蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

2024-02-17 土曜日

2024-02-17 土曜日


 午前7時とか、9時半には起床した。起きた直後は頭の中がグレイで、虚無的な雰囲気しか書斎にも感じない。落ち込むような気分には浸りたくないので、やはり日本のニュースやYTでスマップなどのバラエティー番組を視聴したりしてしまっている。そしてそのような番組を見ると、創作はもちろん日記さえからも気持ちは遠く離れてしまう。金土と日記を記してない。ただし、あの訃報は書き記さなければならない。しかも、誰にも言わないでいたのに、Nさんにわたしが二度死んだことを話してしまった。これは後悔している。広まって貰っては、流布しては困る個人的な事実だから。仕事が入ってこなくなったら一環の終わりだから。


 NPに昨日と引き続き行った。昨日は一箱20本のラーデベァガーを買った。キステ箱が券売機で通らないのでレジのトルコ人?の男性に言うと、彼も時々できないことがあると言って、素直に1,50ユーロくれた。もつところが両方とも割れていたのがたぶん理由だと思った。どうやったら割れるのかと思った。とても丈夫そうな箱だから。


 そして土曜の今日は、自分の冷凍庫のパンパンな状況を、いや、状態を忘れてしまっていて、ホットウィングㇲ、久し振りにアイスクリームなどを買ってきた。冷凍庫に全部はもう入らないので、今日は無理して食べた日になった。もっとも、二週間以上も前に煮た大豆なども冷やしていれてあるし、二年以上も前のグミもいつたべることもなく冷凍してある。おそらく食べ始めたらまた胃腸の弱い私は下痢をするのにきまっていた。
 それから、YTで、またスマスマで北川景子さんが食べていた餃子が目についた。驚いた。いままで何度もこのスーパーに入ったがこんなところに餃子があるというのを発見したのは今日が初めてだった。どれか一つをと思ったが、いくつか種類がもちろんあるのに気が付いた。誰も背後からせっつく者はいない。わたしは落ち着いて、サブタイトルを読んだ。ヴェちたリアンとか、キムチ味とか、スパイシー超辛などを読み取った。スパイシーだったらわたしの胃腸はイチコロなので、ちゃんと見てよかったと思った。


 帰宅して早速冷凍庫のために、衣つきの魚、キムチ味の餃子を焼いて食べた。韓国のものはやはりわたしの胃腸には辛すぎるので避けたかったが、スマスマが良く韓国味料理を作っている。それが頭にあったので食べたくなっていた。そんなに量も食べてはいないせいか、10時間後の今現在、下痢は起こしてない。
 アイスクリームもスタバの大きなカップに二杯。


 晩になって、烏賊を解凍して食べた。ずっと外に置きっぱなしにしていたのだが、氷がなかなか解けずにいたので、お湯に突っ込んで解凍した。西洋山葵、醤油で食べたが、やはりゴムっぽい。やはり日本の寿司屋の烏賊とは触感がまったく違う。あの味を求めて買ったのだったが。


 糖尿病のせいでベットに横になりたくなった。午後八時頃だった。 
 目が覚めたのは日曜の午前1時半だった。
 04:39 2024-02-18

2024-02-03 土曜日 節分 恵方巻 東方超市

2024-02-03 土曜日 節分 恵方巻 東方超市


 朝八時半に鼻血がでた。止血するのに20分はかかった。チリ紙を小さく割いて左の鼻の穴に差し込んだが、すぐに白い紙が暗赤色に重く濡れそぼった。それを三、四回繰り返した。久しぶりの鼻血だった。鉄剤の服用が多すぎたのかとも思ったが、昨日は三錠で普通の量だ。
 でもこの鼻血のあとで横になっても呼吸が楽になったような気がした。


