蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 5 仄かな触れ合い

 仄かな触れ合い


 海棠一高の校舎は、新館、旧舘、体育館の順で東から西に向かって縦に立ち並んでいた。鉄筋コンクリートの四階建ての白亜の新館を出て旧館に行く用事が茂樹にはあった。
 ちょうど茂樹が新館のドアを開けていきなり少し冷え込む外気に触れた瞬間だった、同じようにして向かい側の旧館の木製のドアから二人の女子生徒がちょうど姿を表した。一瞬その女の子たちも茂樹を見た。しかしそのまま微笑み話しながら、三段の石の階段を半ば視ながら降りて、渡り廊下をこちら側に歩いてくるのだった。何かを楽しそうに話しながら歩いているのは玲子であった。もう一人の女生徒は耳を傾け頷きながらも視線を玲子から茂樹のほうにチェックでもするようにむけては、また玲子のほうに戻すのであった。
 簡単なトタン屋根が頭上を覆っただけの渉り廊下は十メートルもなかった。
 傍らに歩む相手に顔を仰向けて語りかけているのはやはり間違いなく玲子であった。それが彼女だと認めると茂樹の感情がすぐに掻き乱され落ち着きを失うのだった。
 残念ながら玲子は茂樹のほうに後頭部と横顔を見せた状態で時々は足元を見ながら歩を進めてくるので、彼には彼女をつぶさに近いところで盗み見ることができない。彼女の右側の女生徒は何度か茂樹に顔をむけてくるが、玲子は自分の話す内容に夢中になっているためなのか、あるいは殊更に茂樹のほうを見ないようにしているのか、一瞥でさえも与えてくれない。
 まさに横に三人が一列に並ぶ一瞬前である。こんなに近く玲子の顔を視れるチャンスはこのときを置いて他になかったが、玲子が黙った。だが、玲子は僅かな数秒間言葉を捜していただけであったのか、再び何でもなかったかのように話を続けるのだった。その声だけでも聞きたいと茂樹は思って、ゆっくり歩いていくのであったが、聞こえたのは一緒に歩く女生徒の頷く大きな声だけであった。その声はただ相手に意思を伝達するためにだけ備わっているような、沢庵でも噛んだときの音のような明確なものであり、そのためにどんなことを玲子が話し、またどんな声であるのか殆んど聞き取れなかった。そして玲子のほうを窺う茂樹を傍らのもう一人が、まともにすれ違いざまに顔をぴたりとむけてきた。白く殆んど正方形に近い顔型をした女生徒の表情はなんの感情も表出していないように思えた。もちろん、実際にはそんなことまでは分らないし、読み取ろうとする関心もその叔母さんふうの女生徒にはなかった。ただ茂樹がそちらをみているからその彼女も見ていただけなのかもしれなかった。
 あるいは玲子の気持ちをその彼女が知っていて、この瞬間にその玲子が好ましく思っている当の相手である茂樹が、反対側から来ているのに何も伝えてあげられないことを残念に感じていたのではないのかとさえ彼は想像した。でなければ、自分のほうを何度も見やったりはしないだろうと思った。
 玲子はこちらに一瞥することもなく何かを語っていたが、どんな内容なのかその言葉の片鱗だけが彼の聴覚に残っただけであった。微かながら彼女の出席簿で放たれる「はい」以外の声を聞くことが出来て茂樹は新鮮な興奮を覚えていた。擦れ違った地点は茂樹がゆっくり時間を稼ぎたいと思っていたせいで、新館に近かった。そして彼は木造の暗い旧舘にはいる前に彼女の後ろ姿を振り返って名残惜しそうに見た。だが、同じように自分を肩越しにちょっと振り返ったのは色の白さの目立つだけの小母さん風の女生徒だけだった。
 彼女たちの姿がガラス戸の中に消え入ったあとも彼は旧館のドア近くの内側の壁によりかかり、今歩いてきたばかりの地面に石盤が並べられ屋根を支える木造の細い柱が五、六本も両側にならぶ通路を見詰めていた。もしかしたら戻って来てくれるかもしれないとさえ彼は幻想していたのだった。
 彼は今起こった出来事を心のなかで反芻していた。例え横顔しか近くで愛でることができなくても、彼の期待以上に玲子は美しく、その魅力を自然に振りまいていた。小さな高い鼻梁と可愛らしい豊かな唇。そして睫が長く密なせいなのか笑顔に撓む瞳は僅かに涙袋も膨らませ、ことさら魅力的な微笑みを放散し茂樹を捉えて放さないのだった。
 彼女より少し背丈のある色の白く顔の大きめの背後の女性は、どんな女性も玲子の近くにいてはそうなのだが、見事な引き立て役に落ちてしまっていた。このときにはしかも、旧校舎に西日は遮られて、南から力を削がれた穏やかな陽光が屈折し彼女たちを柔らかに浮き立たせていた。そのために、玲子の横顔はさらにその女性のために和らげられた光に映えていて、それはちょうどダ・ヴィンチの岩窟の聖母のデッサンのような、時を忘れて見詰めていたいような完璧な美しさをもち、聖なる雰囲気も立ち込めていて、やはり近寄りがたいものが感じられた。
 そして彼女の声と言うと、しっとりと心の琴線に触れる繊細な響きを湛えていて、美しくも可憐な声だった。これ以上フェミニンな響きはありえないような、そんな音色であった。本当のところを言うと、それは彼の感受性に富む、若い性感帯に訴える響きと音色を持つ声であった。とにかく、ほんの僅かな瞬間だったが、とうとう彼女の声を聞いたと彼は思った。茂樹のことも意識して、玲子はとっておきの綺麗な声を彼むけに出してくれたような気さえした。彼女は少しは自分に気があるのかもしれない。
 もうこの時には、勝手に茂樹はそう思い込み、自分の胸から色とりどりの薔薇や百合などの香り高い美しい草花が咲き流れ、彩り豊かな蝶々が飛び立っては自分を包むように旋回するのを瞬時見た思いだった。


