蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 14 最初のチャンス

 最初のチャンス


 体育の時間に指を切ってしまった生徒がいた。茂樹は教師から指示され、それまで一度も足を踏み入れたことのない、保健室にドアを開けて同行した。
 教室の半分ぐらいの広さの室内には、陽光が直接射し込んでいてとても明るかった。茂樹でさえ、たとえガラスの戸棚に入っていても、こんなに薬瓶が暖められていいものだろうかとすぐに疑問に思ったぐらいだった。そこには、自分の年をとても気にしていて、なにかと言うと、
 「あら、こんなことを言うのは年のせいかしら」
 と口癖のように言う、白粉の濃い肥満気味の初老の女性がいた。保健室にいる唯一の看護婦兼医者であった。髪は一様にムラのないブリュネットに染められていた。しかし顔は塗り込めて白くても皺だらけであった。目の辺りも皺が凝縮していてギョボーという感じの大きな目つきで入ってきた高校生二人を診断でもするように見た。と、同時にきつい消毒液が茂樹の嗅覚を襲った。それを最初、この保険の先生の香水だと錯覚した。
 この部屋には、同じく独りっきりの女教師である仁平先生がいて、楽しい会話をこの茂樹たちに中断されたらしくまだその頬には笑みが残っていた。明るい色のツーピースのスカートを身に付け、体のお尻のあたりを、硬いテーブルの横のへりに凭せかけていた。そしてそこの椅子にはそれまで初老の保険の先生が座っていたのであろう。
 学校中で女二人が過ごせる唯一の部屋がこの保健室なのであろう、仁平先生の姿は古典の授業中の教室の中では見たことのない寛いだ姿勢であった。二十代前半の彼女は茂樹たちに顔をむけるとすぐに微笑みかけてきた。あたかも生徒たちがここに遊びにでもきたかのような歓迎の笑みであり、優しさが溢れるようだった。そしてテーブルについていたために痛みを感じていたのか、その両の掌をちらりとひろげてみるとすぐに両手をあわせては擦った。その掌の中に、茂樹の目は薄く紫色に滲んだ線を認めた。そして彼女は続けて凭せ掛けていたお尻を軽く固いテーブルから引くと、その手でちょっと臀部を上からさすり下ろすように撫でつけた。あたかもそこに押されて出来てしまった薄紫の横の溝を引き伸ばすとでも言うような仕草をした。それは一瞬のことであった。ここでは生徒の眼も気にせず娘っぽい存在に彼女も変身していた。それは自然で新鮮な姿であった。
 初老の看護婦が指の手当てをしている間に、意外にも彼女は茂樹に
 「結城君は優しいから友達もたくさんいるんでしょう」
 と話しかけてきた。数人の男子生徒の顔が浮かんだが、でも、あれは友達とはいえないんじゃないかと躊躇った。
 「うーん、そうでもないですが」
 「でも、女の子たちが結城君のことをよく話してたわ……」
 彼女は大きな目の瞳を輝かせて、頬に笑窪さえ作って彼を悪戯っぽく覗き込むのだった。彼女の雰囲気が、鉄腕アトムの妹のウランに似ていると彼は思った。
 「それは、僕にはまったく縁のないことですね、ほんとにそうです…」
 こういう意外な話題に、彼は驚かされまた照れた。
 しかし、その意外性は更により高い方向に急上昇していくのだった。
 「イワモトさんなんかは、可愛いし、どう思いますか」
 「……」
 この意外すぎる名前が、茂樹には、すぐには玲子のことだとは、この時には思えなかった。また理解できても今聞いた言葉の意味が信じられないのだった。
 自分の岩本玲子への秘めた情熱を古典教師の彼女が知るわけもないし、ただ唖然とするばかりであった。
 そして数秒置いてもまだ、それが自分の聞き間違えではないかと思えるのだった。
 茂樹はなにも反応できず、あたかもこの言葉が聞こえなかったかのような態度さえとってしまっていた。
 もしかして岩本玲子から頼まれて先生が自分に伝言してくれているのでは、とも一瞬思えた。しかし、そんなことはありえなかった。だが、先生が玲子を可愛いと思ったから、自分にお勧めしてくれているだけだとも思えなかった。
 彼女はばつの悪いことを聞いてしまったと思ったのか、言葉につっかえている茂樹に横顔をみせ、同行した生徒の手当ての具合に目を移してしまった。
 仁平先生が窓の黄色っぽいカーテンを引いて直射日光を遮ると、室内は落ち着いた雰囲気に変わった。戸棚のガラスのなかに整然と並ぶ小箱やガラスの瓶に入った錠剤も時の経過が停止したように、いつまでも使用されることなくその中に閉じ込められているように見えた。消毒液の匂いも清潔な白く塗られた壁面から微かに滲みでているようだった。そして窓外には明るい清らかさを含んだ秋の気配が近づいたような雰囲気がある。


 実は、もうずっと前に古典のこの先生を好きだとクラスメートたちに告白したことがあった。孤独な学校生活においてなにか支えになるものが自分には必要だと感じていたし、やはり恋に恋する思春期に彼も入っていた。だが、ごく近くに接近することのできる女性はこの古典の先生以外にいなかったし、他の女子生徒とは話をすることもなかった。人恋しい気持ちをある程度満たしてくれるのが、この先生へのちょっとした恋心であったのだと思う。そんな気持ちを持つ男子生徒は茂樹だけではもちろんなかった。
 またこの気まぐれな告白を面白がって女教師に伝えた生徒もいたはずであった。
 そして当の本人から、唐突に学年一位の綺麗な玲子はいかがと言われても、自分の深いところで蠢いている恋心がまさにその岩本玲子にあったと古典の女性教師に告白するわけにもいかなかった。
 「あなたは自分にとってただの漠然とした憧れとしての女性像を象徴するだけの存在で、それだけで自分は満足して、本当の愛情は岩本玲子だけに最初に出会った瞬間から注がれていた」とはおくびにもだせなかったのだ。