蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 28 再会


 再会


 卒業して就職先も厳密に選びもせずに、教師に勧められた職場に入って二ヶ月経った。最初はヘッセのように近くの町の本屋で仕事をしようと思っていたのであったが、将来性がないとすぐに教師に否定されて東京の製本会社に入れられた。
 左翼関係の出版社に入った大林とたまに手紙のやりとりがあったが、その彼から巌清水出身の高橋や眞鍋も来るからということで集まって気楽に食事でもしようではないかと誘いがかかった。
 高橋も眞鍋も浪人中であるということだった。
 小柄で坊主頭に黒縁眼鏡をかけた大林が口数はいつものように少ないが、一番やりがいのある人生を送っているという意気込みに満ちていた。背の高い眞鍋も相変わらず大人しかったが、二人とも、社会にでて仕事をし始めている茂樹や大林に、引け目を感じているようなところがあった。自分たちは親の脛をまだ齧っていて、しかも浪人していてだらしがないと自己批判をしきりに繰り返していた。茂樹にはそれが良くはわからなかった。
 高橋は、そんな自己の甲斐性のなさを喉仏を動かして訴える一方、同級生で同郷の鼻の長い感じの女の子の名前をだし、なんとか性的な関係をもてないかと、そんな悩みを話していて、茂樹たちを笑わせ驚かせた。


 彼らが住む巌清水市から海棠市に住む大林の家にその晩は一泊する予定であった。彼らは巌清水三叉路まで見送りに来てくれて、海棠市行きのバスを待つことになった。
 彼にとっては僅か二ヶ月ほどではあったが、そこはある種懐かしさと切なさの籠もる通学用の分岐点であった。
 夕日が濃く赤く完熟した物体に凝固し、その周囲の山々や針葉樹の多い樹木に崩れながら沈んでいき、白雲を忽ちのうちにピンクとうす青に染め上げていくなか、懐かしく和ましい気持ちに茂樹は解けだしていた。
 三叉路で彼らはみんな降りて、たちまち垂れこんだ夕闇のなか、黄色く闇に滲み出す街灯の下で次の乗り換えのバスをまっていた。すると、二人の小柄な影が向かい側のバス停にちょっと動くのが見えた。
 彼女たちの姿を朧にバス停近くの街灯が浮き上がらせていた。家屋の背丈のある垣根や植え込まれた樹木で周辺が暗闇に包まれていて、二人の姿がちょうどあの岩窟の聖母のようであった。手前に佇み瞼を伏せていた女の子に、茂樹の注意力が激しく吸い寄せられる。
 「イワモトだ」
 高橋が小声で咽喉仏を動かして呟いた。茂樹は自分の耳の能力を疑った。まさかと思った。彼女は田舎風の赤と緑とピンク色のチャンチャンコみたいなものを羽織っているようだった。
 「今は、姉さんの洋服店の手伝いをしているんだ」
 再び情報通の高橋が補足した。茂樹は、ただ、彼女が自分と同じで進学しなかったんだということを理解した。
 茂樹はスーツを着ていたが、ちょっと自分が都会風にみえるかなと自信が少しもてていたせいだろう、彼女のほうに視線を投げやった。好奇心と懐かしさと、それから自分の中に抑えられていた長い間の憧れ、思慕がもう抑え切れなかった。
 玲子も茂樹のほうを見やっていて自然な微笑みを浮かべていた。在学中と違って、抑圧から解かれたような和やかな微笑みだった。
 玲子が自分のほうに求めて視線を送ってきたのはこれで二度目ではなかったかと思った。胸が内部から温かくなってきた。頬が熱くなってくるような気がした。
 漫画を捨ててはいない。でも今は玲子のほうが大切であった。
 今度はこのままで黙ってしまうような、去ってしまうようなことはしないと自分に言い聞かせた。今度こそはこの微笑まれたチャンスを逸しはしないと決意した。
 友人たちのちょっと揺れる気配をよそに、茂樹の足が一歩彼女の立つバス停に向かって踏み出していた。