓜実顔の東大入学志望の生徒と、女の子のなかでは一番成績が良いという岩崎との噂を、帰りに好川が面白がって、ペダルを踏みながら茂樹に話すのだった。
 彼らが午後の穏やかな陽射しのなかで、唇を接点にして接続し、その長いシルエットを温もりの残るコンクリートに伸ばしているのが、茂樹の目に浮かぶようだった。だが、ほとんど何の感情も彼にはでてこなかった。
 同じく古典の授業に参加していた好川のほうは、三角に尖った大きな鼻を上に向けて、張った顎を擦りながり、さも面白そうにヒェヒェと笑っていた。それは何かを思い出しているようにも見えた。
 茂樹には数時間前に見た、岩本玲子が階段を上って行く姿だけが脳裏に付きまとっていた。そして止めようもなく、その情景だけが終了してはまた再生され、それが何度も繰り返されるのであった。‎