蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

🐿️シューマン ⑱ 森の情景

蝦夷リスー岩本れい子大ファン


シューマン 「森の情景」 作品82 リヒテル Schumann “Waldszenen”2



シューマン:子供の情景 作品15 2

🌠指の故障

ウォーカーによれば、おそらく1830年にヴィークのレッスンを受け始める前からシューマンは右手の不調に気づいていたという[162]。 その1年後、1831年の「自伝的覚え書き」にシューマンは「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と記している[65]。 1832年にヴィークがクララの演奏旅行に同伴してライプツィヒに戻ったときには、シューマンの右手はまったく使えなくなっていた[162]

シューマンの指の故障について伝えられているのは、シューマンは指の動きを均等化するために指の1本だけを吊りながら演奏するという機械装置を独自に考案し、右手の第4指ないし第5指の腱を傷めたというものである[65][163][63][52]。 しかし、シューマン自身がこのように説明している記述はどこにもない[65]

指の訓練機械について最初に触れたのは、ヴィークである。彼は1853年の著書『ピアノと歌』で「その指の訓練器は私のある有名な弟子が私の意に反して発明し、密かに使っていた。そして当然のこととして、第3、第4指を痛めてしまったのである」と述べている[65]。 ヴィークはこの弟子がシューマンであるとは述べていないが、後世の解説者たちはこれをシューマンと結びつけた[65]。 さらに、シューマンの四女オイゲーニエが父親が第3指を縛ってつり上げ、他の指で鍵盤を弾いたと述べたことで決定的となった[65][163][注釈 30]

1889年、シューマンの研究家フリードリヒ・ニークス[注釈 31]がクララに会ってインタビューしたところ、クララはシューマンが故障した指は右手の第2指であり、固い無音鍵盤で練習したのが原因だと語った。ニークスは、それまで知られていた説と矛盾するクララの証言について、70歳という老齢による錯誤であろうとして信用しなかった[65]。 しかし、80年後の1969年、ライプツィヒ市の資料室からシューマンと軍司令官との間に交わされた未公開の書簡が発見された。シューマンは1842年に軍隊入りを志願したものの、手の疾患のために兵役免除となっていた。書簡にはシューマンの主治医ロイター博士の署名入り診断書が添えられており、右手の人差し指と中指が悪いと記されていた。これは、クララの証言を裏付けるものである[65]

1971年、イギリスの音楽学者エリック・サムス(en:Eric Sams)は、少なくとも一般的に知られているような形でのシューマンの指の「事故」はなかったとし、シューマンは水銀中毒のために運動機能に回復不能の症状を来したと仮定した[65]。 19世紀当時、梅毒の治療には広く水銀が使われており[65]、この間、すでに述べたように1959年にスレイターとメイヤーの共同論文によって、シューマンの死因が第三期梅毒であることが指摘されていた[65][159]

音楽

自分の掛替えの無い青春、初恋、愛妻物語など回顧的な傾向