蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 17 戯れ歌

 戯れ歌


 帰りのバスは立ち席は許されず皆が安全上着席していた。だが、相変わらず組ごとでも男女別にも分かれてなくて、校門前に帰るために集まっていた生徒からどんどんやってきたバスに乗り込ませていた。しかも一人用のシートに二人、また二人用の座席に三人座っていたりしていて、バスが揺れるたびに不安定に通路に落ちて笑ったり、また体で外側の生徒を落っことしたりして笑うのである。
 下総市から海棠市までの車中、最初はごもごも勝手な会話が隣同士でなされていたが、そのうちに、ハミングする男子生徒があり、そして
 「そっれ!」
 という音頭が後ろから上ったかと思うと、忽ち声高に茂樹のしらない破廉恥な歌が合唱され、バスの中で木霊した。
 それというのもほぼ真ん中に六、七人の女子生徒が固まって座っていて、彼女たちを特別に意識して始まったのだった。男子生徒だけだったら白けてそんな歌詞のある歌声はでてこない。
 第一楽章らしいものを聞いていると、たぶん部活で歌われる戯れ歌でもあるのだろう、メロディーはどこか日本の田舎か地方の民謡にも聞こえたが、茂樹や他の生徒はもちろん女の子たちが聞き取れた歌詞は、どこかとぼけた調子でリフレインされるひと言だけであった。
 彼らは三度も四度もその
 「つっこめ! つっこめ!」
 という言葉を繰り返し、繰り返すたびにその合唱の声は大きくなっていくのであった。
 この妙な抑揚に茂樹も笑いを誘われたが、このバスに岩本玲子が乗ってなくてよかったと思った。
 それまでは先生が前に座っているとは知らなかったのであるが、仁平先生がやむなく笑顔を作って自分の置かれた立場を誤魔化しているという感じで、それは女の子たちも同じ態度でこの恥ずかしい破廉恥歌をやり過ごそうとしていた。
 おもむろに背の低い担任の堀川が深い皺をおでこに三四本刻んで、そしてその中の目を松葉のように細くして笑いながら振り返った。彼も前のほうに座っていたのであった。
 「おいおい、楽しくていいのは歓迎だけんど、その歌だけはちょっとやめてくれんかな」
 それで笑う生徒もいたが、与野が
 「ほら、だから俺がいったじゃねえか、それだけはやめろって」
 それを傍で聞いていた茂樹は、この与野の言い方が彼らしいと思った。彼が首謀者の一人であるのを疑う者はいなかったであろう。でも、教師の手前、責任逃れを早くもやりおおせているのであった。