 二本のニュースをネットでみるようになり、初めて今日が節分だということや恵方巻という巻き寿司があることも知った。


 ヴィルマ―スドルフに出かける前に、食べておかないと危険だと思うのデ、半パック納豆ご飯を食べた。そして8錠の薬を嚥下した。9時45分だった。
 十時半ごろには家をでて、15時には帰った。abゾーンの切符二枚使用した。
 最初にラートハウスノイケルンでbcbで誤って100ユーロ下した。自動機種が別なものがその位置に置き換えられてあったので、口座状況を知りたいだけだったので、二か月前のようにやってみたらそんなドキュメントを印字するための言葉がモニターには全く出て来なくて、まぁいいかと思って100だけ下ろしたのだった。
他の機種で口座状況を印字で来た。
 そして再びu7号線でヴィルマ―スドルフ駅に向かって揺られていった。もうこの時にビスマルク通りは諦めていた。そこまで行くと一駅徒歩で戻らなければならないからだ。ちょっと前までは何でもない距離だったのだが、今は、それさえも気になる。
 最初にフーゲンドーベルに行き、ドイツ語で二階にあがる。すると、三島の仮面の告白はあったが、送り返したと言うのであった。メールで2月3日までとちゃんと確認も受けているのに、だれかが送り返してしまったということだった。
 また、来月の第一土曜日にくるということを話し、今度は感熱紙のレシートも貰って東方超市に向かった。
 烏賊二袋、納豆4パック16セットほど、黒ごま一袋、焼きのりと醤油を買って帰った。75ユーロぐらいはする量だった。一割引かれるが。それでも高いと思ってレシートをみると、烏賊が一袋9ユーロ近い値段だった。


 ルードーに戻ると地下鉄駅からでている372号線がちょうど去るところだった。20分に一本なので、雨もよいのなか、ハッキッキというケバブ屋が近くにあり、一つ買って帰ろうかと思って近づくと、値段が7ユーロになっていた。この前も6,5で驚かされたばかりだった。たしかコロナ前は3,5か4ユーロだった。ちょっと呆れ腹立たしくもあり、やめた。和食の食材も仕入れて来たところでもあるから、いいや要らないと思ったのだった。カレールーも大を二箱ほど買っていた。
 19時半と1時にアイゼン剤を飲んだ。
16:37 2024-02-04
                         なんとなく、という感じで頭に浮かんだことを書いた。片鱗、断片創作方法だ。すでにこの片鱗だけでも執筆するという考えは実行にも移されある程度の促進に成果を上げているということが分かっているのに、wの仕事をi村に回すとか、sYさんにわたしの健康状態とか、その顛末をドイツ語で書いてメールするとかやっているうちにわたしは執筆モードではなくなってしまっていた。十日間以上も創作はできなかったかと思う。
 今日は、日本レストラン『ウメ』をなんでも良いからと言うラフな姿勢で、頭に浮かんできたものから書き記し始め、お蔭でちょっと書けた。嬉しい成功感覚だ。eRFOLGSGEFUEHLというやつだ。ただ、怠惰すぎる性格から、ジョインで映画は視聴録画したりしているので、ぽっと浮かんだ情景も文書に書き表す前に胡散霧消してしまう。
 努力が僕はできないという西村賢太なんかは、午前1時から朝の5,6時まで創作を布団のなかでしているという話なのだが、とても立派な態度と言わなければならない。
 いつか、もっと数年前には午後11時から朝の五時までとか彼は執筆時間について語っていたが、良いことだ。書ければ深夜から早朝でもなんでも良いのだ。そう思う。
01:36 2024-02-11