 だが、彼女の容貌が美しければ美しいほど、そして美声であればあるほど茂樹は早くも再び落ち込んでいくのであった。彼女が自分に興味を持つ理由が全くなかったからだ。同じ学年に素晴らしい男子生徒は幾人もいたし、渡り廊下での擦れ違いを反芻してみても、あの時のもう一人の女生徒が玲子の護衛でもしているかのようにさえ数分後にはもう感じられるのだった。
 そしてその後の美術の時間にも相変わらずこちらは背を向けているだけで、彼女の姿は全く見えない。名前を呼ばれて「はい」と答える玲子の声を聴くことだけが彼の僅かな愉しみであり刺激として日常化するだけであった。あきらめてはいてもこの声を聞く楽しみだけは密かに味わっていたし、美術の授業が終了すると後ろももちろん振り返ることも出来なくて、さっと新館のクラスに戻るだけだった。

漫画を描く少年 4 美術の授業ではじめてみた美少女

 美術の授業ではじめてみた美少女


 美術はABクラス合同の授業になっていた。美術か書道のいずれかという選択科目になっていて、AとBクラスの半分がそれぞれの選択科目の授業室に一緒に詰め込まれることになった。書道が義務でなくても、美術が必修科目に組み入れられていないことに多少の驚きを茂樹は感じていた。また、自分の希望通りに美術を学べることに大喜びであった。
 この特別科目の教室は古い木造の平屋建ての建物にあった。そこに行くためには新築の校舎を西側にでて、一端外気に触れ、トタンで葺かれた木造屋根の狭い通路を、不規則に並んだ石畳を踏んで入っていくのであった。
 その授業で茂樹は初めてある女生徒を見た。ただ、護身術からすぐに自分にはあまり関係ない存在だと、魔物でも見るように思いを逸らすのであった。この高校時代に漫画家達成を祈願として念頭におく自分には、彼女は無縁であるべき危険分子であった。だいたいにおいて自分が晩熟であるし、チャンスもないことは分かっていた。また、女性とは縁が自分にはないことも分かっていた。縁があったとしてもたぶんなにをしたらいいのか次の一歩が茂樹には分からなかった。何もしてはいけないことだけが分かっていた。そこが自分と兄との違いであった。中学生の頃から兄には思慕の情を燃やしてラブレターを渡す女の子もいたし、学年で一番綺麗な女の子と一緒に並んで親しげに話しているのを見たことがあった。それに対して、茂樹にはデートとかキスとかは全く不必要な外国語であった。自分に関係ありうるとは考えたこともなかった。
 美術の教師は変な老人であった。教えるという気があるとは思えない態度を露見していた。仕方ないからやっているという感じであった。本当はこんな授業など担当するような俗人ではなく、我自ら高尚な芸術絵画を描きあげたいという態度が見え見えであった。せっかく自分が芸術、美術というのはなんであるのか学びたい気持ちでいるのに、この教師のために当て外れで、早くも茂樹は落胆しなければならなかった。
 とても怒りっぽく、なんか少しのことでも気に障るらしく生徒を怒鳴り散らした。しかもこの授業は茂樹が期待したものとは違ってしごく退屈なものであった。
 たとえば、ギリシア人の石膏像をいくつか置いて、その周辺に机を輪並びさせてスケッチをさせられるという授業時間があった。ただ唯一の甘く辛い刺激は、やはりそのB組から来ている女生徒の存在であった。ただ、茂樹の小グループにはその彼女の姿はなかった。彼女のことは気になった。しかし彼女をみたくてもわざわざそちらに顔を向けることが彼にはできなかった。ただこの痩せぎすで背丈のあり髪の毛が殆ど耳の周辺にしかない怒りっぽい教師の高い声で出席簿を取られた時に、彼女の順番が来ると彼は思わず息を潜めて全集中力を密かに聴覚に収斂させていた。教師が『いわもとれいこ』と呼ぶと、その後に続く彼女の声に耳を澄ませるのが茂樹の本当に唯一の愉しみになった。
 A組が教室の前半分の四列に席をとらされているので、彼女を見たくてもことさらに自分で後列を振り返らない限りB組の彼女の姿は見られない。しかも自分が座る列の二つ離れた真後ろなので斜めに盗み見ることもできない。だから彼女の声、ほんの僅かな「はい」という一声だけが『いわもとれいこ』全部であり彼女を象徴するもっとも近い近似値であった。そして、その彼女の声にも茂樹は驚かされていた。なんと綺麗な声なんだろうと驚かされていた。乱暴な少年っぽい声ではもちろんなく、鄙びた聞き苦しい声でもなかった。それは美声としか他にいいようのない響きだった。その声はとてもフェミニンで魅力的な音色を含んでいた。出席簿をとられるときのハイという音声以外ではどんな音色がでてくるのだろうかと、茂樹は想像力を搔き立てられるのであった。彼女の咽喉から流れ出る他の音声の組み合わせをもっと聞きたいと思った。こういう美しい声はこれまで聞いたこともないと思った。


