蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

ハートのネックレス。不安定な脳裏に浮遊させ執筆を自分に強いる方法

昨日は妻から贈られたハートのネックレスについて短編か掌編がかけると、その銀鎖を指の間にしながら、ハートのなかの彼女の写真を見ながら確信もし、一番わたしのもつノートパソコンのなかで性能の悪いのを開いて書き始めていたが、途中で食事をしたのがいけなくって、そのままになってしまった。そのときには落ちというか、終わりをどのようにすべきか忘れていた。


最近は、終わりがなんとなく想像できるところで、それを書き留めずに頭のなかに浮遊させるということをしていた。つまり終わりまでノートしてしまうと、それで一応決着がついて、あと書く気が失せてしまうからという私の性格のためであった。
しかし、これもよくないということがこのような忘却という能力不足という点からも、駄目だということが判明した。
3っつも4っつも頭の中に、入れておくのは私の頭脳ではできないことが分かった。当たり前だろうと言われるかもしれないが、いずれにしても、執筆するための工夫であったのだ。
そんな、工夫があるかとおもう人もいるかもしれないが、上記の事情で、結論までノートしちゃうとそれで終わってしまうということからの改善策でもあったのだった。救えない怠惰といえる。あるいは、真剣に文学を考えていないのじゃないのかと叱咤されそう。