蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

読むに耐えない無価値な日記です

●●2007年0330
 この日というか、真夜中を過ぎているので実際には31日であるが、わたしはこの日にMskyさんが尋ねるというのに、赤い折りたたみ式のイスを自室から居間に持ち出し、自室にはバルコニーから比較的しっかりしたイスを据えて、環境かえをおこなった。
 居間の赤いイスには最初にVistaのラップトップを据えて、そしてインターネットを性懲りもなく試みてみた。やはり駄目だった。MMで15ユーロでやって貰えることがわかったが。そのあとはCompaqのラップトップを据えた。すると結果はテレビからどうしてもはなれることのできない怠惰なわたしに適した環境設定になり、見過ごしが無いように、見過ごしがきになってsひょうがないわたしにぴったりの状態が整った感じだ。
 碌にテレビもみずに、わたしは思いついたこと、書き残したいことのノートがそれで始まったかんじである。
 もちろん真の精神集中とはなっていないだろうけれども。読書が群衆のなかや、路上でも車中でもできて、そんな読書のなかでのほうがよく記憶に残っているとかいう伝説と同じなのかもしれない。執筆環境、妙なものが私の場合にはできたことになる。XX歳になって5週間目に及んでである。Saさんのような若さではまったくない。でも手遅れではないだろう。ならないように努力し、このような環境改善の仔細なきづかいが必要であろうか。



 Jhaさんから写真が金曜日に届いた。20070330である。最初は4月の上旬にNKKから享けた仕事のあいてなりーかとも思ったが、それもわたしが記録を怠っていてカレンダーに書き込まれていないそれかと考えたが、違っていた。そこにはJokさんのデジタルカメラで撮られた写真ということがかいてあり、印字の原稿のほかに手書きで減量を頑張ってくださいとあった。確かに三葉の写真を見ると、どれを手にしても眼鏡を取って目を近づけてみても肉饅頭のように膨らんでいて、どうしようもないようなありさまだった。もともと写真をとられる場合にはT子さんが言っていたようになるべく真ん中に自分を配置することが肝心であるようだが、わたしは不幸にもこの小さな団体写真ではいつも端っこに座っていた。というよりも自分が被写体になっているとはあのカメラの位置からは想像できなかったのだ。入っていないと思っていた。幸か不幸か撮影の瞬間には瞬きをした瞬間なのだろう、目を閉じた状態であった。
 目を開けていた写真がJimと二人で映っていたが、それもアンパンのようで少しも救いになっていないし、やはりXXkgという体重は肥満そのものの何者もあらわしてはいなかった。写真は嘘をつかないだろうから。


 Jhaさんにお礼のファックスを送るつもりで手書きをしようとしたのであったが、逆にラップトップに書いてそれを手書きでしてみようと思った。sおのほうが纏まっているはずであるから。


 「Jha様 お心の籠もったお手紙と写真を3葉有難う御座いました。 九日のような二次会を持ったのはいままでわたしとしては初めてのことでしたが、これも良かったという気持ちでした。今回は皆さん随分一人当たりの持ち時間の長かった自己紹介で、物凄く私などは緊張してましたが、あのとき申し上げた「セミナーのあるたびに行きたくないと思いますがいった後はいつも出席して良かったという気持ちになる」というようなことを付け加えましたが、勘違いされないようにここであのときの意味をちょっと申し上げますと、「Guさんたちいずれもほぼ同じ気持ちかと思いますが、NKKの方々とはおっかなびっくりでも今後の為もありますし、ゼミナーの内容は凄く勉強になりますのでお遭いしたいのです。ただし、あまりGuさんたちとは顔を合わせたくないという気持ち」です。それでもその不快感、危惧を克服してSich Ueberwindenして出席したということです。また、それをビジネス的に当然の試練として同じ室内に同席連座することを求めるNKKの貫禄はやはり凄いものがあるものです。決して嬉々として集合はしなかったレーツレルシュタットGuです。彼ら、彼女たちが馳せ参じた理由はNKKの皆様へのご拝謁を賜りたいという気持ちひとつにかかっているとも思われます。」
 二次会ではHaにウェイトレス役の目立つ役割、いろいろ気の聞いた人だという特権、そいう印象を後々までNKKの方々の潜在意識に残る特権を許してあげたようなもの。わたしがやりますとか、私にやらせてとかあそこで始まっていたら見苦しいことになったはず。それをわたしなどは気がついてはいたけれども、それ以上にそのような見苦しさ、浅ましさを避けたかった。それでHaの見せ場になったわけだ。
 熾烈な闘争、苛烈な闘争、陰湿な攻撃などなどがあり、そのなかで生きていかなければならない。Saさんはまさにその中に防備も免疫もなく登場したようなものだ。傷つけられる前にどんなことがされ得るか、その可能性を箇条書きで書き記し贈っても良いのだが、文学をやっているのだから、自分ですべて新鮮な体験として受けたいというのかもしれない。その辺はわたしには忖度するしかない部分だが。
 優越感を持って帰国されるお客様? それはあまりにもわたしがカッコ悪いから。ということで私みたいなものは必要。