 同じ教室にいるので彼女の姿や顔を見るチャンスは多くあるはずだと人は思うであろう。だが、思春期の潔癖と羞恥などのせいだろう、彼女のいるほうに視線を這わせることに大変な躊躇いがあった。大抵女生徒たちは先に教室にきていたし、だいたい固まって話をしていたので、他の女生徒の影になってこの『いわもとれいこ』を目にするのは無理であった。彼女の座っている席の周りには、どこか人垣のようにして他の女子生徒が集まっているようなところがあり、いつ視線をおずおずと投げてみても遮られて、殆んどその彼女の姿を見ることができないのである。
‎ 美術の時間は一週間に一度しかなく、いつも午後であった。午前中の多少緊張して受ける授業と異なって、昼食後と言うこともあり、幾分気持ちの上でも緩みが生じていた。
 茂樹になんらかの野心がなかったとは言えない。彼は一度早めに美術教室に席をとっていた。するといつも後ろに座るB組のこの科目を選択した生徒たちが教壇のある前のドアから一人、大抵は二三人でそぞろに姿をあらわすのであった。
 当然の成り行きであったが、自分の期待通りにことが進んでいると思うとだんだん胸の鼓動が高鳴ってくるのをどうしょうもなく感じていた。
 計画が成功しつつあった。そして、まもなく岩本『玲子』も思わず息を呑むような可憐な姿をあらわした。ところで茂樹は、自分勝手にこの漢字を彼女の名前と見なして当て嵌めていた。本当は、『麗子』かも、あるいは『怜子』かも『礼子』かもしれないのである。でも茂樹は彼女の名を『玲子』だと信じたし、その漢字の組み合わせが唯一気に入っていた。  
 玲子はいつも一緒にいるらしい女の子と戸口にあらわれ、自分の席につくために茂樹の左脇のテーブルの間の通路に向かってスカートの前の部分を左右交互に膝で僅かに揺らし、黒いストッキングの足を前に出しながら歩を進めてきた。その際、中年の小母さんっぽいクラスメートが先に立ち玲子を振り向いてなにか話しながら彼のテーブル付近を通っていくのであるが、玲子は聞き役に回っているために全く彼女の声が聞けないのであった。
 彼はこの通り過ぎる瞬間を捉えて上方に視線を泳がせた。そして彼女の顔をさっと盗み見た。それは自分としてはかなり大胆な行為であった。
 すると、この気配を察して、玲子の眉がぴくりと動いた。それは明らかに迷惑そうな拒否反応であった。そうとしか感じられなかった。
 茂樹はこの自分の行ったアクションにすぐに恥辱を覚えた。そしてとても悔やんだ。もう絶対彼女のことは盗み見もしないし、自分とは無縁の女生徒ということで頭から除去しようと決意するのだった。
 大体においてもとは男子校だったのである、学年で合計二百五十名の内、女子生徒はABCクラスに分けられているが全部あわせても僅か四十五名にも満たないのである。学校内という狭い世界では女子生徒はそれだけで希少価値であった。たとえ漫画しか念頭におかなかった茂樹にしても意識しないわけにはいかない存在であった。たぶん大学入試のための準備にきているだけだと誓っている多くの男子生徒にとっても無視は出来ない存在であったはずだ。ということは女の子に近づきたいなどという気持ちになってもチャンスらしいものがないのは男女構成の割合からみても自明のことであった。
 しかも、他の男子クラスに同じ出身中学の生徒を訪ねたときに、背丈のある外観の良いハーフかと思えるような美しい男子生徒や精悍なスポーツマンタイプの男子生徒なども見ていて、とても叶わないと思ったものだった。また、男子だけのクラスの生徒たちは露骨に廊下の窓から女子生徒を授業の休憩中に共学クラスのAのほうまで見にきたりしていて、かなり異性に積極的なのである。同学年だけではなく廊下から女子生徒を盗み見に来る生徒には上級生たちにもいて茂樹を呆れさせるぐらいであった。標準の背丈と体型の茂樹にこういう女子生徒の関心を自分に向けさせようとか、そんなことは全く不可能事といえた。ましてや玲子ほどの凄艶美を匂わせる少女においておや、ということになる。
 玲子のその拒否反応は恍惚となっていた彼にとっては、深く心地よい気分で寝ているところをいきなり猛烈な平手打ちで叩かれて覚醒させられた気分であった。しかしそれはかえって有難いというほどの気持ちになっていた。漫画家志望のレールに迷いなく再び戻れた気分だった。女の子は自分には関係ないし、そんな暇はこの目標の前にはない、と今度こそ言い切れる気がした。