 与野を中心に悪餓鬼たちの悪戯は再び沸々と煮立ってきているようで、なにか後ろから相談するような話声が低く聞こえる。
 バスが何度も横揺れしていたが、茂樹の後ろから前に進み出て、前のほうに座るほかの生徒のほうに移動する子がいた。そちらに遊びに行くのか、窮屈でも横に詰めさせて座りに行くのかと思えた。ところが移動途中で
 「おっ、ごめん」
 と言いながら、通路側に座っている顔立ちの良い女子生徒に体をぶつけているのであった。
 それが成功すると背後からやはり低い声で
 「やったやった。あいつはうまいよ」
 という声が笑い声とともに聞こえた。
 その女子生徒が、高校入学試験の時に茂樹の右斜め前に座っていて、笑窪をみせて愛想の良い雰囲気の女の子だった。茂樹の二つ前に彼女たちは集まって座っていた。綺麗な彼女はこの悪戯のなかではターゲットそのものであった。彼女は頬を薔薇色にそめて隣の女の子たちとおしゃべりを続けていた。彼女はその中では軸になっていた。周りの女の子は耳を傾けるか、彼女を中心に常に話しかけていて、それは無声映画みたいでもあった。
 戯れ歌が禁じられた後では、彼女たちも自分たちが自然発生的にバスに乗り込むときに作った孤島のなかで、自分たちの会話を交わし、また黙って乗っていた。平常に戻った感じだった。ところが与野や他の男子生徒が自分たちの席を立ち、ちょっと前に出てきて近寄っては彼女の肩に触れて、ゴミがついているとか呟いては戻るという、大胆な行動をとり始めるのであった。それは茂樹を多少なりとも驚かせ、この行為を奇妙に思わせるのだった。肩を触れられたこの女の子は
 「えっ」
 とちょっと驚いた顔を見せ後ろを振り返るが、ニコリと笑顔を作ってまたおしゃべりに戻るのだった。その時にちらりと茂樹の顔を一瞥し、笑窪と八重歯を覗かせるのであった。実は何もついていなくて、男子生徒が自分を触ってきただけだと言うことも、彼女にはわかっているような気配があった。
 「おい、結城、お前も触れよ。そんな近くにいるのに、勇気ねえな」
 後ろから銅鑼声で与野が狐っぽい顔をむけて茂樹にけしかけてくる。それが聞けたに違いない彼女の顔が幾分後ろに傾き、睫が瞬かれるのが茂樹の視界にはいった。そして、再び微笑に戻る。
 バスが揺れて、小さい背丈の顔がつやつやの生徒が揺れてしょうがないなと言いながら、少し前にでてきてやはりその彼女の背中に触れた。彼女はそれでも微笑みを保っていて、やはり茂樹のほうを盗み見るように半分ちょっと振り向くようなところがあった。  
 もしかしてちょっとだけだったら触れても大丈夫なのかも知れないと茂樹の頭を誘惑が掠った。彼女はこのバスの中では一番チャーミングな少女であった。
 「おい、お前、そんなすぐ後ろにいて何だよ、ぜんぜん意気地がないなぁ」
 また、後ろから囃し掛ける声が続くのだった。
 好川もすぐ隣に座っていて呆れ返っていた。
 「おまえ、ほんとにだらしねえな。なんにもできねえのか」
 と言って、何もついていない彼女の肩を腕を伸ばして簡単に払うのであった。
 「ちょっとゴミがね。あれ、気のせいかな」


 この好川はかつて中学三年生で莉奈子とペッティングを卒業したと言っていたし、また、茂樹と同じ出身校の瀬山とも同じことをしたと笑って話していたことがあった。
 面白い物で、そんな経験が少しもない茂樹には、そこに一線を超えてしまった破廉恥行為と性犯罪臭を嗅いでも、それ以上のことは実感として何も理解できないのであった。
 「それって、脱いで?」
 思わず茂樹は得意になって語る好川に聞き返したものだった。彼は問わず語りに
 「当たり前じゃないか。そうしなくちゃBと言えないじゃないか。だがよ、もちろん、そこまでで、その先はなにもしてないけどな」
 と何度も繰り返しその先を否定していた。関心もなく実際の感覚として感情移入もできない茂樹はただ、その二人の女生徒の顔と学生服姿を思い浮かべただけに過ぎない。彼女たちが好川の前で服を脱ぐとか、そんな姿を想像することはまったく不可能であった。
 バスが揺れるちょっとした拍子にとうとう茂樹も彼女の背にサッと触れた。女の子に触れてみたいという気持ちにもなぜかなっていた。彼女はちょっと振り返り、それが茂樹であることを確認し綺麗な目でぴったりと見つめ唇を撓めると、また何も言わずに笑顔をつくって、また前に顔を戻した。茂樹はそこに、触られて嬉しいと感じている彼女をそこに見出した。この僅かな動作が、茂樹が自ら生まれてはじめて行った女性への働きかけであった。思えば、彼女は受験で近くに席をとったときから茂樹のほうを気にしていたようなところがあった。
 あとは、彼女たちももとの女の子たちだけの会話に戻り、男子生徒もバスのモーター音や風を切る音の繰り返しと、適当な揺り籠のような揺れのお陰で寝入るものもいたし、そとの景色をぼんやり眺めるだけというものもいて、生徒の声は徐々に薄れて行った。