2024-02-16 金曜日 古さんの訃報

2024-02-16 金曜日 古さんの訃報


 午前6時半起床。  
 野菜スムージーに白ご飯を混ぜてフライパンで十二分に焼いたものを食べた。やはりあとで、下痢っぽくなる。


 正午過ぎにあまり待たしても不味いと思い、Nさんに電話した。普通の声音の声だった。ちょっと暗くさえ感じられた。
 昨日はI村に電話をしたが、彼は簡単に古さんとは喧嘩をしていると言って拒否的な反応であった。メールもNさんからは受けたないようだった。
 たぶん、古さんが孤独を病んでいるので、みんなで代わりばんこに見に行ってあげましょうと言う感じの慈善行為への呼びかけだろうとわたしは思った。メールには具体的なことは一切書いてなくて、古さんのことでとしか書いてなかった。そのへんが言いずらくて言わなかった感じで、金も健康でもないわたしはどうやって断ればいいかなと思いながら、でも、まったく方法が浮かばずNさんに電話をしたのだった。
 彼女からは行き成り、古さんが死んだという話を聞かされた。
 わたしはその訃報を聞いた瞬間、生理的なショックを受けた。
 体に怖気が走った。
 身の毛がよだつ気持ちだった。
 ソットした。
 この時の生理的な気持ちはこの三つの言い方でしかあらわせない。本当に不意打ちにあった感じだった。Nさんのはなしだと心臓が原因で亡くなったというはなしだった。甥のGが数日前から来ていて面倒をみていたらしいが、彼が不在だった数日間は亡くなったまま家に横たわっていたらしかった。警察を呼んで開けてもらって死を確認したらしかった。
 そしてこの金曜日の午前中は火葬、荼毘に伏したらしかった。焼かれる前に死に顔をNさんは見たようだった。わたしだったら、見ないだろうと答えた。その姿があとあとまで瞼の裏に残ってしまうからだ。だが、怖いもの見たさでやっぱりわたしも見てしまうかもしれないとも思った。
 そんな古さんの話がされたこともあり、K.LさんはいつもKchiさんと一緒に行動していたが、なにかご存知かと訊ねたがNさんはなにも聞いていないと言う。すでにIむらさんから二年ぐらい前だったか彼女がKchiさんと一緒にはいなかったことを聞いていて、とてもわたしは気にしていた。
 それから、誰にも話してないのに、とうとう2022年の5月の『生と死の狭間で』の個人的な事件を離してしまった。わたしがおそらく睡眠中にカリフォルニアホテルを歌ったママさんのように心筋梗塞を起こしたことから初めて、救急車を呼び、ステントの手術の二日後あたりに退院となったが、タクシーがないのでクリニックの玄関口でどうやって帰ろうかと考えているうちに、なんの痛みも感じずそのまま無意識の透明とも言える世界、死の世界に落ちて行ったこと。玄関口で気を失ったというのはわたしの僥倖であり、奇跡的な幸運だった。二度死んだが、蘇生処置のエレクトロショックを受けて助けられ、目が覚めた時には、病室のベットに横になっていて、明るい笑顔でやってきた医者に今日がいつか知っているかと聞かれ、2023年の……とわたしは朧に答えていた。曜日もしっかり覚えていなかったのであった。三週間コマ状態であったということだった。それから女医のランカスター仮名だが、が小柄でチャーミングな顔を見せ、特別な思いでわたしの面倒をみたようなことを呟いていたと思う。わたしを蘇生してくれたのは彼女であった。
 それから二発留置手術を行い合計三つのステントがはいり、ヘアツシュリットマッハーも左胸の皮下に埋め込まれたこともNさんに話してしまった。
 4,50m置きに歩くときに休憩しなければならなかったのも最近、というか二日前から500mは通しで歩けるようになったことも話した。400mかもしれない。
 出血多量で、鉄剤を飲んで10日間ほどでほぼ全快したことも話した。
 彼女は電話番号を求めた。言おうとしたらメールに書いて送ってと言われた。
 ずっと立ちっぱなしで電話をしたあとベットに横になった。
 10分もすると、I村にこの訃報を連絡しようとしたが留守番だった。それから夜になって再び電話をして、わたしとしては珍しく
 「仕事だった?」
 と彼に訊ねた。羨んでいるようで、そんな質問はしたこともないのだが。
 彼は、
 「いや、違う」
 と言った。I村は嘘は生きる術という信条の人であるので、真実はわからない。もちろん、わからなくてもそれほど重要ではないことだった。
 訃報を知らせても、「俺は、喧嘩してていたし、俺にはなんの関係もない人だ」
 とはっきりした口調で片付けていた。本日が火葬であり、N.H、Kchi,などが来ていたということも話した。
 「あんたも行ったんかいな」
 とお道化た利き方を彼をした。また、いつ亡くなったのは、はっきりした死因はと私に聞いた。知らない、そこまで聞いてないというと、
 「駄目じゃないかそこまで聞かないと」と言われた。