 そんな決意の後に美術室で、茂樹にひとつの事件が起きてしまった。
 美術の授業が終了する時には、それまで斜めにしていた机の上板をもとの水平の状態にもどさなければならない。しかしその日は最初から茂樹のテーブルの蓋板は斜めになったままであった。前の授業で誰かが戻さなかったのである。もちろん、終わりに近づいた時点で左脇下にある金属製のネジを緩めてまっ平らの状態に戻せばいいだけの話である。茂樹は軽く考えていた。
 そしていよいよ美術の時間が始まり、諦めながらもやはり玲子の「はい」という声に猟犬のように耳を立てんばかりに聴覚を鋭くさせ記憶までしようとしていた。それからあとは惰性で退屈な授業を受け、いよいよ終わりに近づいてきた時のことであった。軽い気持ちで他の生徒たちと同じくいっせいに、ネジを摘んで回し、蓋の板を水平に戻そうとした瞬間であった。指に物凄い抵抗を覚えたのだった。つまり小さな金属性のネジが微動だにしないのである。思いのほか硬い。わざと誰かがペンチで堅く締めたのではないのかと猜疑したくなるほど硬くて動かない。
 テーブルは二つづつくっついていて右側に座る物は右下のネジをつまんで回せば良いのであった。茂樹の場合はその逆で、左手で左側にまわせば良かったのである。ところがいくら力を入れても溶接された一個の金属製の塊のようにびくともしない。指の先が白くなるほど力をいれても固くて回ろうとしない。それで、起立の号令がかかったときには、礼をしたあとに直せば良いと即座に判断し茂樹はみんなと同じ様に、しかし一息遅れて立ち上がった。が、前から二列目の茂樹のテーブルが傾斜したままであることを、この癇癪持ちの老人は見逃さなかった。
 「なんだ、君ィ。ちゃんと机を直しなさい」    
 教師の声には規則を厳守しない者への怒気が籠められていた。おまけにその投げつけられた声は、教室中に良く轟き渉り逃れようもない。茂樹は二列背後に立つ彼女にも自分が罵声を浴びせられている当人であることが分かるに違いないと思い、それが恥ずかしくて、机の左側に屈みこむようにして、一所懸命左の指でこれと思った向きに渾身の力を注ぐのだった。半分色の剥げだ、銀色の小さいネジを緩めようと頑張るのだったが、それでもびくともしないのである。とっさに、もしかしたら逆に自分が間違って締め続けているのだろうかとも思い、今度はネジを摘んだ二本の指先に全力を注いで逆方向に捻ろうとする。だが、やはり金属製の固まりは指の皮が裂けてしまうのではないのかと思われるほど渾身の力をいれてみても到底動く様子がない。茂樹は途方にくれる思いだった。すると、
 「左にあるときには逆にネジを回すのぐらい分からないのか」
 と思わぬ笑い声をこの老人が快活そうに上げたのだった。しかも茂樹の周りの生徒たちもそれを機に一斉に笑い声をあげ、教室全体にこの授業であがったことのない笑い声の大合唱が木造の建物の中で反響しガラス窓が微かに揺れるようでさえあった。
 彼はますます焦ったが、やむなく机から脇の通路に出て、左足を床につけ膝まづくと今度は右手の指で色の剥げかかった銀色のネジを掴んで乱暴に時計の進行方向に、そしてやはり効果がないので思いっきり左側に回そうとして、第一関節までの指の骨が折れるのではないのかと危惧されるほどパワーを滅茶苦茶その一点に集約させた。するとガタンと音を立てて上板が頑固一徹をやめてあっけなく動いてくれた。時計の正逆両方廻そうと力を込めてやっているうちに緩んできたのに違いなかった。茂樹はこの成功に気を良くして、右後ろに佇んだ状態でいるに違いない、玲子のほうに素早い一瞥を投げた。彼女は形の良い唇と鼻の前に小さな白い手をかざして綺麗な目を細めて美しく微笑んでいた。茂樹は彼女のその微笑を盗み見ることができただけでも、この事件は自分にとってかえって幸いであったと内心大喜びであった。
 教室の生徒全部が彼の失態を知らされて笑ったわけであるが、彼の頭の中では岩本玲子しか存在しなかった。彼女が見せてくれたその微笑で、玲子との間に一縷の個人的な絆ができたようにさえ思われた。彼女の微笑みが彼に僅かだけでも自信を芽生えさせてくれたような気がした。そして今度機会があったらもっと彼女をよく見て見たいという新しい欲望に衝かれるのだった。憧れることでさえも止め、諦める気持ちであったのに、その硬くあるべき殻はもうどこかに吹き飛んでしまっていた。 
 そして彼女と会う機会は意外と早く訪れた。

