蝦夷リス

近道への遠回り・数十年前作家になることを考え、特殊な語れる体験がなければと思い日本を後にしました。文壇のなかでのコネなどなかったからです。二十代までは必ずこの癒着がものをいうと信じてきてました。

漫画を描く少年 15 第二のチャンス

 第二のチャンス


 毎年九月には、海棠一高と下総一高とはスポーツによる親善会を開催していた。
 このために一月ぐらい前から、応援の練習をさせられるのであった。この学校のどこにそんな者たちが待機していたのか、無精髭を生やしだらしない格好の、汚れた学生服を羽織った、不良高校生としか言いようがない、あるいは暴力団候補生のような少年たちが放課後に生徒を並ばせては怒鳴り散らし、鉄拳を振るわんばかりの威嚇をしかけたりする儀式が行われるのであった。
 とても不愉快な科目であり、進学校とは思えないしろものであった。それも実際に競技が行われると翌年まではなくなるので助かるのは間違いないが。この暴力団のようなドスの利いた声を唸りだし、威張り腐っている連中が茂樹は大嫌いであり、憎しみさえ覚えたものだった。この一部の連中が
 「お前らのだらけた根性を叩きなおしたる」
 とか、
 「おらおら、ちゃんと腹に力入れて歌わんか」
 などと学校側公認で普通の生徒に罵詈罵声を浴びせる許可がでていることにも彼は厭きれ返り憤りをさえ感じるのだった。
 こういう時代錯誤な旧制高等学校の苔むした伝統などは、茂樹からみて完全に不必要なものであった。なぜ、自分たちがわざわざ罵られるために放課後に校庭の隅に集まり整列して堪えなければならないのか、怒りは膨らむばかりであった。
 それで、我慢ができなくなると髭面の団長とか副団長などと言われている者たちをじっと睨み付けてその時間を過ごすことがあった。あるとき、応援団長の細く鋭い視線とまともにぶつかったが、相手は「うっ」と小さな声をあげてたじろぎ、茂樹を見ただけであった。茂樹が前から二列目に並んで佇んでいたし、そこに睨みあいがあったとは、他のどの生徒も気がつかなかったと思う。


 試合の当日、高校生たちは日帰りの遠足でもするかのように校門前に集合して、次々にやってきたバスに乗り込んだ。座席数はせいぜい五十ぐらいのはずであったが、そんなことは関係なく、そこにいる者から乗れるだけ乗せるという鮨詰め乗車であった。
 もう立ち席として使える空間もないというぐらいバスは一杯であったが、真ん中のドアがまだ開いていて、そこにしかも手招きするクラスメートがいたので、茂樹ともう一人好川が飛び乗った。それからバスはゆっくり動き出したのであるが、ドアはなんとそのまま開いた状態であった。
 ベージュ色の砂とアスファルトの地面が自分の靴のすぐ下で動き始めているのを見て、茂樹は余りにも不可思議で滑稽で、あふれ出すような笑いを抑え切れなかった。思いっきり声をあげて好川と笑っていた。
 それがとても不思議なことであったし、あってはいけないことだった。凄く滑稽に思えて、目の前のドアを指差して茂樹と好川が笑いを押さえきれないでいると、三メートルぐらいの近いところに次のバスを待つ生徒が集まっていたが、その最前列にいるある女の子がそんな私に視線をじっと注いでいたが、思わず顔を綻ばせ口の辺りを掌で隠すのだった。
 彼女はもうおかしくてしょうがないというふうに、意外と楽しそうに声もほとんどださずに破顔していた。それが玲子だと気づいた時に、茂樹は玲子と一挙に蕩けだし合流するかとも思えた。
 茂樹の憧れの玲子であった。それまで、玲子のどこか品を保った押さえた笑顔、自己を律した感情の表出はあっても、このような少女らしい滲み出るような笑い、感情の吐露はそれまで彼女にはみられないことだった。それが、どこか、茂樹に特別な感情を抱いていてそれが零れ出してしまったというふうに感じられた。
 しかも笑顔で一杯の玲子の美しい眼差しは、間違いなく茂樹に注がれていた。
 そして、今まで校舎正門前に入ってくるバスのほうを注視していて背後に誰が並んでいるか全く見回すことも知ろうともしなかったが、茂樹のすぐ後ろには彼女がいたことにこの瞬間に気がついた。
 ところが、ドアが開きっぱなしの状態で移動し始めたバスの中にいて、思わず笑い出していた茂樹をみて、つられるように笑っていたのは、過剰に反応していたのは玲子一人であった。彼女の近くの女子生徒は別にそれほどの反応も示していない。玲子は茂樹が笑っていたから嬉しくなって自分もその笑いに誘われたという感じであった。
 ところがその傍らに体の大きく太った中野がいてきつい顔を茂樹に見せた後、玲子にせっかちに何か話しかけているのが見えた。あたかも諫止でもしているように見えた。なにを玲子に言いつけているのか読唇術をマスターしてなくても分る気がした。その時ドアが外側からぴたりと目の前で嵌って玲子の姿を遮断してしまった。玲子たちがそのあとどんなことになったのかは想像するしかなかった。いや、ドアの閉まる瞬間、玲子のその顔が平手打ちでも受けたかのように青褪めたものに豹変したのを見たと思った。
 そして中野が何を玲子の肩を掴んで鋭く忠告したのかが読み取れたような気もした。
 「あなた知らないの? あの人は古典の先生に夢中なんだから,やめたほうが良いわよ」
 と咎めているように思えた。


