🐿️中森明菜 ⑧

🌠人物
生い立ち
父は埼玉県志木市の出身で、本家は11代まで遡れる家であった[22]。志木市には20軒ほどの中森家があり「中森村」と呼ばれていた[22]。母は満洲国の首都であった新京で生まれ、母の一家は終戦により日本へ引き揚げてきた[22]。母が都内で働いていたときに父と出会って結婚し、明菜ら子供をもうけた[22]。明菜は「家族の小さなアイドルだった」と父は語っている[22]。
明菜は、幼少期に身体が弱く病気がちであった[211]。清瀬市立清瀬中学校を卒業後[33]、大東学園高等学校へ進学した。デビューに際し明治大学付属中野高等学校定時制へ編入後、芸能活動に専念するため休学[212]を経て中退した。清瀬中学校の担任教師は明菜について「無邪気で人懐こい子だった。修学旅行のバスの中ではずっとマイクを握って歌っていた」と述べている[20]。
明菜の生家は大田区池上で精肉店を営んでおり、一家が清瀬市へ転居した後も父は池上の店舗へ毎日通っていたが、明菜のデビュー後はファンが遠方から店に訪れることも多く、父は肉を買ってくれたファンに中森のサイン色紙を贈っていたという[22]。1990年代に池上の精肉店を閉店し[213]、埼玉県三芳町へ移転して中華料理店を経営していた[213][214]。また、母も中森のデビュー後に地元の清瀬市で飲食店「ミルキーウェイ」を経営していた[15]。中森が歌手を目指すきっかけを作った母は1995年6月10日に死去しており[215]、両親の店はいずれも閉店している[22]。
スター誕生!
『スター誕生!』テレビ予選3回目(1981年)の挑戦で、山口百恵の「夢先案内人」を歌い合格した[25][26]。
1回目(1979年・中学2年)のときに岩崎宏美の「夏に抱かれて」で同番組に初出場。その際には審査員の松田トシから「年齢のわりには大人すぎて、若々しさに欠けますね」と酷評され不合格となる[26][216]。
2回目(1980年・中学3年時)の挑戦で松田聖子の「裸足の季節」を歌ったが、またしても審査員の松田トシから「歌は上手だけど、顔がとても子供ぽいから無理ね。大人の歌を歌うより、童謡でも歌ってたほうがいいんじゃない?」と前回とは逆の酷評を受けた[26][217]。中森はこれに対し「『スタ誕』では童謡は受け付けてくれないんじゃないんですか!?」と抗議したため[217][26]、客席で見ていた母が「明菜、やめなさい!」と制止した[26](松田は出場者の中でも中森に対しては特に辛辣であったと言われる)。
3回目の出場時、『スター誕生!』チーフ・プロデューサーの金谷勲夫は、明菜が番組の常連になっていたため、スタッフのからは出場に難色を示す声も出たという[218]。しかし3回目の時の中森には、1回目・2回目の挑戦時以上に光り輝くものが見え、美しさの中にも翳りが感じられ、強く推して出場させたことを語っている[218]。司会の坂本九は前回の松田トシとの応酬を覚えていたのか、歌に入る直前の中森に対して「今度は少しほら大人っぽく行っちゃおう」と励ました。
点数は、阿久悠:75、森田公一:70、都倉俊一:85、松田トシ:63、中村泰士:99の合計392点。中村は明菜を高く評価し、本当は100点満点をつけるつもりだったが、ボードは2桁までしか入らないため99点になった。審査結果発表の前に、中村は100点満点をつけられないことをスタッフに抗議しながら、他の審査員4人の様子を探るも、全員の評価が低いことを知り、明菜を合格させるよう必死に説得した。その結果、4人は渋々明菜への点数を上げ、合格に至った[219]。
デビュー当時
デビュー当時のキャッチフレーズは「ちょっとエッチな
デビュー当時のプロフィールでは、身長は160センチメートル、血液型はA型。体重は58キログラムほどあった。
デビュー直後に行われた豊島園での歌謡ショーでは、雨に降られ濡れながらも、毅然としてステージに立って歌った[30]。
明菜がデビューした1982年はアイドルの当たり年で、この時期(1981年10月から1982年9月)にデビューしたアイドルたちを総称して「花の82年組」または「花の57年組」と呼んだ[221]。同時期には、新井薫子、石川秀美、小泉今日子、嶋大輔、シブがき隊、原田知世、早見優、堀ちえみ、松本伊代、三田寛子、薬師丸ひろ子、渡辺徹(五十音順)らがデビューしている[221]。
また、アイドルやタレントを多数輩出したことで知られる明治大学付属中野高等学校定時制(2003年廃止)のクラスメイトには、三田寛子、本木雅弘、薬丸裕英、布川敏和らがいた。
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