漫画を描く少年 3 女生徒のいるクラス

 女生徒のいるクラス


 この学年にはクラスが合計七つあった。最初の三クラスのABCには女子がそれぞれ十五人ぐらいづつ配分されていたが、ほかのDからGまでの四教室は完全に男子だけのクラスであった。そしてよりによって茂樹は女子クラスと一緒のA組に入れられてしまっていた。
 新しく良い香りのする教科書を手にしても、やる気はまったく起こらない。最初から自分が場違いの場所にいることは明白であった。
 自分のいるべき場所は漫画の描ける個室であった。インクの乾いていないケント紙を、張りめぐらした紐に洗濯ばさみで留めたその領域で、雑誌から切り抜いた写真を資料とし、これまで溜め込んできた案を絵コンテに視覚化し、それからインクを使って漫画にする真剣勝負のできる場所。そして自分に本当に必要なものは時間だと思った。自分の作品が醸成される時間さえあれば傑作を描き出してデビューできるのだとも思った。知識に関しては、すぐに作品に必要だと思ったものだけを、自分が選んで逐一熟読すればいい。そのほうが頭にも入るしとても効率的であるはずだった。よけいだと思える教材を、ましてや進学のための教科書などを勉強している暇な時間は自分にはないし、そのために自分の華やかな漫画界への登場が遅れると思い苦しむのだった。自分が生き甲斐としてやりたいことがあるのにそれに打ち込めないし、それどころかこの一番重要な思春期という才能の成長する時期に、世間体を考えて意味もなく通学しなければならないというこの矛盾状態のなかでこれから過ごしていかなければならないということは、随分自分が不幸な境涯にいるように思えた。世にすでに出て活躍中の重要な漫画家は、この時期にはすでに素晴らしい頭角をあらわしていたはずだった。
 そして茂樹にとってのもう一つの重大なプレッシャーは、もしこの高校生の時代にプロ入りとまでいかなくても漫画の世界に入れなければ、高校卒業と同時にもっとも憎悪する会社という社会入りを、自分がしなければならないという恐怖であった。そこでは、漫画が描けるという世界から、自分の軌道がより大きくはずれていくのはもう目に見えていることであった。勝負、そして茂樹の運命は高校を卒業する直前までに決定すると思えた。


 ただ、茂樹にも年相応の社会的なプライドと羞恥が残滓していた。漫画という彼が目指す世界のためには、余分な感情は頭の中で濾過し除去してきたはずであった。が、自分が生きなければならない学校という現実を無視することはやはりできなかった。
 なんとかやり過ごせばいいのだと思っていた高校生活であったが、よりによって女子生徒とミックスのクラスに入れられてしまうと、女の子の手前、学業をサボって劣等生に甘んじるわけにはいかないのであった。そのために茂樹も普通の生徒と同じように授業中は耳を傾けなければならないことになった。幸いなことに受験の時に右側斜め前方に座っていて可愛らしい頬を見せていたその女の子は他のクラスにいるようだった。すくなくともAクラスには魅力的な女の子がいないのでまだしも良かったと安心する思いだった。


 また、授業科目の中でひとつだけ彼に強い期待を煽り立てた科目があった。それは美術であった。きちんと美術を学ぶというチャンスがこうしてあるというのは茂樹には僥倖だった。それぐらいの道草だったら自分の漫画にもプラスになるのに間違いはなかったから。

漫画を描く少年 2 受験


 受験


 高校受験の朝、統合中学校から濃いグレーのバンに乗って、付き添いの無口な教師に随行され隣の大きな町である海棠市に運ばれていった。他の生徒は単語帳とか捲っていたが、茂樹にとってはこういう車に乗ることも初めてであったし、シティーと呼ばれる市街をみるのも初めてで窓外ばかりを眺めていた。普段、茂樹をガリ勉と決め付けていた背丈のある生徒がなにもしない彼を見て「余裕だなあ」と皮肉った。
彼には行きたくもない高校に進学すること自体が不本意であった。そんなことはこの生徒も先生も知りようはずがなかった。受験地への移動中、浅黒いちょっとした男前の中年の教師は寡黙な横顔をみせるだけだった。その顔はいかにも詰まらなさそうだった。仕事として振り当てられたからバスの中に座っているのだという表情でもあった。別にかれら受験生を励ますとか気を使うという様子は一切なかった。


 茂樹の住む茨城県下総の田園地帯では、それまであった結城群玄武町付近の五つほどの木造の中学校が一昨年ばかり前に一挙に閉鎖され、代わりに統合中学校として堅固な築造の団地アパートのような一つの校舎に纏められた。畑や田んぼの真っ只中に突然現れたひと棟の建物はとても際立っていたが、この海棠高校の校舎はさらに大きく、周りを睥睨できる丘陵に建立されていた。白亜の四階建て鉄筋コンクリートからなる三棟の建築物群だった。
 受験用に決められた教室に通されると、この日ばかりは寡黙で従順な中学生たちは、教壇に向かって縦五列に並べられた机の間の狭く細い通路を歩いて、指示された席に座った。出身中学校ごとに縦列に座るようになっていた。茂樹は玄武統合中学校出身の受験生としては一番成績が良かったせいだろう、玄武出身の中学生としては先頭に座らされた。前から三番目あたりに座っていたが、眼の前の背を向ける生徒は、他の中学校出身では最悪の成績の少年ということになる。しかしそのときには、そんなことを考える余裕も関心もなかった。ただ他の生徒がごそごそとまだやめずに、携帯してきた教科書や参考書をぱらぱら忙しげに捲っては、必死に呪文のように口の中で繰り返し年代とか英語の単語とかを暗記しようとしているのを見ているだけであった。男子生徒が多かったが、女子生徒も茂樹のすぐ右となりに何人か黙って分厚い本に眼を通していた。茂樹には受験に対する戦意もなく、教室内にどんな中学生が受験に来ているのかそんなことにも無関心であった。受験に落ちても良いとさえ思った。が、すぐにその結果生じる恥辱を思うとやはり合格しなければならないのだと眼が覚めたりもした。
 始まるまで、机に肘をついて何も置いていない人工ガラスでつやつやのテーブルの表面に眼を落とし、時々は自分の席より前に展開する情景だけに、ある種の脱力感を体に感じながら眼を投げやっていた。ただ彼のすぐ斜め前方に動く女生徒だけには早くも注意が余計に引き寄せられてしまっていた。もっと室内には女の子がいたのかもしれないが、他の受験生とは違う意味で全く関心はなかった。中卒後に自宅に引き籠って漫画製作に全精力を注ぐ猶予を与えられず許されなかった茂樹には、まだどこか立ち直っていないところがあった。この受験に臨むことでさえ一抹の敗北感を彼に舐めさせていたのである。