 遅い晩にMarleyとケイト・ブランチェット主演のジャーナリズム・スリラーというのを別室のベットに横になって背筋を伸ばしながら録画だけした。


 Nさんに、66歳でこの世をさるところだった。死に際なのに、走馬灯のように自分の人生を眼前にすることもなく、自分の体を囲む医師や看護婦の上に自分が浮かんで蘇生処置の様子を見たと言う記憶もなかったことを話した。そしてなにもやってないのに、あのまま死ねないとわたしが言うと、Nさんは簡単に
 「まあ、無理でしょ」
 と言った。もう、無理でしょではなく、この言葉だった。この「まだなにもやってないし、遺してない」
 とさえわたしが言ってしまうと。もちろん、頭のすみでは幾つかの認められてない創作も今は書き残している感じなのだということがあったが、Nさんはすかさず悟ったように
 「んん、まあ、無理ですよ」
 と現実的な人なのか、そんなことをぼそっと呟いた。
 Nさんは73歳ということだったが、I村は78にはなろう。だが、I村はわたしと同じで『HとH』を最終的には文法の間違いをドイツ人にチェックして貰うとしてもドイツ語で執筆しようとしている。彼の口吻では、まだ資料集めだけみたいで、草稿もはじめたのかどうも怪しい状態だが、あの年齢なのに私と同じで大志は頑固に頂いているようだ。
 生活保護を受けていて経済的には楽な状況に自分をおいているI村なので、作品創作と完成への可能性は高いと思う。
 ただ、執筆は始めてから資料収集などとは異なった能力と努力が必要になるのだが、彼はまだその壁に突き当たってもいない。始めてもいない。そんなふうにしか見えない。
04:13 2024-02-18

2024-02-15 木曜日

2024-02-15 木曜日


 私の自宅からリヒテンベルクの僻地のホテルまでどのように交通機関を利用して行けるのか調べたいと思った。そしてスマホを探したが、なんと見つからなかった。見つからないなどと、そんな馬鹿な話があろうかと思ったが、今のところ探し出せない。
 アーテではラブファンタジーだろうか
額から頭頂まで禿げ上がった5,60代の
髭面の男と20代後半の若い女性との裸体
が頻繁にあらわれる映画が放映されている。
 原作はフィリップス・ロスだという。
 この作家の名前を耳にしたので興味半分で
で視聴する気持ちになったのであるが、
フランス語で、ドイツ語の文字幕であるので、
碌に注意もしてないわたしには内容は
分からない。だが一応録画はしている。みることはないと思うが。
00:30 2024-02-15


 マレーネに関してこれまでにも書き記した部分があるはずなので、シュパイヒャーの中から探してみた。この検索の作業だけでも、ちょっとわたしのなかに餅が形成されつつあることが分かった。こんな作業も創作の役にたつのだと感心した。だが、もう深夜だ。できるなら昼間活動する癖をつけたいので、一応パソコンはオフにしてベットに入ろうと思う。
01:27 2024-02-15


 7時半に起床した。

2024-02-14 水曜日

2024-02-14 水曜日


 午前五時半起床。仕事は収入のためにしたいがその期日までまだ23日間あることにちょっと安堵する。約二週間近く創作にあてる時間が一握りあるということを意味するからだ。


 『22歳○○』でウルツンにもどってきたシーンを描こうとするのだが、わたしはあの頃の情景をリアルに思いだそうとしている。順不同に、雪かきをやらなければならなかったと言うチーフ、パリに行ってきたということで羨ましがるシェフィンの顔や声があった。だが、どちらがさきだったか。思えばどちらが先で摸あとでも良いことだったが。
 問題は、このころの思い出から、わたしの頭が嘔吐と下痢のせいで完全にはなれてしまっていたことだろう。そんな現況では40年前の思い出などが浮かび形を成すはずもなかった。


