蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 16 ライバル学校

ライバル学校


 下総一高は海棠一高と兄弟高である。そしてそれと同時にライバルでもあった。だが、それは海棠周辺の中学校から入った生徒たちがそういう意識を抱いていて、茂樹たちの玄武統合中学校出身の生徒たちにとっては少し意味合いが違っていた。ちょうどこの二つの人口の多い大きな街の中間に位置する玄武町では、一番良い成績の上澄み十人ほどが下総にいき、次の十人ほどが海棠の高校受験に挑戦するのが習慣になっていた。ただし、茂樹の場合には高校はやむなく行かなければならない場所であり、実際には漫画家になるための巣窟として一時的に体を預けているだけの場所であった。だから、中学校時代にむきになって勉強している同輩とは、別の学校にしたのだった。
 「おまえ、意気地がないな。おまえだったら下総に入れたじゃないか。もっと成績の悪かった奴だって入れたんだから」
 入学後、近所に住む小学校の教師の息子であり、ガリ勉で肥満児の広山が、中学で成績が悪くても下総の入学試験にちゃんと通った生徒の名前をあげて、茂樹の意気地なしぶりを非難した。しかし茂樹としてはそれは痛くも痒くもないことであった。彼にとっての高校は次の大学に行くためのものではなかったから。


 旧市街地区の玄武駅付近に、細い川が流れていたが、それに面した古い木造家屋を借りて茂樹と家族たちは住んでいた。
 茂樹はすでに小学校五年生あたりから、中学校に入ったら本格的に漫画をやろうと決心していた。だが、そんな部活は中学校には存在しなかった。他に自分も漫画を描けるという名乗りを上げた少年がいたが、その実力も落書き程度のものでしかなかった。道子という子も漫画を描いていたらしいが、仲間として女の子と一緒に描くということは考えることもできなかった。中学生の時にもうすでに茂樹はひとりっきりで漫画家を志望する孤独な存在であった。
 統合中学の校舎が、茂樹たちがはいる一年前に完成していた。校舎の屋上に聳える銀色の天文台を入学時に見て、すぐに天文学部に入ろうと茂樹は決意していた。サイエンス・フィクションあたりの漫画を描くにはもってこいの環境だとすぐに思ったからだった。ところが望遠鏡もなく、ただの飾りだと中学校の先生にまもなく豪快に笑われただけであった。入学後も卒業後も望遠鏡が入ったというニュースを聞くこともなく、屋上は常に立ち入り禁止であり、ドアはいつも閉まっていた。本当に飾り以外の何ものでもなかった。
 スポーツ関係の部活は多かったが、茂樹が魅力を感じるクラブも別になく、まっすぐに帰宅しては、畳に寝そべっては浮かんだ漫画の案をメモしたり漫画本を読んでいたりした。
 一週間分の小遣いはたった一度の買い物で彼は全部使っっていた。毎週出版される少年マガジンや少年サンデーのために一度で支出されるのであった。茂樹はそれを貪るように読んで中学一、ニ学年を過ごしていた。
 妙なことに中学に入ってから、聞いている授業を面白いし興味深いと茂樹は感じ始めていた。そして彼の成績も、授業を聞いているだけなのに、周りの生徒からガリ勉の疑惑を受けるほど、だんだん良くなってきてしまっていた。漫画に興味のある背丈の低い少年からは
 「勉強ばっかりやりやがって、もう漫画に興味がなくなったんだろ」
 と勝手な憶測を言われてしまうのだった。そのたびに茂樹は
 「勉強なんか、やってないよ」
 と力なく答えていた。
 また、小学校時代から成績上位であった、酒屋や機織り屋そして小学校校長の息子たちが茂樹の陰口をたたくようになった。つまりこれまで小学校では大した学力でもなかったのに中学校で急に成績があがったのは、ガリ勉に変じたのに違いないという濡れ衣であった。確かに小学生のときの成績は良くなかった。平均以下であった。しかしその原因はあとで考えてみると、まず二回も転校していたことがあった。埼玉県の川口で小学校に入り、二年生で茨城県に移り、やがて同じ玄武町の山奥の小学校から数ヶ月もしないうちに鬼怒川沿いの旧市街の小学校に父の仕事の関係で転校を余儀なくされたのであった。そしてもう一つの重大な遠因があった。  
 幼年時代に遡ると、彼の世代ではもう幼稚園に入るのは当然なのに、彼は入園しなかったのであった。他の小学生がとうの昔に「わ」や「ね」の区別がつき、「あ」という難しいひらがなを書けるのに、茂樹にはそれがとても難しいように感じられたのであった。しかし、ほとんど彼一人を除いてみんながすでに書けるし、読めるので茂樹は置いてきぼりにされてしまい、次のページでもやはり彼だけが初めてみる難問が待ち構えていた。童謡なども一番彼の覚えが悪かった。茂樹という生徒は、把握が遅く、女性の先生からも赤い添削用の太い鉛筆で頭を叩かれることもあったぐらい鈍いと思われていた。小学校に入る前に、他の生徒は幼稚園ですでに学び終わっていたか数年間もよけいに予習をしていたのであった。
 小学五年生あたりになるまで、普通の成績の子になるために随分時間がかかってしまっていた。長い間、茂樹自身も自分を愚かな生徒と見なしていた。