 だいたい男子の学生服はどの中学校も似ていた。が、女子の学生服になると微妙なファッションの違いがあるようだった。そんなことからもふと、右斜め前方の顔立ちの良い女の子の、見慣れない、それでもテレビ番組や雑誌で見かけたような濃紺の学生服姿をぼんやりと盗み見ていた。彼女の制服の袖先に見える白く並んだ指、そして参考書の紙面を捲るたびに動く腕や肘、そしてそれに応じて屈伸する背中や揺れる黒髪、また染みひとつない柔らかそうな頬と顎。その女の子はどこか垢抜けた美形に属するような綺麗な印象があった。最初の試験が終了して彼女はすぐに後ろの女の子に小さな声でちょっと安心したような笑顔を向けていたが、ふと顔を上げた茂樹とも視線が触れて、にこりと八重歯をみせ笑顔を見せていた。
 彼もこの子をチャーミングだと一瞥で感じた。だが、すぐに彼女が邪魔な存在であり、全く自分には、たとえ受験に自分も彼女も合格するようなことがあっても関係ないとどこかふてくされるのであった。むしろ可愛いとか美少女とかそんなクラスメートなど同じクラスや学年にいて欲しくなかった。こちらは落第すれすれの状態で卒業までの進級にありつこうという気持ちであり、早くもこの入学する前の受験日に机に向かっているのである。不美人な女の子に軽蔑されてもこの高校生生活は通していけると思った。だが、近くに素敵な女の子がいるのに、彼女の前で劣等生に甘んじるということは、かなり辛いことになるのが、もう今から想像できるのであった。
            
 進路指導


 海棠一高はいわゆる進学校といわれる高校であった。しかも、海棠中学校を中心とするその学校地区ではやはり成績の良い生徒の集まっている高校であった。彼と一緒に七人同じ玄武中学から合格して通うことになったが、入学してまもなく教師から職員室のなかの個室兼相談室のようなガラス仕切りの部屋に呼ばれた。
 それは生徒のための進路指導という面接であった。茂樹がドアを開けてはいると、その部屋には机を間にして椅子が二つ両側に置いてあるだけで、もう他に何も置けるようなスペースはなかった。茂樹はそこに壁を背にして座る担任の堀川先生の姿を見出して少し安心するのだった。彼だったら自分の複雑な立場を説明し本心を言える気がした。
 浪花節でも歌えるような厚みのあるガラガラ声の彼は、深く刻まれた皺を目と口辺で撓め笑顔で進路の話を始めた。自分の実力に適した大学を目的として定めることなどと教師は話してくれていた。聞いている茂樹には、無縁で余計で邪魔な考え方を押し付けられているような気分になるだけであった。すぐに彼は話を打ち切った。
 「僕は、大学に行くつもりはないんです」
 相手の小粒な目が皺の間から、思わぬ侮辱でも受けたかのように思いっきり開けられた。
 「でも、君は入学試験では、玄武町では一番成績が良かったんじゃないのかな…」
 堀川先生はそう呟くと黒く分厚い表紙に綴じた書類を、生徒には見えないように胸許に引き寄せて鋭角に開き、茂樹のことを念のために確認し見直しているようだった。そこに茂樹に対するイメージの齟齬が生じているらしかった。
 「中学生の時には、まだそれほど具体的には考えてなかったので…」
 と言いながらどう説明していいものかやはり茂樹にはわからなかった。入学したばかりの茂樹としては、周辺の新しい雰囲気に感覚を乱されているようなところもあった。それでまだ、それほど高校に入った漫画家志望生徒としての焦りを感じていなかった。だが、早く好きな分野でデビューするためにはもう今から始めなければならないという切羽詰った気持ちもあった。こういう複雑な気持ちは、先生なんかにわかるはずがないとも思っていた。
 しどろもどろに自分の置かれた状況の説明を試みる茂樹を眺めながら、堀川は意表をつくようなことを言ってのけた。
 「でも、漫画と言えば、手塚治虫なんかは有名大学をでて医学博士にまでなってるんじゃないのォ」
 椅子の背凭せにのけぞると痛快そうな笑顔を茂樹にむけていた。もともと小粒な目が筋肉の束のように盛り上がった分厚い皺のなかに埋没していたが、この時には彼の歪む口と頬を繋いだ皮膚が引き絞られ痛快そうに浮き出していた。
 手塚治虫がここで教師の口からでてくるとは茂樹には想像することもできなかった。
 「…手塚治虫は例外です。彼は天才ですから」
 かろうじて茂樹は応酬した。唇から零れ落ちた自らの言葉には崇拝の念が籠っていた。茂樹は一抹の羞恥と誇りをちょっと味わっていた。
 この生物を専門に教えている教師はしかし次の言葉で茂樹を再び打ち倒した。
 「良い漫画を描くには、広い知識とか深い哲学がなければ駄目なんじゃないのォ」
 茂樹の想像する高校の先生たちは、
 --なに、漫画だあ? あんた幾つになると今自分を思ってるんだ。もう十五にはなるんだろう、そしたら真面目に人生と取り組むという気持ちにちっとはならなくちゃいけない年頃じゃないのか……
 そんなことを言う人たちであった。ところが彼が茂樹と同じ土俵に立って親身な態度ともいえる口ぶりで対応してくるのにはただ閉口させられるのみであった。放たれた矢は確実に茂樹の患部を撃ち込んでしまっていた。高校生時代を大学進学にむけて勉学に励むことに対する反対意見も言い訳も自己弁護もできない痛いところを見事に突かれた気分で部屋をあとすることになった。