 昨日のYTでは、2023年に亡くなった人々というタイトルのもとで纏められたものも視聴していた。脳梗塞とか心筋梗塞とか、また呼吸困難なことも原因で死亡した芸能人もいたので、人ごとではなかった。でも、碌にまともに歩けなくなった私には、スポーツなどはレベルが違うことなので、とりあえず徒歩、散歩を頑張りたいと思う。そして仕事もしたい。
 あたまに浮かぶ、もう常にといっても言い過ぎではないほど浮かんでは消え再び現れる『ガ○○戦』にとりかかっても良いかなとも思う。が、すると同時に売れっ子でもないのに三本ほど執筆を試みることになる。やったこともないくせにやりすぎだろうと流石に思う。
 06:23 2024-02-14


 『22歳○○』と『日本まるまる』は同時執筆ということで自分の枠を弛緩させているが、思えば『ガ○○戦』も、もうかなり前から書きだしてはいた。ただ放置している時間がとても長い。それは後回しにわたしがしていたということなのであるが、この三本はいずれも長編だ。しかも、『ガ○○戦』においては、粗筋さえまだ完成してない。どうしてもこの作品のなかに愛をさしはさみたいのだが、どんなキャラクターをいれるべきかわからない。やはり妻をいれるべきかともおもうのだが、それでは読者にとってつまらないのではともおもってしまう。妻にしてしまうとすでに愛は成就しているので、緊迫するものもそこにはあらわれない。
 この作品はエンタメと思い、また、フィクションもちょっと多めにしたいと考えているので、つまりなれないことを盛り込もう、やろうとしているので、それでなくてもリアルに、眼前に見えるように描くのは大変なことなので、断片的には書けるが、全体の一部として片鱗に取り組んでいくと言うのはちょっとあとで纏めて書き上げるわたし自身に対してあまりにも無責任かなと思う。
06:48 2024-02-14


 約二時間『22○○』を書けた。それ以上はどこかげんなりした気分になってしまって気分転換が必要になり、スーパーのNPに行ったり、ちょっとドイツ風の朝食をとったりした。プチパンを二つ半分に切って、買ってきたばかりのバターを塗り、玉ねぎと茹でハムを挟んで牛乳をちびりちびり呑んで食べた。バターを食べたこと自体が久しぶりのことだった。数年ぶりのことだ。そして炭水化物をたべたことで、あとがひいてしまい、買ってきたベルリーナ、つまりパンケーキ、別名パンクーフンも三個ほど平らげてしまった。
 あとは、YTで、やはりスマップなどを視聴してしまっていた。日本のニュースなども。
 I村に電話をした。留守番電話だった。だが、彼はそういうふうにはセットしてないと言っていて、電話の調子が悪いと不思議がっていた。二言目にはわたしが半世紀遅れているとスマホとかアップに関して嗤っていた。
 たしかに、健康保険費をただにしてしまったところは彼の執念と努力としか言いようがない。9ユーロの定期券の獲得にも脱帽せざるを得ない。
 それらが手に入ればどれほど経済的にわたしも楽になるかと思う。
 J社から三月に二人の教授だろうか、お客がくるらしかった。ただし、ホテルはリヒテンベルクのコンフォートで大分遠いし、夕食トランスファーもしなくてはならない。これは午後10時はもちろん、11時を過ぎるかもしれないと思った。Syさんはわたしが済んでいるところとこのホテルが近いと看做しているようだが、交通の便は良くない。一端アレクサンダー広場まで行そこから幾度も乗り換えなければ行けないホテルだともういまから考えられる。だが、わたしに他の選択肢はない。受諾するしかないのである。あとは、タクシーの使える時刻がいつだったか確認しなければならない。
 ということで、今日は一応創作もできたが、わずか二時間のことであった。
00:19 2024-02-15