 中学二年生になると、あまり誹謗中傷を受けるので、やる気もなかったが卓球部に一時期入部した。が、面白くもないのでやがて退部せざるを得ない羽目になった。やりたいことは美術関係であったが、そんな部活は中学校ではまだなかった。したがってぶらぶらするしかなかった。


 そして、期末試験が翌日に控えていた午後のことだった。怠惰な茂樹は、いつも土壇場になってから教科書でもみようという気持ちになるのであったが、その彼を、この三人の優等生がいきなり一緒に野球でもやらないかと、もうグローブからソフトボールの大きいのを抱えて訪ねてきたことがあった。
 これまでに彼らと遊んだことも稀だったし、ましてや三人揃って試験の前日の遅い午後にやってくるのは初めてのことであった。
 三人ともブラスバンド部に入っていて、それで話が決まって茂樹のことも誘いに来たというふうにも頷けるが、もしかしたら自分たちはすでに明日の試験の予習を終えて、その足で茂樹の意表をついて勉強させないように、二の句も告がせずに遊びに拉致しにきたのではないかという感じであった。
 鬼怒川の広い河原の砂の上で四人で二組に分かれてソフトボールをするのであるが、この日、守備に立っていた茂樹に、そのなかの機織り屋の息子がいきなり飛び上がって膝蹴りを顔面に食らわせた。左頬の骨に、全体重を収斂した膝蹴りを食らわせられたのであった。気を失うような猛烈な痛撃に、茂樹は瀕死の動物のように砂浜でのたうち回った。目の前が痛みのために吹き出た涙と砂で見えなくなっていたが、周りから
 「ごめんな、ごめん」
 という声と教師の肥満息子の
 「わざわざやったわけじゃないからな」
 という声が何べんも聞こえていた。痛みが減ってきたころには、殴り返したいと思っていた気持ちは、何度も周りから繰り返される言葉にだんだん消えていき本当にそうだったのだろうと納得させられてしまった。そしてこのアクションを合図に、茂樹に聞こえてきた言葉は、
 「もう暗くなったから、帰ろう」
 という酒屋の息子のお開きを意味する言葉だった。茂樹は焼け付くような痛みがまだ熾っている頬を押さえながらそれを聴いていた。
 三人は揃って、頬をまだ撫でながらついてくる茂樹を不安からなのか時々は振り返っていた。茂樹にとっては、その日はもう勉強どころではなかった。もともと教科書を帰宅してから開くようなことは茂樹にはなかったが。
 その三人もこの下総一高にいた。
 なんの感慨もないとは言えない。彼らはここで大学進学のために毎日次の大学受験を目指して机に齧りついているのだろうと思った。
 生徒たちの群れに混ざって歩きながら、こちらの校舎も白亜の鉄筋コンクリートの新築だし、ポプラやプラタナスの樹木も茂り、緑の葉を繁茂させているところもほとんど同じだと思った。ただし校庭が校舎と同じ高さにあるのを見て、曲がないと思った。小高い丘に立ち市街や校庭が坂下に広がる自分たちの高校のほうがよほど素晴らしいと思った。仕方なく受験し、通学する学校であるが、愛着らしいものを感じ始めている自分を茂樹は発見していた。         