 クラスに戻る廊下をとぼとぼと歩きながら、茂樹自身も絶対的に崇拝している手塚治虫が、同じ様なことを『漫画のかき方』あたりでアドヴァイスとして書き記しているのを確かに思し出していた。それが彼の頭のなかで今の堀川先生の言った言葉に重なり幾度も奏でられるのであった。
 彼が直接師と仰ぐ横山光輝も、書籍を濫読した時代があったと雑誌に記していた。今のことを思い出すとやはり幾分の屈辱を覚えざるをえなかった。俊英たちと比較されても全く自分の助けにはなりませんと反論したかった。
 とにかく漫画界に早く登場しなければならない。そのためにはできる限りの環境を整えなければならない。そんな焦燥を覚える彼の頑固なまでの信念に、横槍が突っついてきて、そこに痛みと亀裂を感じるのだった。
 自分の能力のなさ、自信のなさを拭うためにより多くの時間が自分には必要だと茂樹は漠然と自覚していた。力がないからそれを補ってあまりある良い環境つくりが必要なのだということを彼は意識し、念頭においていた。自分の能力を十二分に信頼できれば、とりあえず大学に進学して学識を広め深めるなどという悠長な計画もたてられるのに違いなかった。しかし、そんな能力も余裕もないことは誰よりも自分が一番よく分かっていた。
 漫画の神的存在の名前をだされ二の句のつげないかった茂樹も、時間が経つにつれて自分を再び取り戻していった。
 天才ではないのだから、彼らの置かれた状況よりももっと良いスタートを自分はしなければならない。やはり自分は間違っていない。そう思うのだった。だいたい彼の両親は中卒は許さないが、大学進学などはとんでもない話であり、今起きたばかりの担任の教師との会話などは想像もできないことであった。
 この高校生活は外観だけは世間体を考慮して真面目に続けていくが、中身は漫画家になるために打ちこむことだけを考え努めれば良い。
 教室の窓ガラスを透して黄色っぽい陽光が力なく流れ入る放課後の時刻には、彼は間違いなくもとの自分に戻り、決意を新たにしていた。


 これから三年間、あるいは早くデビューできれば二年間どうやってこの意味のない通学をしたらいいんだ、という内心の焦燥の声しかもう茂樹には聞こえてこなかった。

漫画を描く少年 1 息子の願い

  漫画を描く少年


弓削部 諾


 息子の願い


 「……おれー、高校にいかないで、その代わり、家にいて漫画描くというのは、駄目……? 二年間とかじゃなくて、一年だけでもいいんだけど…」
 「そんなこたぁ、ゆるさねぇ。家にぶらぶらしてるなんてぇ、そんなふざけたマネはさせねぇ」
 茂樹が恐る恐る母親の顔色をうかがいながら言ってみた言葉であったが、やはりけんもほろろで最後まで説得できるようなチャンスはなかった。さすがに中学校三年生ということにもなると、小柄な母親の鉄拳ではもう息子の顔を殴ることもできなかったが、母の表情は殺気さえ帯びたものに豹変してしまっていた。それは小さい頃から知り恐れている怒った時の顔であった。
 そんなことをしたら絶対に容赦しないからなぁという言葉が次に母の歯の奥から唸り出るのが予感されたし、久しぶりに箒の硬い棒が振り回され顔といわず手足の骨の部分が滅茶苦茶に叩かれるのかもしれないとも思った。その時の痛みをもう身近に感じていたが、断られたことで彼には逃げる気力も抜けていた。だが、母は
 「……おまえがそんなことをしてみろ、近所がどんな目で見るんか…恥もいいところだ」
 と意外な理由をだして茂樹を驚かせた。その気の弱そうな母の根拠が、茂樹の中卒で学歴を終わらせるという決心を足元から瓦解させた。だいたい眼前の母が子供の自分に対して理由を言うとか、釈明を試みるとか、そんなことがされたためしがこれまでなかったのである。
 茂樹にとっての一生は、漫画しかなかった。それ以外には考えられなかった。だからできるだけ早いうちに余計なことに自分の時間を潰さずに白く堅いケント紙に向かって精魂を打ち込んでいたいのである。
 「いっ、一年間だけでもいいんだ。家から、一歩も外にでないでいるから…」
 それでも茂樹は力なく、母の意外と弱い反応に縋るようにして更に言ってみた。一年間という限定された期日を母が理解しなかったのではないのかとも思ったからである。だが、母はただ、この息子を唇を震わせながら睨み付けるばかりであった。前掛けをした体も腕もぶるぶる震えているようにさえみえた。すぐ近くに何かがあったらそれが自分の顔か胸に投げつけられると思い、一瞬緊張し、恐れた。それがされなかったのは本当に母の中で起こった感情的な葛藤の僅かなバランスの差であったと思えた。瞬時に茂樹のこの願いが真剣なものであるのと、箒の長い棒を振り下ろしても上手く避けてしまうし、一二度叩けても彼が手で握ってしまうということも計算に入っていたかも知れない。小学生のときまでは、握ってしまえてもできなかった。それをやってしまったらもっと恐ろしい母の折檻が第二波として自分を襲うと思ったからだった。だが、中学生にもなると殴られた瞬間の激痛を思うと、腕が動き硬く乾いた箒の柄を捉えてしまうのであった。


