蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

落葉直前の周辺 Vol.2


わたしも裕福にでもなったらこういうアート・オブジェをバルコニーにでもたてたい。


えっつ、なに、これ? なんか嫌な印象が残る。仏教、アジアとかがすきなのかもしれないけれども、わたしのひねくれた感情はそのようにうけとらせない・・・・

落葉前のドイツのある街の様子

この前書いた『わたしのいいなずけ』を半年間ほど冒頭記事、最新記事としてさらに新しいものは書き送らない積もりで居ましたが、みなさん、たくさんの植物とかペットの写真をおくっていらっしゃるので、わたしもと思いました。
 いつも、気がついたときには落葉が始まってしまって、枝にほとんど葉っぱもなくなっている状態ですので、この日はその前に撮影して立ち上げという気持ちになりました。


一番最初に枯れ始める葉っぱはマロニエですね。




こちらは自宅の二階のバルコニーから見える風景


こちらもバルコニーから


こちらは冬の寒さから救助し、窓辺に持ってきたわたしの植物たち。ミニ薔薇、そして葵



わたしのいいなずけ


彼女は今どうしているだろうか?
 中学三年生のときに母から町の駅前にある飲食店の父親から、娘の婿としてわたしを貰いたいという話があった。
 それが、この小学生のときからスポーツ万能で、学業成績は常にトップで美貌の娘F子であった。
わたしにはいかに父親が私を気に入ってくれたとしても、F子がそれで納得しているなどと想像もできなかった。
 わたしたち男子生徒にとってはずっと近づきがたい聖女というレベルが彼女だった。
 そのうちに朝の新聞配達のときに彼女の店の前を通過するのだが、わたしが自転車で通る時間に合わせて彼女が犬と一緒にドアをあけて飛び出てくることがあった。わたしは恥ずかしくて滅茶苦茶ペダルを踏んで、まさに逃走してしまったものだった。
 彼女とは駅ですれ違うようなことがあるとじっとこちらを見つめてくれているようなことがあった。微笑みさえ彼女は浮かべていた。
 きっと最初はなんの感情もわたしに抱いてなかったのに、父親の言葉に従っているうちに、私をすいてくれるようになったのに違いないとわたしは思った。彼女が最初から自発的に私を慕ってくれるなどとは考えられなかったからだった。
 でも、わたしはまだ中三、そして高一だった。自分の将来がこの街に釘付けにされたくはなかった。それに彼女の父親を一度だけ暗い夜に見たことがあるが、彼のもとで婿として店の手伝いと修行を行うなどと言うことはできないと思えた。私は彼を恐れてもいた。相手の娘が美貌の少女でも自分のこれから自由に羽ばたける将来には代えられない気持ちだった。わたしの鉄拳も振るい暴挙にもでる権威主義的な親の家から、次の抑圧感を感じさせられる家に移るだけのことで、それは耐えられないことだった。
 そしてわたしはF子から残念ながら逃走しまくるという態度を常にとるようになってしまった。
 その後ももちろんF子以上の良い性格で才媛の日本の女性と知り合うことはない感じだった……
 

I氏と食事、そして愛妻の墓参

 午後一時半に恩の屋で食事をすることになっていた。
私は心配性なので、遅れないように午前中に愛妻の墓参を予定していたが、薔薇の蜂を買って、土を掘り起こし、そして三本の真ん中に植えてある赤い薔薇の木を根っこから掘り起こして植え替えなければならないと思っていた。そのためには二悲観ぐらいの時間では足りないかもしれないと思った。いっそのこと食後にアジア食材店に行って納豆とかお煎餅とは言わず、それは高すぎるからせめてあられでも買おうと考えていたが、それを予定から外して、午後に妻の下にいこうと予定を変更した。
 最寄の駅には40分も前にわたしは到着していた。それで駅のなかのキオスクに入りそこで時間を潰すことにした。本の背文字とかいろいろみているうちに時間はあっという間に過ぎてあと待ち合わせの時間まで15分間となってしまった。
 病気上がりなのでそれほど早くはあるけないので、和食レストランまで決して余裕のあるものではなかった。ぎりぎりという感じだった。
 それでも、時間前に着いた。
 I氏からスマホに連絡が入り、遅れてくると行って来た、
 わたしは感染しずらい外にあるテーブル四つのなかのひとつを狙って玄関のそとでぶらぶらしてI氏を待った。
 席が空いてすかさずその場に座り込み、メニューを眺めているとわずか5分おくれで枯れ葉やってきた。意外と早かった。
 わたしたちはフライ弁当を注文して食べた。
 写真を撮っていればここに掲載することができたのだったが、それをすっかり忘れていた。残念。久しぶりの外食でもあり、美味しかった。
 ただもともとオオぐらいであるので、まだなにか食べたいと思ったが、I氏はその分量で満足と言うことだった。
 そしてベルリーナシュとらーセまで一緒でそこで分かれても良かったが、そのまま私はシュテーグリッツまで乗って、そこで一駅Sバーンで植物園駅までいくつももりだった。すると彼がじかんがあるから一緒に私の妻の墓参に行くと言い出してわたし祖驚かせた。


 まず最寄の花屋に入ったが、三日前にはあった赤い薔薇の鉢がなくなっていた。全部売切れてしまっていた。やむなく一輪の赤い薔薇を買って妻のもとにいった。
 真ん中の薔薇だけでも根っこから掘り起こして植え替えようと思ったが、やはり人がいる、彼を待たせてしまうと思うとシャベルも用意してきたのにできなかった。
 早めに妻のもとを去り、駅の近くで彼に、せっかく来てくれたのでアイスクリームをおごってあげた。ひとつ1,70ユーロだった。二つづつ持ってもらって座って食べた。高いほうだった。
 そして地下鉄の彼のヴァルターシュライバー駅で別れ、わたしは七号線に乗り換え、終点まで行くと、まだこのまま帰るのは惜しい気がしたし、まだ退路yジュ的にも頑張れると思って、162号線に乗ってアジア食材店にいってみた。キムチという名前の大きく綺麗な店だった。店舗用の家賃も安くないだろうと思われた。名前からシテ恐らく勧告の人がオーナーなのだろうと思った。
 醤油1Lを二本、小粒納豆6っこ、黄な粉餅、焼き蕎麦カップヌードルなどを買って帰宅した。
 自宅から近いところを開発できて、新しい店を発見できてサクセス感覚をもてた。
 帰宅するとあられをぼりぼり食べ始めた。やまとという名前のあられだ。たかいけれども、それは仕方がない。黄な粉餅も箱のわりに中身が小さいのがよっつ入っていて、解凍すると全部食べてしまった。とまらなかった。30.Aug.22

どうしても書き上げたかった作品『漫画を描く少年』

 『漫画を描く少年』は私の最初の中篇小説で、自伝的作品です。95%実話と言えるでしょう。
 ことに集中できない怠惰なわたしが初めて纏めえた記念碑的で重要な作物です。
 
 石田衣良さんの文学鼎談を視聴して、いかに文学、創作生活が至難の業であるか十二分に理解できたのですが、お陰さまで落ち込んで来てしまって……ただ、わたしも1,2日も経過すると少しは立ち直れて、仕事を続ければ良いんだ、兼業で良いんだと開き直り、重要なのは自分の書きたいものを書く、それだと思いました。賞はもちろんほしいけれども、それを獲得するために自分が欲しないものを執筆してもまったく面白くもない。やはり自分にとって重要なもの大切なものでなければ執筆しようというモチベーションも沸かない。
 滅ぶ男の典型みたいな態度、姿勢だけれど仕方がない。そんなふにしか考えられないから……