 こういう催しにありがちな、例えば全校生徒が体育館に集まって校長同士が挨拶するとか、生徒会長がマイクをもって挨拶するとか、まったくそんな儀式はなかった。あっても茂樹には分らないほどの自由さ、解放さがそこにはあった。生徒たちは気まぐれに、校庭や館内で行われる試合を簡単に見て回れた。
 茂樹はこういうイベント自体が無駄な時間だと思いながら、木陰と校舎の間を目的もなく一人で歩いていた。玲子に会いたい。そんな気持ちが茂樹には執拗に籠もっていた。ただしそれは、自分は安全な位置において、遠くから彼女を一方的に見詰めていたいという種類のものだった。彼女に見つからずに自分だけが彼女を捉え見詰めていたい。実際に声をかけたりするような勇気はまるでなかった。
 下総の黒いセーラー服の女の子たちや海棠一高のモダンな濃紺のブレザーとプリーツスカート、そしてあとはどちらか全く分らない詰襟の男子生徒たちが周りを楽しそうに小さなグループを作って移動していた。
 すると生徒たちの行き交う流れの中に一人の女の子が彫像ででもあるかのように微動だにもせずに彼の前で立ち止まるのだった。その姿は、否応なく彼の視界に飛び込んできた。彼女はまっすぐ茂樹をなんの臆面もなく見詰めていた。彼はちょっとびくっと震えたが、そのまま金縛りにあった状態で一メートルほどの距離を置いて同じようにこの女の子を見つめざるを得なかった。他の何ものにも気を殺がれることなく、彼女はじっと茂樹の目を捉えて離さずに佇んでいるのであった。彼はその強い視線に捉えられ同じように見るだけであった。そしてこれが初めてでないのを思い出していた。
 およそ六ヶ月も前のことであったが、茂樹たちの班は中学校の職員室前の廊下を掃除していた。茂樹も頬を火照らしながら雑巾で廊下を拭いていた。すると、職員室のなかからでてきたらしい女子生徒がぴたりと彼の目の前で歩みを止め動かなくなったのであった。不審に思って立ち上がってその女子を見ると、彼女もあたかもこの世の最後の思い出にでもするかのように異常なほど臆面もなく、彼をじっと息を凝らして見つめているのである。別に睨んでいるわけでもなく、微笑みかけているのでもない。ただじっとこちらが不安になるぐらい彼の視線を捉えて離さず、見つめるのをやめないでのあった。
 この女子生徒のことを彼も一応知ってはいた。確か、成績が良くてスポーツも優秀な子であるはずだった。名前も聞いたことがある。だが、いままで中学校の三年間で一度も一緒のクラスに編入されたことはなかった。
 その同じ彼女がじっと、中学三年生の時と全く変わらない視線と姿勢で彼と対峙しているのであった。彼もそのときと同じく動けないでいた。
 どのくらいの時間そうしていたかは分からないが、そこに通りかかった彼女を知る女子生徒が、他に行くことを促したので、このときも何も話さずなんの表情の変化もなくそれで分かれた。ちらっと彼女は茂樹をもう一度肩越しに振り返ったが、茂樹は相変わらず同じ目付きで見送るだけであった。
 一体今の彼女はなんなのだろうかと不安に思った。あとはただ会わないようにしたいと思っただけであった。
 そして相変わらず自分が知っている誰かとあうかどうかと期待と惧れをもって適当に散歩していたが、あの三人の優等生たちの姿も、一緒に玄武町から列車で海棠に通学する生徒の姿もどこにも見ることはなかった。そして岩本玲子の姿もどこにも見出しえなかった。本当に遠くからだけでも彼女の姿を見詰めていたかったのに……