 息子が漫画を描いているぐらいのことは父母も知っていたはずだった。だが、こんな突拍子もないことを言うとは母も想像したことさえなかったのだろう。午後まで玄武町の機織り機が五台ほどある零細工場で働き、仕事から帰宅してご機嫌のよさそうな時を窺って茂樹も言葉にしてみたのであった。
 部屋に退いた茂樹の脳裏には、彼の告白を聞いて怨恨に凍りついた母のその時の表情が煮凝っていた。そして父の帰宅する時刻までがとても不安で長い時間に感じられた。それは執行猶予とも言える緊張した時間でもあった。父の帰宅は大抵午後九時半過ぎであったが、その時刻が自分への判決と刑の執行と感じていた。
 それまでの彼はどうしょうもない虚脱感とただ空白な時間を感じて待つばかりであった。自分の身でありながらそれを自由に処する権利も能力もまだなかった。一人ではどうにもできない境遇にあることを彼自身がよく理解していた。労働と言えば新聞と牛乳配達ぐらいしかこれまで経験していなかった。結論としては労働と言うものは自分のやりたくないことをしなければならないこと、それが生きるための手段という理解であった。だから労働しながら漫画を描くということは到底自分にはできないことだと思った。いろいろなことを取りとめもなく考えた。が、結局それは同じ様な思いが空転するだけであった。
 夜になり仕事から帰ってきた父は、今にも口答えをするようだったら殴るような憎しみを湛えた表情でつかつか近寄って来た。息子の体はもう父親と同じぐらいに成長していたが、体から放たれるその気配の強度や密度が全く違っていた。父は柔道三段で贅肉のない筋肉の塊であった。父はこの変り種の次男坊に、一言だけ底にこもった声で一喝した。
 「あまりかあさんを困らせるようなことは言うな」
 父が戦中は昼間は働き、夜は高校に通っていたことを母から聞かされて知っていた。そして母は小学校五年までしか行ってないことも彼は思い出していた。
 二十歳で終戦を迎えた父は一徹な人間であり、しかも怒った父の鉄拳を避けるような力は茂樹にはまだ、いや後になってもずっとあり得なかった。ぴったり七三に分けた髪にも大きな目の周りにも薄い汚れがまだついている父の表情を盗み見ながら、彼はすぐに大人しく頷いていた。
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 戦争という異常な子供時代をすごした両親が言うのである、それを茂樹は察してあげなければもちろんいけなかった。二束の草鞋というどこかで聴いた二重生活だけが茂樹には残されているようだった。それしかないらしかった。上手く行けば途中でプロになって高校を退学すればいいのだとも思った。その時には親も納得してくれるに違いないと思った。


 玄武町の総合中学校出身の成績の良い生徒は同じ地区に属する下総一高に入るのが慣例であった。茂樹は僅かにひとつ下のランクに位置する県立海棠一高を受験することにした。下総よりも海棠一高のほうが漫画のための余裕ができると思ったからであった。
 さすがに受験が迫ってくると、それまでやっていた新聞配達や牛乳配達、そしてキャディーなどのアルバイトはやめることになった。一番最初にやめたというか辞めさせられたのはキャディーであった。玄武中学校から禁止を受けたのであった。そして牛乳配達のほうは自転車で毎朝配っていたが、あまりにも重量があり道が凍てついた冬の時期には何度か茂樹は牛乳ごと道路に横転して大事な商品を幾本か壊してしまい、急ブレーキの凄まじい音を軋ませる白い氷の滓をつけたタイヤを眼前に見たこともあった。あとで道に冷たく張った氷で顔を擦ったその引っかき傷に気がついて、命拾いをしたことを実感したものであった。車に轢かれそうになったことはさすがに両親にも言えなかった。また、牛乳泥棒に盗まれてしまったことで苦情を受けたこともあって、それを機にこの危険なアルバイトを辞めることにした。ましてやその泥棒が同じ学校の生徒であるのも見てしまっていたからでもあった。
 やがて受験が近くなると新聞配達も辞める事になった。もともと茂樹がこういうアルバイトを始めたのは、働くということの実感を経験したかったこともあったが、小学校五年生ころから自分の成績が良くなってきて大分周りのクラスメートから非難を受けてしまっていたので、ガリ勉でないことを証明するために始めたことであったから。やめるのに躊躇いはなかった。