 どのくらいの時間が下総市に着くまでにかかったのかわからない。茂樹の頭のなかは今目撃した玲子の反応で一杯であった。それは非現実的な事実であった。ドアの上の小さな窓から、二階建ての家屋の屋根や樹木の上の部分が、そして白雲の浮かぶ青空が意味もなく流れて行くのが見えた。あとはエンジンの音、少年たちのざわざわした、やはり何の意味もなさない雑音が彼を包み体を揺らしていた。
 普通の少年だったら、今見たばかりの玲子の姿を捉えて、次に遇った時には声をかけたりするのだろうかと思った。彼女の気持ちが自分に多少なりとも寄せられていることを、せっかく発見したのである。しかも、彼女の気持ちが多少熱を帯びていて、自分を受け入れてくれる体制が整っているという印象ももった。いや、あの反応はそれ以外のものではない。
 茂樹はどうしたら良いのだろうとここでも考えあぐねるのであった。彼女と何をどういうふうに声をかけていいのかまったく分らないし、たぶん、会話をするようなことになったら、彼女は自分にがっかりするのではないかとも思った。いや、そうに違いないとさえ思えた。彼女自身が抱いてくれている自分に対するイメージと自分とは大変な落差があるに違いなかった。彼女の自分に対する好意も、実際の自分と触れあい言葉を交わすようになったら、絶対に失望するに違いないと思え懼れた。


 海棠市と下総市の長距離をバスに揺られていくことはこれまでになかった。それは列車でも同じだった。やがて茂樹の住む町、玄武にバスはさしかかるはずであった。玲子はこの町をどんな風にみるだろうかと思った。辺鄙な町と見るだろうか。酷い田舎だと思うだろうか。町の中には結城紬の紺色に白く描かれた旗が街中のあちらこちらに立ててあるはずだった。玄武紬と言う人もいるぐらい、この絹地の機織り産業にこの町の人は誇りをもっていた。茂樹の母も義理の叔母もその仕事についていた。バスの中のエンジン音と自分たち自身の騒ぐ声で、内部にいる生徒たちには全く聞こえないであろうが、町の小路を小中学校に通学するときには街中のあちらこちらから機織りの音がバタン、バタンと聞こえてくる。下総市や海棠市と同じで玄武は鬼怒川と小貝側に両側を挟まれていて、そこの澄んだ川の水で酒を作る醸造屋もあった。だが、今の茂樹には殆んど何も見えない。一緒に最下段の狭いところに並ぶ好川も何も言わずに立っていた。


 やがてバスのスピードが急に下がり、高校生で寿司詰めになっているバスが下総市の旧市街に入ったらしかった。茂樹の目の前のドアが開いた。外に下りると、既に他のバスからばらばら降りて移動を開始していて濃紺の詰襟の黒い学生服と濃紺のチョッキ姿で白いブラウスの腕を振り回している女の子や、同じ濃紺の制服に袖を通しながら歩く女の子もいた。みんなはしゃいでいた。これは一種の遠足と変わらないものであった。ただ誰も手ぶらで、書籍も食べ物も持たず、ただ動く列にそのまま加わっているだけであった。バスの停止した場所が下総一高の校門付近に違いないとは想像していたが、クラスの先頭がどこにいるのか全く見えなかった。クラスごとに移動しているのではなく、ごちゃまぜの無法状態であった。そのまま明るい九月の日差しの降る中、茂樹たちも列に巻かれて移動して行くしかなかった。大声で誘導するような教師の姿もどこにも見えなかったし、怒鳴り声が得意な応援団員こそこの場では一役かえたというのに、黒っぽい和服を羽織った彼らの姿もなかった。茂樹たちはレミングのように、前方がどうなっているのか考える余裕もなく、流れに加わって歩いていた。


 下総市では日常見かけることもないちょっと変わった学生服の少年少女たちの列に、数人のおとなたちが立ち止まっては珍しそうに眺めているようなところがあった。これだけ勢揃いして歩く高校生の行列は地元の海棠市でもまず目にすることもなかったはずだった。彼の頭の中はまだ玲子の愛くるしい笑顔で鮮明に支配されていた。そのほかの感情としては、こういう列の中で動いている自分を恥ずかしいと感じていたことだった。おかしなことに、彼の足は前に逃れるように進みたがった。次のバスに乗車した玲子たちが到着する前にかき消えたいと言う気持ちが昇ってきていた。