 ショックであった写真。Haに見せ場を取られたGuたち。三月というのは冬眠期間の最初ならまだしも最後にあたる部分でもあり、つまりもっとも運動不足で太ってしまっている時期でもあり、Na女史のように定職を持っていないGuたちの場合には最も困る時期であった。毎年もっとも一年中で肥えた季節にその醜態を雇用者の方々に曝してしまうことになるのである。あの写真に写った自分の顔は、顔というよりはアンマンという感じでした。実はグループ写真の時には自分が映っていないと安心していたのですね。しかも瞬きしていたようですし、撮影する人が佇んでから実際にシャッターが降りるまでずっと目を開け続けているのは、私には難しいみたいです。あれは意識的に目を瞑ったわけではありませんでした。
 童顔だと言われていた自分でしたが、この写真から醸し出される印象は、生後3日間というものです。精神を絶対視し、身体を粗略に扱う者は、たぶんそれが為に身体から滅びるという可能性が大だと思います。それは年齢とともに留意しなければならない、青少年時代の盲点であったかと思います。肉体的な呪縛から精神は自由ではないのですね。依存していて、それだからこそ健全な精神は健全なる肉体に宿るという信条を座右の銘にして自殺して果てた作家もいるわけですね。身の養生が大切なことでもあることを藤原定家も念頭に置いていたということです。
 この写真についまだ考察しなければならない。せっかくJhaさんがおくってくれたものでもあるし、お返しの言葉を書く機会が訪れたとも言えよう。
 若い時には男らしくないとか、女みたいだと言われたことがあり、私自身が認識する自分と他人が初対面で受ける印象と大分異なるということ、それは以前から知っていた。以前のJueが帰国されるというレーツレルシュタットセミナーの時には、その彼からはっきりとホモかと思ったと食事会(EC内の中華レストラン碧玉)で面と向かって笑いを交えながらいわれたものだった。この年齢と肥満して男の子の魅力みたいなものを喪失したいまになってもまだそういう印象を同性たちに与えるとは思いもしなかったことでしたが、実際にまだそういう雰囲気というか条件があるのかもしれない。色白、朗らか、でもさほどスタイリストではないけれども、一応スーツなど着てあらわれるので、ホモ的なおしゃれにも見えてしまうだろうか。言葉使いは洗練されたようなものを心がけてはいて、いわゆる粗暴なところ、これが男の特徴と見る人から見たら、そういうものは避けている。M関係であったか、あのときにもやはり、本番でやってきたTlが、それもわたしからみたら野村正紀型の一重瞼の決まった男らしい、そいういい男にはいるのではないかと思うのだが、その彼がわたしに妙な嫉妬なのか、あるいは本当に、たぶん本気であったと思うが、ホモと見なしたうえで差別的な言動をした。トイレにたてば化粧直しでもしてきたのか、と小さな声でその場の席にいたほかの人に言うような、ひとり呟くような言い方で物を言ったし。また、わたしの特にはっきりしたほうの内二重瞼を見て、二重瞼の整形でもしたのかと聞こえるような聞こえないような、つまり独り言のような言い方をふと何気ない瞬間に、通り過ぎとか仕事をしていてどこかに向かう最中にふとわたしに向かって言っていた。これは嫉妬も含まれた、わたしとある程度美男子と認めたうえでのライバル意識があら捜しとデフォルメし、そしてホモ視し、その上攻撃という変化であろうと思う。


 31日の朝から始めたこの居間にラップトップを置いてそしてテレビ病み付き症候というか、それの対策として始めたわけだが、執筆はお手のものという調子でできるようになった。ただ、テレビをやはりほぼつけっぱなしで、いわゆる妥協の中途でもあるので、過渡期なの書き始めの時のテーマからあとのほうではちょっとかけはなれてしまう。